カオス

  • お互いの内側の森に種を蒔き合う

    責任と影響力

    社会構造に無自覚に過ごした20代の終わりに待っていた人生のちゃぶ台返しを経て、自分が無自覚に及ぼしてしまう権力というものに対して恐怖が芽生えた。

    男性優位社会において「男性」であり、学歴社会において「高学歴」であり、教室で教壇に立っていたりすると、それだけで、権力構造の文脈の中に取り込まれ、自分が好むと好まざるとに関わらず、自分から権力が発動してしまう。

    ヒエラルキー構造において影響力を持つということは、ヒエラルキーにおける上位のポジションを得るということと同義である。影響力は、個人ではなく「立場」から生まれ、上から下へと一方向的に伝わっていくからだ。

    ヒエラルキー構造において、「下の者」は、「上の者」に支配されることを要求される。そして、「上の者」が管理責任を持つことによって、「下の者」は責任を免除される。自分は命令に従っただけで、責任は「上の者」にあると考えることで、行為に対して責任を持たなくてもよいとされるのだ。

    このように、責任や影響力といった言葉には、機械論パラダイムの手垢がべったりとついている。

    それが極まると、アイヒマン裁判で有名なナチスのアイヒマンのように、自分がどのような行為をしても「命令に従っただけなのだから無罪である」というような責任転嫁の感覚に行き着く。

    フォアグラ型教育では、フォアグラ生産者がガチョウのフォアグラの大きさを管理し、責任を持つ。

    ガチョウは、自らの身体の管理を手放し、病気になれば、フォアグラ生産者の責任を問う。

    この構造は、学校教育を通して構築され、社会の様々な場所に浸透している。

    責任

    僕は、フォアグラ生産者として影響力を及ぼしたり、責任を取ったりしたくない。

    そして、ガチョウとして、誰かに責任を取ってもらったりもしたくない。自分の人生の責任を自分で持ちたい。

    権力を行使せずに、他人とどのように関わったらよいのだろうか?

    分断を乗り越えるためには、他人と関わる必要があるけど、影響力や責任と、どのように向き合ったらよいのか?

    そんなことを考えながら、散歩をしていたら、ある気づきが降りてきた。

    お互いの内側の森に種を蒔き合う

    僕が考えていることのすべては、言葉も含めて、すべて外側からやってきたものだ。

    いろんな種が撒かれて、僕の内側に森が繁っている。

    子どもの頃は、きっと森じゃなくて、管理された「畑」だったのかもしれないけど、今じゃ、いろんな植物が繁って森になってきている。

    対話をすると、相手からいろんな種が飛んできて、自分の森に着地し、必要に応じて発芽する。

    自分から出た種も、相手の内側の森に撒かれて、必要に応じて発芽する。

    必要が無ければ発芽しない。

    発芽するかどうかは、宇宙が決めること。

    相手を管理して、相手の内側に無理矢理に種を蒔き、思った通りに育てようとすると抵抗にあう。だからこそ、管理と権力はセットで行使される。

    権力を行使するのではなく、相手から受け取った種を、自分の内側の森で大切に育てていく。

    それぞれが、種を大事に受け取って育てていくという世界を、まず、自分が創っていく。

    そして、「あなたから受け取った種が発芽して、こんなに大きくなりましたよ。ありがとう。」と伝えていく。

    自己肯定感が低いと、自分が周りに与えている影響を認識できない。

    自分が撒いた種が、他の人の内側の森で発芽しても、それが自分の種のはずはないと思ってしまう。

    だから、ちゃんと覚えておいて、「あなたの種が、こんなに大きく育ちました」と伝えていくことが大切だ。

    感謝と共に受け取った影響を伝えていくことで、自分の持つ影響力を認識できるようになり、正当な自己肯定感を取り戻していくことができる。

    これは、そっくり自分にも当てはまる。僕も、「あなたの蒔いた種が、私の内側の森で育ちましたよ。」と伝えてもらうことがあり、そのおかげで、自己肯定感を取り戻すことができる。

    感謝を感じながら、自分の内側の森を育てていくと、多くの果実が実る。

    この果実は、自分が実らせたものではなく、多くの人からいただいた種が森を育み、豊かな土壌生態系を生み出し、森に多種多様な循環が生まれたからこそ実ったものだ。

    だから、「みなさん、ありがとう!みなさんのおかげで、こんな果実が実りましたよー。一緒に食べましょう!」と声に出すことができる。

    そして、そうやって食べる果実は、1人で食べる果実より、何百倍もおいしい。

    内側の森

    共創の世界は、とても豊かだ。

    内側の森には、いくらでも種を蒔くことができ、次々に創造のサイクルが回る。

    若い頃に教わってきた「創造性」は、個人に属するもので、それが、自分に備わっていないことが残念だった。

    でも、そうではなく、「創造性」は、宇宙に備わっているもので、自分の内側の森の存在に気づけば、誰もがアクセスできるものなのだと思う。

    分断の呪縛を解き、内側の森に、お互いに種を蒔き合っていきませんか。

    すでに現れつつある豊かな世界を、一緒に探求してみませんか。

     

     

     

     

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  • 善悪の評価を超えた野原で回る共存在サイクル

    311の後、世界の舞台裏が急に目の前に現れたように感じ、もとの世界には戻れなくなってしまった。

    同じものを見たはずの人たちが、もとの世界で生活を続けているのを見て、孤独感を感じた。

    それまで生きてきた40年間の人生の舞台裏でも、同じようなことが起こっていたのだと思い、自分の人生の意味が変わってしまうような気がした。

    それからの自分は、ずっと怒り続けていた。

    社会システムに対して

    教育システムに対して

    そのなかで生きてきた自分に対して

    311以前の世界を生きている人たちに対して

    怒りのエネルギーを燃料として、問題を掘り下げていくエンジンが回り始めた。

    どうしてこんなことになってしまったのかを突き止めたい。

    自分に対しても、周りに対しても批判の目を向けながら、リミッターを外して、がむしゃらに進んでいった。

    人間を工業製品のように生産する教育システムが、人間の心をどのようにして不自由にしていったのか?

    自分の心には、その影響が、どのように残っているのか?

    人間の心を自由にしていくためには、どのような方法があるのか?

    進めば進むほど、世界の見え方が変わり、それに伴い、自分も変容していった。

    そして、その速度は、どんどん加速していった。

    人間を機械化するプロセスを否定し、ひたすら実験を繰り返しながら生命的に生きるということをやり続けた結果、ついに、そのスピードに身体がついて行けなくなってきた。

    血圧が180を超え、心臓に問題が生じ、首と肩に激しい痛みが出て、身動きが取れなくなった。背中にカッピングをしたら、背中全体がどす黒い紫色に染まっていた。

    仕事を効率化したり、作業を他人に代行してもらったりせざるを得なくなった。

    試行錯誤を通してプロトタイプを創る工房パラダイムを肯定し、大量生産をする工場パラダイムを否定してきた自分が、この両者を統合する必要が出てきた。

    そんなとき、『かかわり方の学び方』という本を読んだ。

    そこで、工房パラダイムから、工場パラダイムへと連続的に繋がるグラフと出会った。

    そのグラフを見ながら、工場パラダイムが極まったら、成功体験を手放してパラダイムシフトを起こして、工房パラダイムを最初から始めるはずだと思った。そして、ペンを取り出して曲線を引いてループを作り、Uプロセスと書き込んだ。

    それを見ているうちに、工房、工場、変容は、どれも、生きていくために必要な要素なのだということが、じわーっと認識されてきた。

    共存在サイクル

    どれかが善で、どれかが悪なのではなく、それぞれが違う評価軸を持っているから、多様な人たちが生きていけるのだと思った。

    共存在サイクル表2

    311の後、ずっと自分の中にあった怒りの奥にあったものが何だったのかが見えてきた。

    怒りの奥にあったのは、人間が人間らしく生きるということを大切にしたいという気持ち。

    それを実現するための手がかりを掴めたことで、自分がやってきたことに意味があると感じることができた。

    ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーは言う。

    「間違った行ないと正しい行ないを超えたところに野原が広がっています。そこで逢いましょう」

    ルーミーは、この野原へ到達するために、どれだけの痛みを乗り越えたのだろうか?

    大きく左右にぶれるからこそ、バランスが取れる中心を見いだすことができるのだと思う。

    共存在サイクルは、誰も否定せず、優劣を作らず、水平に回る。

    これは、ルーミーが待っている野原で回るサイクルだと思う。

     

     

     

     

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  • 生命論的パラダイムにおける安心感とは何か

    生命論的パラダイムで生きるという挑戦を続けている。

    挑戦を本格的に始めてから半年が過ぎ、「生命論的パラダイムで生きる」ということが、どういうことなのかが少しずつ見えてきたので、ここにまとめておく。

    機械論的パラダイムにおける安心感

    生命論的パラダイムについて語る前に、機械論的パラダイムについて語っておきたい。

    機械論的パラダイムの特徴は、過去の延長線上に未来が存在することである。

    自然界も人間も、すべてが「予定通り」に動き、秩序が維持される。

    その前提があるからこそ、過去のデータの集積から法則性を見いだし、それを未来に適応していくという戦略が意味を持つ。

    機械論的パラダイムの敵は、故障、エラー、誤差などの不確定要素である。

    それらが存在しないことによって秩序が維持され、その秩序が未来に対する不安を軽減し、「機械論的安心感」を与える。

    終身雇用が成立していた時代は、問題を起こしさえしなければ、身分と収入が保証され、長期の住宅ローンを組むことができた。

    しかし、現在は、そのような保証をしてくれる企業は減り、「機械論的安心感」を得ることが、どんどん難しくなっている。

    成功法則はすぐに陳腐化して使えなくなる。

    「機械論的パラダイムにおける安心感」を求めても、その試みの多くは失敗に終わり、不安が増大していく。

    では、いったいどうすれば、今の状況の中で、安心感を持って生きることができるのだろうか?

    生命論的パラダイムにおける安心感

    自分自身が森の中の1本の木であることをイメージしてみよう。

    自分が木として、枯れずにいられるのは、自分が未来を予想し、その予想通りに森の生命活動が行われているからではない。

    自分も含めた森の生き物が、生命活動を躍動させていれば、様々な循環が生まれ、自分も森も生きていけると確信できるのではないだろうか。

    そこに生命論的パラダイムにおける安心感の手がかりがある。安心感の根拠は、予想ではなく、生命の躍動なのだ。

     

    2016年4月頃、私は、本当に迷っていた。

    その頃の私は、右足を機械論的パラダイムに乗せ、左足を生命論的パラダイムに乗せていたのだ。

    心の中では、生命論的パラダイムに重心を乗せたいと思っているが、それでどうやって生きていけるのかが見えないことが不安で、なかなか思い切ることができなかった。

    一方、自分を長期間支えてきた機械論的パラダイムにも陰りが見えてきて、同じことをやっても収益が上がらない状況になりつつあった。

    迷いに迷った末、確信は持てないまま、生命論的パラダイムに全重心を乗せることにした。先が見えないから不安だという考え方そのものが、機械論的パラダイムにおける不安感だと思ったのだ。

    全重心をかけると、見えてくる景色が一変した。半分だけ重心を乗せているのと、全重心を乗せるのとでは、全く違うのだ。

    半分だけ重心を乗せていたときは、リスク管理をしていたが、飛び込んでしまった以上、向こう岸まで泳ぎ着かなければ死んでしまうので、自分の中の「生きる力」が立ち上がり、必死になって泳ぎはじめたのだ。

    自分のマインドセットを生命論的パラダイムに切り替えるために、毎月10万円使っていた広告費を、すべてペイフォワード予算に振り替えることにした。

    広告は、過去のデータを下に反応率を計測し、反応率がよいものへと改善していくものだが、その結果として、消費者マインドを強く持った人が集まってくる。それが、旧パラダイムの象徴のような気がして違和感を感じ始めたのだ。

    ただし、単に広告を止めただけでは、人が来なくなるだけだ。考えた末に、広告とは180度違うことにお金を使おうと思った。それが、「ペイフォワード予算」だった。

    自分の周りに循環が生まれ、その循環によって自分が生きていけるようになることを意図したとき、まずは、自分からはじめようと思った。

    とはいえ、毎月10万円、見返りを求めずに、感謝と応援に使っていくというのは、なかなか難しいことだ。

    だからこそ、毎日のように、自分は、どこに感謝を感じているか、世界のどこを応援したいと思っているか・・と真剣に考え、払う先を決めて払っていく。

    2016年5月から7ヶ月間やってみた結果、素晴らしい気づきを得た。

    機械論的パラダイムにおける不安の源は、不確定要素であったが、生命論的パラダイムでは、不確定要素こそが創造の源になるのだ。

    自己組織化が起こるターニングポイントは、ゆらぎが広がらずに消失してしまうか、増幅されて渦が広がっていくかどうかにある。そのような活性化した場が周りにできていれば、創造の渦が巻き起こっていく。

    自分の周りの場を活性化させ、ゆらぎが増幅されて広がっていくようになれば、自分は生きていくことができる。「ペイフォワード予算」は、自分の周りの場を活性化させるための投資だと考えると、全く非合理的な行動だと思っていたものが、合理的な行動だと思えてきた。

    多くの人とコミュニケーションを取りながら生きていると、ちょっとした思いつきや提案などがやってくる。

    それらの多くは、計画に従って動いているときには無視されるような小さなゆらぎである。

    しかし、それを無視しないで、片っ端から増幅していくと、毎週のように新しいプロジェクトが立ち上がるようになる。

    ゆらぎを無視しないだけでなく、増幅していくのだ。そうすると、共創造のサイクルがどんどん回り始める。

    不確定性は増大し、1ヶ月後に自分が何をやっているのか全く予想できなくなる。

    ただし、それは不安ではない。

    こんな頻度でプロジェクトがニョキニョキと立ち上がっていくのであれば、生命の躍動に支えられて生きていくことができるはずだという安心感があるのだ。

    私は、これを「生命論的パラダイムにおける安心感」と名づけた。

    半年前、「機械論的パラダイムにおける不安」を強く感じておびえていた私は、異なる種類の安心感を手に入れた。

    最近は、予想の付かない展開に次々に巻き込まれるようになってきた。

    未来は、余計に予想不可能になってきた。

    しかし、それは、不安ではなく希望である。

     

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  • 粘菌を通して考える生命論的パラダイム

    20年前に粘菌と出会ってから、粘菌は、自然の摂理について考えるときのプロトタイプとして僕の頭の中にずっと存在し続けています。

    粘菌にはたくさんの種類がありますが、単細胞アメーバが合体して移動体を形成する細胞性粘菌と、多核単細胞の巨大アメーバを形成する真正粘菌が有名です。

    細胞性粘菌は、もともと生物の形態形成や分化比率制御のプロトタイプとして多くの研究者によって研究されてきた生き物ですが、粘菌の生態には、もっと広い意味での生きることの様々な側面が凝縮されていて、たくさんのことを教えてくれます。

    真正粘菌は、ネットワークを形成し情報処理をしたり学習をしたりすることができ、思考の原形を見せてくれます。

    生命論的パラダイムについて考えていく上で、粘菌というプロトタイプを頭に置きながら思考することは、たいへん有効なのではないかと思います。

    場との相互作用で生まれる渦

    大学院時代に僕が取り組んでいたのは、細胞性粘菌アメーバの集合のメカニズムでした。

    細胞性粘菌アメーバは、バクテリアを食べ尽くすと飢餓状態に陥り、cAMPという情報伝達物質を分泌するようになります。このアメーバ細胞は、cAMPに対する受容体を持っていて、自分や他のアメーバが分泌するcAMPの量が一定の閾値を超えると発火して、cAMPをドバッと分泌する性質を持っています。

    これは、ニューロン細胞とよく似た性質で、非線形振動子としてモデル化することができます。

    非線形振動子は、パラメーターによって、外から刺激を与えたときに発火する興奮性を示す状態と、外から刺激を与えなくても自律振動する状態とを取ることができます。

    僕が研究していた20年前は、ペースメーカーと呼ばれる自律振動するアメーバ細胞がいて、その周りに興奮性を示すアメーバ細胞がシグナルをリレーしながら集まってくるという説明がされていました。

    僕は、どうしてもこの説明に納得がいきませんでした。

    生物の発生の根本には、最初は同じ細胞であるにも関わらず、相互作用によって自発的に対称性が破れ、役割が分化していくという性質があると考えていたので、「じゃあ、ペースメーカーは、どうやって誕生したんだ?」と思ったのです。

    それで、「すべての細胞が同じであるにもかかわらず、自律振動する細胞と、興奮性を示す細胞が現れるメカニズムとは何か」ということを考えました。

    それで見つけたのが、興奮性を示す細胞の密度を大きくしていくと、あるところで、みんなで自律振動するようになるということでした。

    タイミングがそろって、ドバッとcAMPを出すようになると、場に溢れだしたcAMPの瞬間的な量が大きくなり、閾値を超えてそこにいるアメーバ細胞が発火できるようになるのです。そして、再びcAMPをドバッと出す・・・というのが繰り返されていきます。

    1つのアメーバ細胞では自律振動できなくても、周りにアメーバ細胞がいて、お互いに引き込みながら同時に振動しているからこそ、自律振動できるというメカニズム。

    僕は、これこそが生き物の本質を表しているのではないかと思いました。

    今年になってから、清水博さんの『<いのち>の自己組織』を読みました。

    清水さんは、物質が示す対流のような自己組織と、<いのち>の自己組織とを区別して論じています。

    清水さんが言う<いのち>の自己組織とは、個体が自分の<いのち>を場に投げ込んでいった結果、場に<いのち>のドラマが起こり、そのドラマから個体が「活き」を受け取っていくというもので、清水さんは、それを、与贈循環と呼んでいます。

    与贈循環については、こちらをご覧ください。

    この本を読んだときに、細胞性粘菌のcAMPの分泌によるパターン形成と集合のプロセスは、まさに、与贈循環を表しているものだと思いました。

    細胞性粘菌の集合メカにズムを知っていたおかげで、与贈循環という概念を深く理解することができたのです。

    粘菌アメーバが集まってくると、密度が高い領域が生まれ、そこから外側へ広がるcAMPの渦が生まれます。

    粘菌アメーバは、コミュニケーションと移動を通してシグナルを増幅していき、渦を生み出し、渦の中心へと集まって合体するのです。

    その壮大なドラマをこちらの動画で見ることができます。

    胞子から発芽して、アメーバになり、集合して他細胞体である移動体になり、子実体を形成するまでの動画

    集まっている様子を上から見た動画

    集合期に発生するcAMPのらせん波の渦

    細胞性粘菌からは、多くのことを学ぶことができます。

    インターネットが発達し、オンラインでコミュニケーションを簡単に取れるようになったことで、人と人との間を情報が飛び交うようになってきました。

    粘菌アメーバが、飢餓状態になることでスイッチが入るように、僕たちも東日本大震災の後の危機感によりスイッチが入り、想いがシンクロし始めているのではないかと思います。

    ただし、僕たちは、粘菌アメーバの1つのような視点で社会を捉えており、自分たちを取り巻く状況を俯瞰することはできません。

    時代の変革期の中で、局所的で限定された情報しかない中で渦を起こしたり、渦に巻き込まれたりするような存在なのです。

    その位置から感じ取れる限られた情報の中で、重要な意味を持つのが、シンクロが起こる頻度です。

    頻繁にシンクロが起こる方向へ進むことで、より大きな渦を起こしたり、巻き込まれたりしていきます。

    シンクロを頼りに、右往左往しながら、徐々に形成される渦によって生まれる動きは、プロパガンダによって外部から誘導される動きとは全く異なるもので、自然の摂理に基づいた<いのち>の自己組織化現象です。

    私たちの身体も自然の摂理に従っており、それを発動させることで、大きな渦が起こっていくのではないでしょうか。

    粘菌アメーバが合体し、多細胞体を形成して長距離を移動していく様子は、まさにパラダイムシフトをイメージ化したものではないかと思います。パラダイムシフトを目指す僕の活動は、細胞性粘菌に導かれるように進んでいるような気がします。

    外発的動機付けによる線型化のプロセス

    真正粘菌は、多核単細胞でありながら、脳と似た構造を持ち、学習や記憶などの知的能力を示すことができます。

    自然に近い状態では、真正粘菌はフラクタル的な複雑な形態をしており、探索行動と選択のバランスを取っています。

    各部分は、非線形振動子と見なせる構造を持ち脈動し、脈動に応じて細胞質流動が起こります。そのメカニズムが統合されることで、複雑な情報処理と変形や移動、学習を可能としているのです。

    その仕組みは、おおざっぱに言うと、次の通りです。

    真正粘菌の一部に餌を接触させると、その部分の非線形振動の振動数が大きくなり、その部分から他の部分へ波が伝わっていき、その波動のパターンが細胞質流動を生み出し、餌を取り囲むように全体が移動してきます。

    一方、青い光などを一部に当てると、その部分の非線形振動の振動数が小さくなるため、波は、光を当てた側と遠い側から伝わるようになり、青い光から逃げるように移動し始めます。

    このように細胞に与えられた外部刺激を非線形振動のネットワークがパターンとして統合し、そこから変形や移動を起こして、意味のある行動を、その時々で創りだしていくのです。

    これを社会のメタファーと捉えると、各個人が学習回路を正しく作動させ、それらが有機的に繋がることで、社会全体として複雑な情報処理をすることができ、自然と調和状態に到達するというように考えることができます。

    これは、論語の「学習に基づいた社会秩序」の考えと非常に近いイメージだと思います。

    粘菌の知的能力を実験するために、しばしば粘菌に迷路を解かせる実験というものを行います。

    迷路の2カ所に餌を置くと、その2カ所を結ぶ最短距離に粘菌は線上に分布するようになります。

    この迷路実験は、見方を変えると、複雑で豊かな活動をしている生命に対して、強烈な外発的動機付けを施し線形化していくプロセスを表していると捉えることができます。

    文字通り「線形化」されてしまった粘菌は、自由度を減らし、刺激に対して決まった応答を返してくる理解可能な単純な系へと縮約されてしまいます。

    これは、外発的動機付けによって生命を制御可能なものにしようとしてきた工業主義的農業や畜産業を思い起こさせるものです。

    学力テストを用いたアメとムチによる条件付けにより、子どもを線形化していく教育とも通じるものです。

    真正粘菌もまた、様々な示唆を与えてくれる存在です。

    (追記)

    2016年に実施した「生きるための物理~真性粘菌に学ぶ生命論的パラダイム」の後、手続き的計算と創発的計算について考えていたところ、ソフトウェア工学の専門家である山崎進さんが、次のような問題提起をしてくれました。

    記述や計算の限界を考える上で興味深い問題提起なので、これについて、引き続き考えていきたいと思います。

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  • 生命論的パラダイムを非線形的に語っていく

    2ヶ月前に深尾葉子さんの『魂の脱植民地化とは何か』と出会い、仲間と集まってダイアログをしたり、オンラインのイベントをやったりし始めた。安冨歩さんとも繋がり、『生きるための論語』や『神秘的な合理主義』を読み、高知大学の集中講義をZoom配信した。

    そうしているうちに、自分の中の扉のいくつかが開き、眠っていたものが動き始めた。

    その中の一つが、「非線形現象」である。

    線形(=直線的)に対して、非線形は、「直線的ではないもの」を意味する。

    線形システムでは、入力値を連続的に変化させると、出力値もそれに比例して連続的に変化するが、非線形システムでは、入力値を連続的に変化させているのにもかかわらず、ある閾値を超えると出力値が不連続に変化する。

    その身近な例が相転移である。水の温度を連続的に上げていくと、ある温度で突然、対流が起こり始め、温度を更に上げていくと、対流は乱流へと変化し、100℃で沸騰する。このように、入力である温度変化を連続的に変化させているのにもかかわらず、出力が不連続に変化するのが非線形現象の特徴である。

    また、カオスを含む非線形システムでは、入力値のわずかな差異が、時間発展と共に指数関数的に拡大していくため、現実的に未来を予想不可能になる。

    線形振動(サインカーブで表せる振動)が、重ね合わせの原理に従うのに対し、非線形振動は、お互いに引き込み合って同期する。

    このように、線形現象と非線形現象には、大きな違いがある。私たちの身の回りは、非線形現象に満ちあふれており、その一部を切り取れば、線形現象として見なせるということに過ぎない。

    非線形現象との出会い

    大学3年生のとき、J・クリックの『カオス~新しい科学を作る』を読み、自分はこの分野に進もうと決意した。

    カオスが決定論的世界観の限界を示していることを知り、そこにパラダイムシフトの種を感じてワクワクしたのだ。

    そして、生命現象を、非線形現象として理解しようとする研究を始めた。

    魂の脱植民地化シリーズを先導している安冨歩さんとは、20年前に京都で行われた複雑系の研究会で一緒だった。当時、私は、物理学科の大学院生で、細胞性粘菌の数理モデルの研究をしていた。研究のヒントを得るために、東大や京大で行われる研究会に足繁く通っていた。安冨さんの研究発表を聞いたのは、京大で行われた研究会だった。東京から夜行バスで行ったため、寝不足の頭で必死に理解しようとしていたことを覚えている。

    安冨さんは、物々交換のプロセスの中から対称性の破れが起こって貨幣が形成されるという研究発表をしていた。経済学をこのような手法で研究することが可能だということがとても新鮮で面白く感じたことをよく覚えている。

    人生は非線形現象である

    その後、私は大学院を中退して物理の予備校講師になり、オンラインの予備校を作ったり、反転授業の研究というオンラインコミュニティを作ったりと、非線形現象や複雑系とは、直接関係のない活動をしてきたが、その間、自分自身の思考の枠組みが大きく変化し、それに伴って世界の見え方が劇的に変化するということを2度体験した。

    最初の大きな変化は、学生結婚した妻が病気になったことをきっかけに大学院を中退したときに起こり、2回目の変化は、東日本大震災をきっかけに起こった。

    思考の枠組みの変化が起こる過程では、一時的に混乱状態に陥るが、その状態を自分自身で把握するのに非線形現象に対する理解が役立った。恩師の「カオスには世界をサーチする力がある」という言葉は、最初の大変容のプロセスのときに心の支えとなった。

    大学院で研究のための知識として学んだ非線形現象の知識は、いつの間にか変化に満ちた人生を言語化するためのツールへと役割を変えた。

    20年ぶりに安冨さんと巡り会い、安冨さんが書いた「合理的な神秘主義」を読み、その中に「非線形哲学」という言葉を見つけたときに、今自分がやろうとしている生命論的パラダイムの構築に、非線形現象の知識を生かせることに気づいた。

    それは、あたかも使われるのを待っていたかのように自分の中に存在していて、そのことに感動してしまった。

    生命論的パラダイム

    反転授業に取り組むようになり、それが、教育システムのパラダイムシフトに関わるムーブメントであることに気づいた。

    産業化社会は、線形的思考によって作られている。線形現象というものは、本来は非線形現象に満ちあふれた世界を、線形近似したにすぎない。実験室では、単純理想化した環境を作り、線形的に理解できる状況を人工的に作り出す。

    線形的に単純な因果律で理解したいという精神が、実験室という人工的な世界を作りだし、その中で起こった現象を線形的に理解しているのだ。

    非線形現象を線形的に理解するためのは、外部との相互作用を断ち切って空間的に隔離した密室を作り、循環的な時間の一部を切り出して直線的な時間と見なし、その時間の前後に因果律を見いだす。

    そして、その因果律が、実験室内で再現可能であることをもって「科学的である」と主張し、実験室内の結果に基づいて得られた結果を、適用範囲外の実験室の外の世界へ当てはめていく。

    線型的に理解したいという精神が、非線形な世界を線型に理解可能な形に歪めた上で、「理解した」と宣言するという倒錯がここにはある。

    この構造は、学校の教室にもそのまま当てはまる。

    非線形現象の塊である子どもを、外部の相互作用と遮断した教室という密室に隔離し、入力に対して決まった応答を返す線形システムとして扱えるように管理していく。

    子どもの非線形性に寄り添うのではなく、子どもを「線型化」していくことは、暴力的なのであるが、それが、あまりに蔓延してしまっているので、その暴力性には気づきにくい。

    暴力性の度合いを強め、子どもに対する管理を強めていくほど、子どもは均質化し、決まった応答を返すようになる。その入力ー出力関係の再現可能性を根拠に、「科学的に」教育システムが成功していることを主張するのが、工業社会における教育システムではないだろうか。

     

    非線形的な語り

    先日、私の扉を開いてくれた深尾葉子さんと安冨歩さんの2人とZoomで話をする機会があった。

    深尾さんが現在執筆中の論文について議論相手としてお役に立てればということで参加した。

    fukao04

    その中で、安冨さんが語っていた言葉

    非線形性にこだわって、非線形な語りをしていく。

    が、とても印象に残った。

    生命論的パラダイムは、非線形現象である生命に寄り添っていくものになる。

    そこでは、線型的な理解をするために現実を歪めるのを止め、非線形現象を非線形なまま語っていくことになるはずだ。

    人間の頭に理解しやすくするために世界を歪めていく暴力が、地球環境と人間の魂を傷つけている。

    線型的な思考からは、地球と魂を癒やす知恵は産まれてこないだろう。

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  • 生命論的世界観は、機械論的世界観を内包する

    パラダイムシフトという言葉には、恐れがつきまとうように思う。

    新しいパラダイムに移行したら、過去のパラダイムに生きていた自分の人生を否定しなくてはいけなくなるような気がするからだ。

    新パラダイムVS旧パラダイムの対立の末、新パラダイムが勝利し、旧パラダイムに生きていた人たちは敗者となる・・という漠然とした恐れが、パラダイムシフトを妨げる抵抗力になっているように思う。

    僕自身も、このイメージにはまっていたのだが、最近、ふとしたことでここから抜け出すことができた。

    そのきっかけとなったのが、『合理的な神秘主義』を読んだことだった。

    世界は非線形現象で満ち溢れている

    この本から得た気づきが、自分の思考の枠組みに雪崩現象を起こしたということを説明するために、自分の背景について書いておく。

    自分についての話は、大学3年生のときのカオス理論との出会いから始まる。

    『合理的な神秘主義』を読みながら、カオス理論と出会ったときの衝撃が何だったのかを思い出していた。

    一番衝撃だったことは、「世界は非線形現象で満ちあふれている」ということであり、その一部分を切り取って直線として近似する理由は、直線でないと手で計算できないからだという事実だった。

    変数間の関係を直線で表すことができれば、「線形性」という性質を使うことができ、自由に分離したり、重ね合わせることができるようになる。つまり、デカルトが方法序説で述べた「分析と総合」の手法を適用できるようになるのだ。

    senkei

    「分析と総合」の手法を使うことができれば、複雑な現象でも単純な要素の重ね合わせとして理解できるようになるので、すべての原因を要素へ還元する要素還元主義が成り立つように見える。

    しかし、重要な点は、この話は、非線形現象に満ちあふれている世界の一部を近視眼的に切り取るところから始まっていることだ。コンピューターが登場し、近視眼的に切り取った世界のちょっと外側の世界を見ることができるようになったとたんに、近視眼的に切り取った世界の内側で理解したことを、外側に適用できないということが分かってきた。その象徴が「カオス」という現象なのだ。

    人間の細胞を寄せ集めても人間にならないように、要素の集合体としては理解できない全体がある。

    分割してしまうことによって失われてしまう全体性が確かに存在し、そこでは、分析と総合が不可能になる。

    外側と隔離した実験室の空間の中に人工的に創り出した線形現象を、現象を記述でき、実験で再現可能であることを根拠に真実と認め、適用限界を超えて実験室の外側へ拡張していったのが、機械論的世界観なのではないかと思う。

    いったん前提ができあがると、矛盾にぶつかるまで進み続ける。ニュートン力学の確立をきっかけに始まった機械論的世界観は、20世紀には世界中を覆ったが、その歪みが無視できなくなってきており、前提が問い直される時期が来ている。

    機械論的世界観の内側から生まれた矛盾が、カオス理論であり、量子力学である。また、外側に生まれた問題が、地球環境問題であり、アレルギーや食の問題であり、高い自殺率の問題であろう。

    非線形現象に満ちあふれた世界に、強引に線形哲学を押しつけていった結果、実験室の外部である地球や、私たちの身体が悲鳴を上げ始めているのだ。

    未来予想プロジェクトが成り立つ前提とは?

    機械論的世界観が生み出したものの中で最も世界に影響を与えたものは、「未来は予想できる」という考えなのではないか。

    実際の世界を、観測によって記述世界の中に写し取り、記述されているものの間に帰納的に法則を発見し、その法則を演繹的に未来へ適用することによって未来を予測するわけだが、この物語が見落としているものはなんだろうか?

    『合理的な神秘主義』は、機械論的な世界観が無視している「語り得ないもの」について取り組んできた哲学者たちの思考をたどっていく本だ。

    安冨さんは、それらに「非線形哲学」と名づけている。このように名づけてくれたおかげで、非線形現象の解明に20代のほとんどを費やした僕自身の様々な思考の断片を、現在の活動と結びつけて、生かせるようになった。

    「語り得ないもの」とは、魂の作動のことであり、内在的世界のことである。

    機械論的世界観を、生命で満ちあふれる地球上で展開していくときに、記述世界の中に写し取られずに捨てられるのが、魂の作動であり、私たちを含む生き物の内在的世界である。

    実際の世界を記述世界に写し取った瞬間から、未来予想へのプロジェクトがスタートする。記号操作が示す未来が、私たちの不確定性に対する不安を減らしてくれるのだ。

    ここで、記号操作による未来予想が的中するための前提条件は何だろうか?

    それは、記述と記述されたものとが、一致し続けていることである。

    「あなたってやさしい人よね」と言われても、未来に渡って優しくあり続ける保証はないのが人間である。

    魂の作動は、記述できないものであるため、私たちの生命活動は、ある時点で記述されたものから逸脱していく。機械論的世界観が無視している「語り得ないもの」の働きによって、記述されたものと現実との間の乖離が広がっていき、それが、未来予想プロジェクトを破綻させる原因となるのだ。

    じゃあ、未来予想プロジェクトを成功させるためにはどうしたらよいのだろうか?

    そのためには、私たちが、魂の作動を抑え込み、記述されたとおりに振る舞い続ければよいのだ。

    そうすれば、未来予想プロジェクトは予定通りに進み、私たちは未来に対する不安を感じずに日々を送ることができる。

    しかし、そのためには、記述された「現代社会に住む人間の生き方マニュアル」に沿って、すべての人間が行動することが必要であり、そこから逸脱する人は、未来予想プロジェクトを脅かす存在として排除しなくてはならないのだ。

    このように、機械論的世界観に基づいた未来予想プロジェクトは、生き生きとした生命活動を抑制することと不可分な関係にある。

    たとえば、農業は、植物の生命活動から収穫物を得る営みであるが、ここに未来予想プロジェクトを適用しようとすると、不確定要素である「生命らしさ」を徹底的に排除していくことになる。その行き着く先が、工場における無菌の水耕栽培である。ここでは、植物は、環境応答能力を単純化され、決められたインプットに対して、決められたアウトプットを返す「物質」と化し、予定された通りの野菜が、再現可能な形でできあがる。

    植物は、本来、土壌における炭素や窒素の循環の中で育つ。そのような循環構造は、まさに非線形現象であり、常にゆらぎながら調和を保ち、それが、ホメオスタシスに繋がっている。

    未来予想プロジェクトは、循環の環を不確定要素として断ち切り、単純な線形応答系として捉えられる環境に植物を追い込んでいく。

    ここで考えたいのは、私たちが受けてきた教育、社会秩序にも、このような未来予想プロジェクトが展開されており、その中で、私たちの魂の作動は、未来予想プロジェクトを破綻させる原因になるものとして抑え込まれているのではないかということである。

    安冨さんは、「語り得ないもの」である魂の作動を直接語ることはできないが、魂の作動を抑え込む仕組みについては、語ることができると言い、「魂の脱植民地化」シリーズを展開している。しかし、『合理的な神秘主義』は、「語り得ないもの」をテーマに取り組んできた人たちの歩みを扱っており、より直接的に「魂の作動」へ近づこうとしている挑戦であるように思う。

    未来予想に安心を求めず、魂の作動に従って生きる

    未来の不確定性に対する不安が、未来予想プロジェクトを生み出し、そのプロジェクトが生き生きとした生命活動を抑え込むという本末転倒な状況から抜け出す道はあるのだろうか?

    そのヒントは、自然界の生き物は、未来を予想しないのにもかかわらず、調和を達成しているというところにあるのではないだろうか。

    火山灰に覆われた荒れ地には、いつしか雑草が生え始め、雑草の命の循環が土壌を創り出し、より大きな植物の生育を可能にしていき、いつしか、森となり、豊かな生態系の循環を生み出していく。

    私たちも生き物である以上、このような生態系を生み出していく機能を身体に備えているはずだ。

    ゆらぎに対して敏感に反応し、学習回路を回していくと、同期現象や、分化現象などが起こり、循環構造が自己組織化して、その中で生きていけるようになる。

    未来予想プロジェクトから外れていくときには、「それで生きていけるのか?」という恐怖が生まれる。

    未来予想プロジェクトが破綻しないように、いつの間にか自分の中に埋め込まれている恐怖で縛る仕組みが発動するからだ。

    しかし、そこから抜け出すことからすべてが始まる。

    さんざん躊躇したあげくに一歩を踏み出した自分にとって、『合理的な神秘主義』に登場してくる哲学者たちの生き方は勇気を与えてくれ、その知恵が確信を与えてくれる。

    そして、自分自身が情熱を傾けてきた複雑系の分野での研究が、非線形現象に対する暗黙知として自分を支えてくれている。

    線形哲学は、非線形哲学に内包されている。

    それは、ニュートン力学が、相対性理論に内包されているのと似ている。

    パラダイムシフトは、機械論的世界観の否定によって起こるのではなく、機械論的世界観の適用範囲を超えた濫用がもたらしているものの存在に気づき、不確定なものを過剰に恐れずに生き物が非線形現象によって自己組織化する循環の存在を信じ、自らを循環の中に投げ込んでいくことで起こるのではないかと思う。

    それは、生命論的パラダイムの一次近似として、機械論的パラダイムが限定的に利用される世界なのではないだろうか。

    自分がどこに存在していて、どこに進もうとしているのかが、『合理的な神秘主義』を読んだことでクリアになった。

     

     

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  • アクティブ・ホープ(2):大転換

    ジョアンナ・メイシー、クリス・ジョンストン著『アクティブ・ホープ』についての感想を連載している。

    この本は、社会を変えていく活動の道標になる本だから、単に内容を紹介するのではなく、本で紹介されているワークを実際にやりながら、それが自分にどのような変化をもたらしているのかを報告していこうと思う。

    世界を覆う3つのストーリー

    この本は、3つのパートから構成されている。

    「パート1 大転換」は、どのようにして、日常生活を送っている普通の僕たちが、冒険の旅へ旅立つことになるのかを明らかにしている。

    著者は、3つのストーリーが現在進行中だと言う。

    ・ストーリー1 「これまで通り」

    ・ストーリー2 「大崩壊」

    ・ストーリー3 「大転換」

    僕も含めて、多くの人の初期設定は、ストーリー1だ。

    僕達は、自分の周りにある情報から世界観を作っている。

    メディアや教育によって伝えられている情報をもとに世界観を作っていくと、次のような「これまで通り」物語を信じることになる。

    ・繁栄のためには経済成長が欠かせない。

    ・自然とは、人類の役に立つよう利用するものである。

    ・消費の促進は経済を発展させる。

    ・筋書きの中心にあるのは「人より前に出る」ことである。

    ・自分たち以外の民族、国、生き物の問題は自分たちが関知することではない。

    ※『アクティブ・ホープ』より引用

    学校教育の中では、偏差値によって一元化された価値観に基づいた競争が行われ、学歴によって序列化される。

    学校を卒業するとお金によって一元化されたヒエラルキーが存在し、その上位のポジションを占めるための競争が始まる。

    大観衆の中で脇目も振らずに走っている競走馬には、レース場の外のことや、レース場を運営している仕組みについて考えている余裕はないのだ。

     

    だが、何かをきっかけに、このバカ騒ぎの輪の外へ出ると、全く違う景色が見えてくる。

    きっかけは様々で、受験に失敗したことだったり、就職に失敗したことだったり、病気になったことだったり、災害にあったことだったり・・・・。

    自分自身がシステムの一部として動いているときは感知できなかったシステムそのものが、システムから弾き飛ばされたり、システムが故障したりしたことで、突然、目の前に現れてくるのだ。

    僕自身は、生まれてから28歳で大学院を中退するまで、脇目も振らずにレースに参加していた。

    先頭集団にいることに誇りを感じ、途中で脱落していく人たちに目もくれず、少しでも順位を上げるために全速力で走っていた。

    家族のトラブルで大学院を中退し、レースを棄権してレース場の外に出てはじめて、自分がどのようなレースに出走していたのかを理解することができるようになり、誰かが決めたレースに出走するのではなく、自分の足で進む方向を決めて、自分のペースで歩き始めた。

    レースに勝つことが幸せだと信じて生きてきた僕が、レース場の外に幸せを見つけようと動き始めるためには、5年以上の年月が必要だった。

    そして、レース場から離れた場所に、ささやかな自分の居場所を見つけて穏やかな生活を始めた。

     

    レース場とその周辺世界が、より大きなシステムの一部だということに気づいたのは、東日本大震災のときだった。

    津波と原発事故によって、自分を取り巻くシステムに亀裂が入り、その存在が、突然に目に入ってきた。

    現実を見つめることは、それまでの穏やかな生活には戻れなくなることを意味しており、新たなカオスへの突入を予感させた。

    自分を取り巻く社会システムについての探求が否応なくスタートした。

    それまで強固な地盤だと信じていたものが、簡単に崩壊する可能性があるものだと思うようになった。

    自分自身や、自分の子どもの世代がどのように生きていったら幸せになるのか。

    またもや見えなくなった。

     

    『アクティブ・ホープ』には、「これまで通り」物語の外に出てしまった人たちは、システムの持続可能性に疑問を持ち始め、不安に襲われる様子が書いてある。

    ・経済の衰退

    ・資源の枯渇

    ・気候変動

    ・社会的な分断と戦争

    ・生物種の大量絶滅

    ※『アクティブ・ホープ』より引用

    これらは、311より前は、自分にとって、どこか他人ごとで、遠い世界の話に過ぎなかった。

    しかし、社会システムについて考え始めてから、大きな因果関係と自分の生とが、密接に結びついていると感じるようになり、それらを自分と切り離せなくなってきた。

    それは、同時に、社会の様々な問題が自分の上に重くのしかかってくることを意味していた。

    個人で取り組むには大きすぎる問題に対面して、どうしたらよいか分からなくて無力感を感じた。

    かつてのような安心感を持って生活するために、社会システムの矛盾を見なかったことにして、幻想の中に逃げ込みたい・・・という気持ちもあった。

    このとき自分の支えになったのは、かつて5年間のカオスを乗り越えたという経験だった。

    また、自分よりはるかに厳しい状況の中で、レジリエンスを発揮して前に進んでいる友人たちの姿が励みになった。

     

    陸前高田の支援に立ち上がった友人

    2011年3月14日、僕は、兵庫県の尼崎市にいた。

    3月11日に地震があり、12日に原発が爆発したことを知り、急いでWikipediaでチェルノブイリのことを調べたら、300kmの距離にホットスポットができたと書いてあったので、関西まで家族を連れて移動して状況を見守ったほうがよいと判断し、仙台から山形へ車で抜け、そこから飛行機で関西へ飛んだのだ。

    疲れ切って空港で休んでいたときに、予備校講師仲間の長野研一さんから電話がかかってきた。

    「大丈夫だった?」

    「うん。とりあえず無事ですけど、そっちは?」

    と聞いたときに、はっとした。

    長野さんは、岩手県の陸前高田市の出身だということを思い出したからだ。

    津波によって大きな被害を受けたというニュースを聞いたばかりだった。

     

    それから何カ月かして、長野さんと話をする機会があった。

    その頃、長野さんは、毎週のように東京から陸前高田へ通っていて、復興支援に走り回っていた。

    僕が、もともと長野さんに抱いていた印象は、クールで、ちょっと冷めているような感じの人で、社会活動とは全く結びつかないものだった。

    だから、その長野さんが、NPO法人「明日の希望」を設立し、あまりにも大きな被害に心が折れそうになっている地元の人を励ますために、自分たちの写真にメッセージを添えたポスターを作り、町中に貼って回ったりしていることを知って驚いた。

    でも、それが、本当の長野さんの姿なんだと思った。

    長野さんの写真のポスターには、「やれることは、何でもやるよ。」と書いてあった。

    長野さんは、感情を押し殺したような話し方で、陸前高田のことを話してくれた。

    陸前高田は何も進んでいないのに、東京では、すでに震災が過去のことになっていると言っていた。

    その話し方から、言葉にならないものが伝わってきた。

    NPO法人 明日の希望

    自分自身の体験、長野さんを通した間接的な体験。

    自分が生み出している世界の中で、社会システムのひび割れはどんどん広がり、どうやっても元に戻れなくなった。

    取り返しのつかないことが起こり、とんでもないことが未来に待ち受けているように感じた。

    「大崩壊」に大きなリアリティを感じ、同時に、それに対して自分が何もできないような気がした。

    再び、混乱の中に入っていくことになった。

     

    3つ目のストーリー 「大転換」

    『アクティブ・ホープ』では、3つ目のストーリー「大転換」という変化が起こりつつあると言う。

    産業成長型社会の行き詰った経済システムによって傷つけられた世界を元通りにすることを最優先とする生命持続型社会への移行を意味するのだそうだ。

    それは、社会の末端で起こっているだけのように見えるが、あるところで閾値を超えると、新たな主流派になるのだと言う。

     

    311の後の4年間、僕は、カオスの中でばたばたしながら、新しく自分の足場になるようなものを探し続けてきた。

     

    社会システムのひび割れは、社会の末端で起こるから、社会の末端にいる人が、最初に気づいてカオスに突入し、そこから抜け出すために、様々な試行錯誤を始める。

    だから、新しいパラダイムは、旧社会システムの末端で生まれるのだ。

    遠く離れた末端は、旧社会システムの矛盾が出現しているという点でシンクロし合い、それらが繋がってうねりを生み出すトランスローカルが起こるとき、おそらく、閾値を超えて新しいパラダイムが生まれるのだろう。

    このような社会変化における大局的なイメージを獲得するのに、かつて大学院で学んでいた自己組織化という考え方がとても役立つ。

    『アクティブ・ホープ』は、大転換のストーリーを、次のような3つのアプローチに分けて説明している。

    1)待ったをかける

    2)生命持続型のしくみを作る

    3)意識を変える

    社会システムは巨大で、個人がどんなことをしても変化しないように思える。

    でも、そこに自己組織化のしくみが働くと、個人の範囲を超えた動きが生まれ、それは、社会システムを変化させる力を持つ。

    カオスの中ではじめた小さな試みであるFacebookグループ「反転授業の研究」は、自己組織化のしくみが働き、わずか2年間で3600人を超えるグループへと成長し、さらに、毎月、約100名のペースで増え続けている。

    気がついたら、自分自身は、大転換の大きな流れの中に巻き込まれ、その中でエンパワーされ、また同時に、周りをエンパワーしている。

    『アクティブ・ホープ』に書いてある「大転換」のストーリーは、今の僕にとっては、本の中のものではなく、現在進行形で進んでいる自分自身のストーリーだ。

    何かができそうだから行動するのではなく、自分が望む未来を自分たちで創りたいからそのために行動し始めると、大きなエネルギーが湧いてくる。

     

    『アクティブ・ホープ』は、厳しい状況の中で最善の反応のすることができるように3つの道しるべを紹介している。

    ・冒険物語

    ・アクティブ・ホープ

    ・スパイラル

    行動することを決断し、動き始めると、次々と仲間と出会い始める。

    それは、まさに冒険物語の世界と同じ感覚だ。

    困難が次々と訪れるが、自分の中にはなかった解決方法が外からやってきて、何とか乗り越えられていき、その経験を通して、意識のキャパシティがどんどん広がっていく。

    自分たちが望む世界の実現に向けて意識を集中させ、そこで起こる全てのことから学びながら進んでいく。

    ここで、紹介されている「つながりを取り戻すワーク」は、生き物が持つ融通無碍な性質を最大限発揮することを助けるものだと思う。

    (1)感謝の気持ちを感じる。

    (2)世界に対する痛みを大切にする。

    (3)新しい目で見る。

    (4)前に向かって進む。

    (1)-(4)を繰り返し、スパイラルを描きながら進んでいくのだ。

    感謝の気持ちを感じると、自分がたくさんのものを世界から受け取っていることに意識を向けることができる。

    世界に対する痛みを感じることで、自分の範囲が広がり、自分が受け取っているものを、痛みが生まれているところへ送っていきたいという気持ちが生まれる。

    広がった自己を通して世界を捉えると、今までとは違った光景が見えてくる。その光景の中で、次の一歩を決めて踏み出すと、スパイラルが回り始める。

     

    このスパイラルは、周りのスパイラルを回していく力を持つ。

    ここには、ペイフォワードの仕組みが含まれているのだ。

    あなたの行動に感謝を感じた誰かが、誰かへ向かって行動を起こしていく。

    それは、ドミノ倒しのように広がっていきながら、大きなうねりを生み出していくことができる。

    最初は、ゆっくりと静かに回っていたスパイラルは、力強くエネルギーを外側に噴き出しながら回り始めるだろう。

    そして、その動きが閾値を超えると、個人のレベルを超えたマクロな動きが生まれるはずだ。

     

    アクティブ・ホープ(3):新しい目で見る

     

     

     

     

     

     

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  • クラウドに粘土団子を撒こう!ペイフォワードの循環が意識革命を起こす

    生物進化の謎の一つに、なぜ「利他的な行動」が進化するのかというものがある。

    生存競争を行い、自然選択によって環境に適応したものが生き残るのだとすると、利得を他者へ渡していく行動は「損」であり、そのような行動は、進化の過程で淘汰されていくのだというのである。

    それに対して、ドイツの生物物理学者、マンフレート・アイゲンは、「自己再生産触媒的ハイパーサイクル」モデルを提唱し、メタレベルで自己触媒的なサイクルが生まれると、循環構造に参加している個体が得る利得のほうが、利己的な個体が得る個体よりも多くなるということを主張した。

    Eigen,Manfred_1996_Göttingen
     
    ハイパーサイクルは、与えることによって回るサイクルだ。それは、余剰のエネルギーを周りに生み出しながら大きくなっていく。まさに創造の渦と呼ぶのにふさわしいものだ。

    生物物理を研究していた学生時代に出会ったアイゲンのハイパーサイクルは、僕の頭の中に強烈な印象を与え、今もなお影響を与えている。

    これが、自然界における自己組織化の原理(創造の原理)なんじゃないかと思う。

     

    何かを創造するというのはどういうことだろうか。

    僕は、周りのいろいろなものを巻き込みながら渦が巻き起こり、らせんを描いて上昇していくようなものではないかというイメージを持っている

    自分がアウトプットしたものに対して、外界が変化し、その変化が刺激になって自分の内部がさらに変容していくというプロセスでは、創造の媒介となる「外部」の存在が重要なカギを握る。
     
    変化のない「外部」に対して一方的にアウトプットしても、あるところで最適化されてストップする。一斉講義型の授業改善が、5年もすれば終わってしまうのと似ているかもしれない。

    お互いが、お互いの媒介となり得るようなインタラクティブな関係性があってはじめて、往復運動、または、らせん運動を描きながら上昇していけるのではないか。

    だから、アイゲンのハイパーサイクルは、生命の起源を説明するモデルであると同時に、生態系の進化を説明するモデルであり、人間社会の共創を説明するモデルでもあると思うのだ。

    hyper2

    このようなメタレベルのサイクルが自然発生するための条件は、どのようなものだろうか。

    そのヒントは、植物にあると思う。

    自然の状態の植物は、自分の生命維持のために呼吸し、代謝する一方で、光合成によって有機物と酸素を生産し、周りの生物に与えていく。

    火山の噴火によって生み出された荒れ地には、その環境で生きられる植物が芽を出し、それらによって作られた薄い土壌を頼りに別の種が生きられるようになり、やがて森林へと成長する。

    森林では、様々なメタレベルのネットワークが生まれ、生態系として調和を保ちながら繁栄する。

    僕達も、生きるために働きながら、その一方で、生き物としての自分の根っこの思いから行動し、与えていく、応援していくというという行動をしていけば、豊かな生態系を創れるんじゃないだろうか。
     
    今の社会で生きていくためにはお金が必要だけど、その中の一部を、自分の根っこの思いで共感する誰かに与えていくことで、ペイフォワードの循環が生まれる可能性が出てくる。

    僕が、クラウドファンディングなどに注目し、積極的に応援しているのは、このように考えているからだ。

    mori

    個体レベルでは、メタレベルの循環を認識することができない。

    だから、種を撒く、

    メタレベルの循環を生み出したり、すでにある循環に乗って、それを強めていくような役割を担った芽が、勢いよく伸びていく。

    自然農法の福岡正信さんは、たくさんの種を粘土団子に詰め込み、荒れ地にばら撒いた。

    どの種が発芽するのかを福岡さんは選ばずに、宇宙に選ばせる。
     
    そのとき、その環境で発芽すべき種が発芽し、メタレベルの循環構造を生み出しながら成長し、荒れ地を緑化していく。

    福岡正信さんについては、以前、こちらに記事を書いた。

    リアルと違って、身体の制約から解き放れたクラウドの世界は、いくらでも種を撒くことができる。そこで、思いを発信して尖っていくことで、お互いに発見し合い、共鳴して繋がることができる。

    技術の進化は、人間の生活を自然から遠ざけたが、その結果生まれたインターネットは、もう一度、人間の心の中にある自然と繋がり、「生き物らしさ」を取り戻させてくれるものなのかもしれない。

     

    人は、どうやって繋がっていくのだろうか?

    誰かの役に立ちたいと思っても、

    自分に何ができるのか

    どんなことで困っているのか

    それが分からなければ動けない。

    一人で芽を出すのは難しい。

     

    「困っています。」

    「あなたのスキルが、僕のやりたいことに役立ちます。」

    「僕は、こういうことをやりたいんですけど、どうやって実現したらいいのか分かりません。」

    こういったメッセージは、他の人の心の中の種を発芽させるトリガーになる。

     

    自分自身の根っこの思いから語る言葉は、

    周りの人の心を動かし、

    心の中にある種を発芽させる。

    その結果、その人の思いは、多くの人の助けによって形になっていき、

    助けた人は、自分の心の中にあった種が発芽した喜び、共に創造した喜びに溢れる。

    芽を出させてくれた人に対しての感謝が溢れる。

    このようなことは、2年前の僕にとっては机上の空論だった。

    論理的に理解していたが、

    体験が伴っていなかった。

    こんなことが起こったらいいなと夢想していたが、まだ、このメカニズムを信用しきれていなかった。

     

    だけど、2年間のうちに、恐る恐る試していくうちに、

    このような循環が生まれる経験を何度もした。

    クラウドファンディングを自分ごととして全力で応援し、その後に出来上がったサポートチームを見たときに、本当のゴールは、こちらだったのだということに気がついた。

    「反転授業の研究」のオンラインワークショップに、たくさんの運営ボランティアの方が参加して、みんなが自分からどんどん動いて講座が出来上がっていく様子をみて、お金に対する固定観念が崩壊した。

    フィズヨビ夏期講習で、僕の講義動画からよりも、自分の疑問を出発点に学び合うことを受講者のみんなが選択したとき、教育が向かうべき方向が見えたような気がした。

    今まで教えられて信じてきたことの多くは間違っていて、自分の根っこの思いのほうが信用できると感じた。

    それは、生きていてよかったと思えるような経験であり、行動の優先順位が逆転するような変化を僕にもたらした。

    自分の意識に革命が起こったと言っても言い過ぎではないだろう。

     

     

    クラウドに大量の粘土団子を撒こう。

    どの種が発芽するかは宇宙が選択してくれるだろう。

    それは、ペイフォワードの循環を生み出し、根っ子の思いで繋がったコミュニティを自己組織化する。

    そうして出来上がったコミュニティこそ、明峯さんが言っていた「21世紀の故郷」なのかもしれない。

     

     

     

     

     

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  • Co-Creation(共創)によって自分を輝かせる「森」を作る

    Co-Creation(共創)によって自分を輝かせる「森」を作る

    教育現場にいて生徒と接すると、多くの生徒が自信を失っていることに気づく。

    それが当たり前すぎて気がつくのが難しいほど、自信の喪失は幅広く広がっている。

    その原因についてずっと考えてきたのだが、車を運転しているときにある映像が思い浮かんで、すごく納得した。

    その映像は、こういうものだった。

    hako

    はじめから埋めなければならない箱が与えられていて、それを埋めていくような学習を強要され、周りからは、

    「あなたは、ここがまだ白いままだね」

    「まだ埋められていない場所があるね」

    という声を繰り返し聞かされた結果、どんどん自信を失っていくのではないだろうか。

     

    そもそも、この枠組とはなにか?

    それは、「日本の労働者」という名前のプロダクト(製品)の規格だろう。

    規格を満たしていないところがあると、容赦なく、「不良品」としての烙印を押されてしまうのだ。

     

    均質なプロダクトを生産し続ける工場モデル型の教育システムでは、生徒たちは孤立し、旧社会が作り出したヒエラルキーの中でのポジションを餌に、競争に駆り立てられる。

    そこで「個性」と呼ばれているものは、他の人と自分を差別化し、他の人よりもヒエラルキーの「上」へ自分を押し上げてくれるアイテムのようなものだ。

     

    しかし、このような生き方は、「生き物らしさ」から遠く隔たったものではないか。

    農業生物学者の故・明峯哲夫さんは言っていた。→「農業生物学者から教わったこと(1)」

    「植物が、植物を育てる」

    荒れ地に草が生え、その草が枯れた後の炭化水素を分解しながら土壌生態系が発達し、そこにさらに植物が生えていき、世代を重ねるうちに荒れ地が森になっていく。

    誰かから「ポジション」を与えられなくても、自分たちで何かを生み出していく力が生き物には備わっているはずだ。

    Competition(競争)ではなく、Co-Creation(共創)へと意識を転換すると、価値観が180度転換する。

    それぞれが、思い思いに生長していくのが良いことだと思い、プロダクトとしてのあるべき姿というものを手放すと、「足りていないこと」ではなく、「できていること」に目が向くようになる。

    ためしに先ほどの図を少し描き直してみよう。

    hako2

    ずいぶん印象が変わったのではないだろうか。

    ここから、融通無碍に伸びていくことがイメージできるのではないだろうか。

    hako3

    311の後、旧社会のシステムがこのままでは立ち行かないと感じた人は多かったのではないだろうか。

    僕もその中の一人だ。

    そのような人たちは、お互いに共鳴し合いながら集まり、新しい社会の在り方を模索している。

    手探りで一歩一歩進んでは暗黙知を蓄積し、振り返ってそこから気づきを得て、新しい物語を紡ぎだしている。

    そこでは、若い人たちも、年長の人たちも横並びだ。

    年長者は旧社会に適応するためのルールを数多く知っているが、新しい社会の在り方を試行錯誤するときに、旧社会のルールは役に立たないからだ。

    思い思いに根を張り、葉を伸ばしていった結果、あとからそれが何を意味していたのかが分かるだろう。

    大切なのは、根を張り巡らせる勢いであり、葉を繁らせる活力だ。

     

    2年間、無我夢中で体と頭を動かしてきた結果、気づいたことがある。

    自分で自分を伸ばしていくのは難しいが、他の人を伸ばすのは、それに比べれば簡単だということだ。

    自分の価値を知ることは難しいが、他の人の価値を感じるのは簡単なのだ。

    だから、自分が感じた価値を、その人にフィードバックしていく。

    それが、その人に勇気と自信を与え、行動に勢いが生まれていく。

    逆に他の人から「あなたのやっていることは価値がある」と言ってもらえることがある。

    それによって、勇気と自信が生まれ、アクセルを踏み込んで突っ走ることができるようになる。

    これは、明峯さんが言っていた「植物が、植物を育てる」ということと同じことなのではないか。

    このように、お互いに育て合いながら、協力し合って「森」を作っていこうとするときには、「個性」の意味が180度変わる。

    『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』を読んでいて、次のような言葉に出会った。

    これまで何度も、人々が自分の「色」を見出す必要性について話すのを僕は聞いてきた。それは他者から自分を切り離すための手段としてではない。むしろもっと、信頼できるつながりの手段としてだ。世界は時に言葉ではとらえにくいパラドックスに満ちている。自他の区別や自己完結への欲求を手放すことができたとき、我々は我々自身のユニークな自己に出会うことがある。自分らしさというものが、他者とのつながりから生じるのだ。

    かつての僕は、他人と自分とを区別するために自分の「色」というものを出そうとシャカリキになっていた。

    しかし、311を経験し、自分というレベルよりも、もっと大きなレベルで何かを変えていかなければならないと思ったときに、行動のパターンが変わった。

    自分の行動が、「森」の繁栄に繋がっているという確信が、自分に自信と幸福を与えてくれるようになった。

    僕にとっての「森」は、「反転授業の研究」というFacebookグループで、サイバースペースにあって、すごい勢いで繁殖している。

    森の繁栄に役立つことは多種多様で、それぞれがそれぞれの仕事を見つけることができる。そこに、「競争社会における差別化」とは明確に異なる自分らしさを見出すことができるのだ。

    誰かが作った工場のプロダクトとして不良品検査をされるのではなく、生き物として自分たちの森(コミュニティ)を育てていこう。

    自分らしさが何かは、あなたがコミットしている森(コミュニティ)が教えてくれるはずだ。

    森が繁栄すれば、森で暮らせるようになる。

    森に関わって、森を繁栄させる力こそが、あなたを助けるものとなるはずだ。

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  • <未知を読む>ベータ読みを支援する授業

    <未知を読む>ベータ読みを支援する授業

    大学生のときに外山滋比古著『読書の方法<未知>を読む』を読みました。

    内容の詳細は忘れましたが、読書を、既知を読むアルファ読みと、未知を読むベータ読みに分類していた部分だけは、今でも覚えています。

     

    物理を勉強していると、どうにも理解できないことに頻繁に出会います。

    頭の中で「分からない!」の大合唱が始まり、そこでストップしてしまいます。

    大学生のときの僕は、そういうときに意固地になって「分かるまでは進まないぞ!」という姿勢で臨んでいて、結局、理解できずにあきらめるというようなことがありました。

    そんなときに、この本を読んで、自分は、本来、ベータ読みをしなければならない対象に対して、アルファ読みの手法で対応しようとしていたのではないかと気づきました。

    これは、結構、当時の自分としては目からうろこが落ちた経験でした。

     

    大学院に進み、研究室でゼミをやっていると、学習能力の高い先輩は、「保留して進む」という行動を取るんですね。

    僕が、「どうして、●●なんですか?」と質問すると、「それは、進んでみないと分からない」という回答が返ってくるわけです。

    「分からない」という状態に耐えて、先へ進むことができなかった自分は、先へ進まずに立ち止まってしまったことで概念構築のチャンスを逸していたのです。

    そのことに気づいてから、ようやく、概念構築が少しだけ上手になりました。

    物理には、考えて分かることと、丸呑みしなければならないこととがあります。

    丸呑みするというのは、言い換えれば、前提を受け入れるということです。

    前提を受け入れることによって、はじめて考えることができるようになり、世界が広がり、その世界を十分味わい尽くして、その世界に価値を見出すようになってからようやく、「あの前提は、そんなに悪くないないなー」なんて感じたりするわけです。

    しかし、僕は、「丸呑みする」という行為に抵抗感を感じてしまい、拒否していたわけで、スタートラインにすら立てていなかったわけです。

     

    予備校講師になってから、「物理が分からない」という生徒と接するようになったのですが、その中に一定の割合で、概念構築がうまくいかない生徒がいることに気づきました。

    彼らの頭の中では、かつての自分と同じように「分からない!」という大合唱が鳴り響き、分からないものは受け入れないぞ!という頑なな心が概念構築を阻んでいるのです。

    かつての自分もそうでしたが、理系には、自分の内部の整合性を高めたいという欲求が強く、整合性を乱すものを取り込むことに対する反発心を感じる人が多いのです。

    その頑なな心をどのように解きほぐし、新しい世界へ誘えばよいのか。

    これが、僕のテーマになりました。

    失敗と成功を何度も繰り返した後、たどり着いたのは、「物語」と「笑い」でした。

    彼らが住んでいる世界に、新しい概念世界を追加するためには、彼らが納得するためのプロセスが必要なのです。

    「まあ、丸呑みしてやってもいいか」という気持ちになることが重要なのです。

    そのためには、「丸呑みする」ということの意味づけを物語で与えてあげることと、笑いによって気持ちをほぐしてあげることが、本質的に重要だと思いました。

    それで、そういう物語を作ることにエネルギーを注ぎ始めました。

     

    新しい概念を構築することへの抵抗感をテーマに盛り込んだ物語も作りました。

    これは、光が波動性と粒子性を持つという概念を人類が獲得するまでの葛藤を物語にしたものです。

    昔、大陸から遠く離れた海の真中に島がありました。その名は「ブツブツ島」。

    大陸から離れていたので、実際には、「ブツブツ離島」と呼ばれていました。

    その島には、2種類の動物しかいませんでした。

    島民は、

    茶色でツノがない動物のことを「ウマ」
    白黒でツノがある動物のことを「ウシ」

    と呼んでいました。

    ですから、島民たちにとって、動物を見分けるのは簡単だったのです。

    色とツノを見れば、「ウマ」なのか「ウシ」なのかが分かるからです。

    ところが、ある嵐の夜、難破船が一隻、流れ着きました。

    その中から、一匹の動物がヨタヨタと降りてきたのです。

    その動物は、なんと、「色が白黒で」「ツノがない」動物だったのです。

    島民たちは、その動物に食べ物を与え、世話をしましたが、
    それをなんと呼ぶべきなのか、分かりませんでした。

    その動物を前に、島民たちの意見は真っ二つに割れました。

    ある者は、その体を指しながら、「これはウシだ!色が白黒なんだから」

    また、ある者は、その頭を指して「いいや!これはウマだ!ツノがないんだから!」と言いました。

    みな、互いに主張を譲らず、島中が大騒ぎになってしまいました。

    そこで、島民たちは、動物を籠に乗せ、長老のところへ相談をしに行きました。

    「ほほう、そういうわけか。」

    「この生き物が何だか、はっきりさせたい、というのじゃな。」

    その動物の目をじっと見つめた長老は、一呼吸置いてから、こう言いました。

    「いいか、皆のもの。
    ワシは皆よりも長く生きているせいか、我々が知らないものがある、ということを知っている。」

    「知らないものに出会ったときには、これまでの分類に無理やり押し込めようとしてもダメじゃ。
    新種として認定し、受け入れるのが正しい態度じゃ。」

    「よって、ワシが、この動物に名前を与えよう。」

    長老は、その動物をなでながら言いました。

    「パンダ」

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    ★解説★

    ウマとウシというのが、「粒子性と波動性」に対応します。

    運動エネルギーと運動量を持ち、衝突によって相互作用するものを粒子

    波長を持ち、干渉するものを波動

    というようにかつては、分類してきたのです。

     

    そこへ、「衝突も干渉もするもの」というものが現れたのです。

     

    人々は、「これは衝突するのだから粒子だ」「いいや、干渉するのだから波動だ」というような議論を数百年続けてきたあげく、ようやくその分類自体を問い直すことができ、光や電子を新種として認定して、「量子」という名前を付けたのです。

     

    量子の性質のうち、干渉するという性質は、波動と共通しているので「波動性」といいます。

    これは、パンダの性質のうち、ツノがないという性質は、ウマと共通しているので、「パンダのウマ性」と名付けよう!という感じです。

    また、量子の性質のうち、衝突するという性質は、粒子と共通しているので「粒子性」といいます。これは、パンダの性質のうち、色が白黒だという性質は、ウシと共通しているので、「パンダのウシ性」と名付けよう!という感じです。

    このように考えることによって、矛盾が解消されて、新しい概念である「量子」が考えられるようになったのです。

    生徒の頭の中には、おそらく「シマウマ」というイメージが浮かんでいて、それを裏切って「パンダ」とオチをつけたことで、教室には笑いが起こります。

    そのときに、心が緩むんですよね。

    それで、「二重性」という異質な概念を、パンダといっしょに受け入れてもいいかな~と思ってくれるわけです。

    そして、一度、この前提を受け入れてもらえば、そのあとは、論理的に概念を構築できるので、楽なんですね。

    新しい前提を受け入れるということは、言い方を変えれば、それまでの思考の枠組を超えるということです。

    思考の枠組を出ることは、知的な冒険です。

    冒険に出ることで、内部世界の整合性は崩れてカオスになります。

    それは、やっぱり怖いことなんですよね。

    だからこそ、物語と笑いで心をほぐして、やさしく冒険に誘うことが大切なのではないでしょうか。

    このような話を思い出したのは、コンセプチュアルアーティストの杉岡一樹さんとのやりとりにインスパイアされたからです。

    杉岡さんは「メタ感覚」が非常に強い方で、やりとりをしていると、それに影響されて、自分のフレームに対する意識が高まってきます。

    杉岡さんの記事と合わせて読んでみてください。

    「シンボルアートのりんかく」(連載)を読む

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