自己組織化

  • フォアグラ型教育から対話型教育へのシフト

    私が、教育システムの構造的な問題について考え始めるきっかけとなったのは、311の後に見えた光景だった。

    それが、実際に見えたというよりも、自分にはそういうように感じられたということなのだが、とにかく、次のようなことが自分には見えてショックだった。

    真実を見てつらくなるよりは、今まで通り、楽しく生きたい

    真実はどこにあるのか?と思って、夜も寝ないでインターネットで調べまくっていた自分は、他の人も同じことをやっているはずだと漠然と思っていたが、必ずしもそうではないのだということに気づき、呆然とした。孤独も感じた。

    そして、それが個人の問題ではなく、教育システムや、社会システムが生み出した問題だと思い、そのメカニズムを明らかにしたいと思った。

    真実を見に行くことに対する恐れは、自分自身にもある。それを見に行くと、世界の底が抜け、取り返しのつかないことになるのではないかという恐怖がわいてくる。

    実際に見に行くと、確かに世界の底が抜けてしまい、ある意味、取り返しがつかない状況になったりするわけで、底が抜ける直前は、すごく怖いわけだが、抜けてしまえば、自分の中の囚われが少なくなり、思考が自由になる。すると、いろんな人と繋がれるようになり、自分の創造性が、明らかに増していく。心が柔らかくなってきて、外部の刺激に強く反応しないで受け止められるようになり、以前よりも、世界を自由に探検できるようになる。それを実感して、自分の世界を閉ざしていた蓋が、刺激に対して反応していたのだということに気づく。蓋がなくなったから、反応しなくなったのだ。

    去年、由佐美加子さんからNVC(非暴力コミュニケーション)のことを学んだり、深尾葉子さん、安冨歩さんの「魂の脱植民地化研究」に関わらせていただいたりしていくなかで、蓋が構築され、世界が狭くなっていくプロセスが明確になったきた。そんな中で、1冊の本と出会った。

    パウロ・フレイレ著 『被抑圧者の教育学』だ。

    この本では、子どもを単なる容れ物だと見なして、お金を銀行に貯金するように、子どもに知識を流し込んでいく教育を「銀行型教育」と呼び、対話型教育へのシフトを呼びかけている。

    そして、教育の中でどのように抑圧が行われているのかを解明していく。この本を読んで、曖昧だったところが明確になった。

    ただ、私には、「銀行型教育」というメタファーが、どうもしっくりこなかったので、もっとよいメタファーがないかと考えていたところ、ぴったりくるものが思い浮かんだ。

    それが、「フォアグラ型教育」だ。

    みなさんは、フォアグラという食べ物を知っているだろうか?

    ガチョウやアヒル、鴨などに対して運動の自由を奪い、餌を強制的に大量に食べさせ、脂肪肝になるようにする。その脂肪肝を「フォアグラ」という食べ物として食べるのだ。

    ここには、生き物を抑圧し、モノ化するメカニズムが分かりやすい形で現れている。

    もし、人間とガチョウがコミュニケーションが取れるとしたら、フォアグラ生産の場でどのようなことが起こるだろうか?きっと、次のようなことになるのではないだろうか。

    フォアグラ型教育

    フォアグラ生産者は、脂肪の多い食べ物をガチョウの口から強制的に流し込む。

    ガチョウの身体は、「もう食べたくない」「苦しい」というサインをガチョウの脳に届ける。

    しかし、ガチョウは、そのサインを受け取って食べるのを止めることができない暴力的な環境に置かれている。

    フォアグラ生産者は、ガチョウが抵抗せずに、むしろ、進んでフォアグラ生産に協力するように、「口を閉じずに我慢できるなんてえらいぞ!」「おまえは、なんて強いガチョウなんだ」と褒めたり、「食べ物を戻してしまうなんてダメな奴だ」と叱ったり、「この檻から出たら餌を取ることができずに飢え死にするぞ」と脅したり、「肝臓の大きいやつほど価値がある」「肝臓の大きい優良な奴は、大きめの檻に入れてやるぞ」などと序列化したりする。

    暴力的な環境に置かれているガチョウにとって、現実を直視するのはつらい。その状況で精神が崩壊することから身を守るために、ガチョウが、身体からのサインを無視し、フォアグラ生産者の意図を内面化していくと、抑圧が進む。

    抑圧されたガチョウは、「自分は我慢強いガチョウだ」という虚栄心を抱いたり、「あいつは、食べ物を戻す弱いガチョウだ」「自分の肝臓のほうが、あいつの肝臓よりも大きいから、自分のほうが優れている」などと他のガチョウを見下したりするだろう。「大きな肝臓になれば、大きい檻に入る自由が手に入るのだ」と考え、進んで我慢して口を開け続けるようになるだろう。ついには、自分の肝臓のことを「フォアグラ」と呼び始め、「自分のフォアグラは5万円の商品価値がある」などと自慢し始めるだろう。

    安冨歩さんは、『生きるための経済学』の中で、次のような思考連鎖を、死に魅入られた経済学(ネクロフィリア・エコノミクス)と呼んでいる。

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    この思考連鎖は、抑圧されたガチョウのことを思い浮かべると納得できるのではないだろうか。

    囚われの身である自分に対する自己嫌悪が、自己欺瞞を生み出し、虚栄や利己心を生み出していく。その先にあるのは、序列化の上に行くことで得られると思わされている選択の自由であり、以下に効率よく序列を上げるのかという行動の最適化だ。

    では、抑圧されたガチョウが、自分自身を取り戻していくためには、どうしたらよいだろうか?

    その第一歩は、身体からのサインに耳を傾けることだと思う。

    生き物は、環境応答能力を持ち、みずから環境を作り替えながら、自分も作り替えていき、自分と環境との間に創造的な活動を生み出していく。

    檻に閉じ込めて自由を奪い、身体からの応答を無視させることで、ガチョウは、多くの飼料を入力すれば、大きなフォアグラがアウトプットされるという単純な入力ー出力関係の物質系に貶められているのだ。

    だから、檻から脱走し、身体からの応答に耳を傾け、環境応答力を取り戻すところが、抑圧から逃れる第一歩になる。

    そして、教え込まれてきたことに対して疑問を投げかけ、それらを自分の語りによって再定義していく。

    そのために重要な役割を果たすのが対話である。

    学ぶというのは、抑圧者の言葉を効率よく受け入れることではない。

    自分が健康に生きるために、環境とやりとりしながら、自分の語りによって世界を定義していくことだ。

    深尾葉子さんは、魂の植民地化を次のように定義する。

    人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。

    また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。

    他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。

    身体からのフィードバックを断ち切り、抑圧されていたガチョウたちが、対話の中から「これは、フォアグラではない。肝臓だ。私が健康に生きるために重要な役割を持った、私の内臓だ!」と気づき、自分の言葉で再定義していくとき、ガチョウの魂の蓋が開き、抑圧され、植民地化されていたガチョウの魂は、脱植民地化されていくだろう。

    安冨さんは、次のような思考連鎖を、「生きるための経済学」と呼ぶ。

    自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

    真実を見に行くと、抑え込んできた強い感情が溢れ出る。それは、多くの場合、痛みを伴う。ガチョウにとって、自分が囚われた存在であり、信じていたフォアグラ生産者が、自分を商品として扱っているという真実を知ることはつらいことだろう。

    しかし、NVC(非暴力コミュニケーション)は、その強い感情を手がかりに、その奥にある自分自身が大切にしているものを探っていき、それと繋がれれば、エネルギーが沸いてくるのだと教えてくれる。私が311の後に感じた強い怒りと哀しみの奥には、「人間(生き物)が、人間(生き物)らしく生きることを大切にしたい」というニーズがあった。このニーズに繋がれたとき、怒りと哀しみの大きさが、自分の内側にあるエネルギーの大きさとして感じられた。

    ガチョウは、痛みや悲しみを感じつつも、感情を抑圧していたときには感じられなかった色彩鮮やかな世界が内部に広がることを感じるだろう。それは、自分自身であることからくる喜びだ。そして、自分の内側に、「生命を躍動させて生きたい」という強いエネルギーが存在していたからこそ、強い怒りと哀しみを感じたのだということを理解するだろう。そのとき、自分が無力な家畜ではなく、自然の一部として祝福された存在であると感じられるだろう。

    自由を取り戻した魂は、創造性を取り戻していく。自由な魂同士が出会うと創造の渦が回っていく。

    フォアグラ型教育から、対話型教育へシフトしよう。

    それは、子どもを抑圧していく教育から、子どもを解放していく教育へのシフトだ。

    そのシフトには、痛みが伴う。

    なぜなら、私たちもフォアグラ型教育を受けてきたし、また、そのような教育を施してきてしまったからだ。

    だが、その痛みは、私たちの内部に、大切にしているものが確かに存在しているという証拠でもある。

    だから、痛みの向こう側にある、自分が大切にしているものを見に行こう。

    そこから、豊かで美しい世界へと繋がるはずだ。

     

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 善悪の評価を超えた野原で回る共存在サイクル

    311の後、世界の舞台裏が急に目の前に現れたように感じ、もとの世界には戻れなくなってしまった。

    同じものを見たはずの人たちが、もとの世界で生活を続けているのを見て、孤独感を感じた。

    それまで生きてきた40年間の人生の舞台裏でも、同じようなことが起こっていたのだと思い、自分の人生の意味が変わってしまうような気がした。

    それからの自分は、ずっと怒り続けていた。

    社会システムに対して

    教育システムに対して

    そのなかで生きてきた自分に対して

    311以前の世界を生きている人たちに対して

    怒りのエネルギーを燃料として、問題を掘り下げていくエンジンが回り始めた。

    どうしてこんなことになってしまったのかを突き止めたい。

    自分に対しても、周りに対しても批判の目を向けながら、リミッターを外して、がむしゃらに進んでいった。

    人間を工業製品のように生産する教育システムが、人間の心をどのようにして不自由にしていったのか?

    自分の心には、その影響が、どのように残っているのか?

    人間の心を自由にしていくためには、どのような方法があるのか?

    進めば進むほど、世界の見え方が変わり、それに伴い、自分も変容していった。

    そして、その速度は、どんどん加速していった。

    人間を機械化するプロセスを否定し、ひたすら実験を繰り返しながら生命的に生きるということをやり続けた結果、ついに、そのスピードに身体がついて行けなくなってきた。

    血圧が180を超え、心臓に問題が生じ、首と肩に激しい痛みが出て、身動きが取れなくなった。背中にカッピングをしたら、背中全体がどす黒い紫色に染まっていた。

    仕事を効率化したり、作業を他人に代行してもらったりせざるを得なくなった。

    試行錯誤を通してプロトタイプを創る工房パラダイムを肯定し、大量生産をする工場パラダイムを否定してきた自分が、この両者を統合する必要が出てきた。

    そんなとき、『かかわり方の学び方』という本を読んだ。

    そこで、工房パラダイムから、工場パラダイムへと連続的に繋がるグラフと出会った。

    そのグラフを見ながら、工場パラダイムが極まったら、成功体験を手放してパラダイムシフトを起こして、工房パラダイムを最初から始めるはずだと思った。そして、ペンを取り出して曲線を引いてループを作り、Uプロセスと書き込んだ。

    それを見ているうちに、工房、工場、変容は、どれも、生きていくために必要な要素なのだということが、じわーっと認識されてきた。

    共存在サイクル

    どれかが善で、どれかが悪なのではなく、それぞれが違う評価軸を持っているから、多様な人たちが生きていけるのだと思った。

    共存在サイクル表2

    311の後、ずっと自分の中にあった怒りの奥にあったものが何だったのかが見えてきた。

    怒りの奥にあったのは、人間が人間らしく生きるということを大切にしたいという気持ち。

    それを実現するための手がかりを掴めたことで、自分がやってきたことに意味があると感じることができた。

    ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーは言う。

    「間違った行ないと正しい行ないを超えたところに野原が広がっています。そこで逢いましょう」

    ルーミーは、この野原へ到達するために、どれだけの痛みを乗り越えたのだろうか?

    大きく左右にぶれるからこそ、バランスが取れる中心を見いだすことができるのだと思う。

    共存在サイクルは、誰も否定せず、優劣を作らず、水平に回る。

    これは、ルーミーが待っている野原で回るサイクルだと思う。

     

     

     

     

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 「学習するコミュニティ」と「同調コミュニティ」の違い

    コミュニティや共同体という言葉には、束縛やしがらみのイメージがつきまとう。

    でも、私が作りたいコミュニティは、束縛やしがらみのイメージとは正反対のものだ。

    正反対の2つのものが同じ言葉で語られることで大きな混乱が起きている。

    私が作りたいコミュニティの話をすると、私が作りたくないコミュニティのイメージが重なってきて、語るのが難しくなってくる。

    そこで、一方に「学習するコミュニティ」、他方に「同調コミュニティ」という名前をつけて区別することを提案してみようと思い、Facebookに次の投稿をしたところ、多くの方がシェアして下さり、コメント欄にたくさんのコメントをいただいた。

    それらを踏まえた上で、私が考える両者の違いの表をバージョンアップさせて、次のようにまとめてみた。

    学習するコミュニティ 同調(統制)コミュニティ
    「絆」を信頼の意味で使う 「絆」を束縛の意味で使う
    「中庸」=ホメオスタシス 「中庸」=極端ではない
    乱を超えて和に至る 和を乱すなと言う
    自由が推奨される 我慢が強制される
    自分でいることが大事 適応することが大事
    発達障害がギフテッドと呼ばれる ギフテッドが発達障害と呼ばれる
    思いつきから活動が生まれる 規則によって行動が決まる
    創発的計算によって動く 手続き的計算によって管理する
    集合知による一体感 同調による一体感
    和集合で繋がる 共通部分で繋がる
    やりながら考える 誰かの考えに従う
    フィードバックから学ぶ フィードバックが出ないようにする
    各自が役割を見つける 既存の役割から選ぶ
    場のプロセスを読む 空気を読む
    未来を探る お互いの腹を探る
    ドラマが生まれる 予定通りに進む
    創発が起こる 協同現象が起こる
    ストレスが癒える ストレスが溜まる
    素人が考え、玄人が実行する 玄人が考え、素人が従う
    直感で行動してから理性で考える 理性で考えてから行動する
    役割は流動的 役割は固定的
    対話で決める 多数決で決める
    違和感が尊重される 違和感が黙殺される
    生命論的安心感 機械論的安心感
    出る杭は尊敬される 出る杭は打たれる
    外に開いている 内に閉じている
    内発的動機で動く 外発的動機付けで動かされる
    感化によって君子が増える 同調圧力によって小人が増える
    全身で感じる 頭で考える
    分からなくてもやる 分かることしかやらない
    失敗は試行錯誤の一部 失敗は責任問題
    興味を持って相手の話を聴く 自分の判断に基づいて相手の話を聴く
    自分の価値基準に従う 集団の価値基準に従う
    色に例えるとターコイズ 色に例えると赤
    フラットな関係 縦の関係

     

    この中には、私の考えたものもあれば、私のFacebookの投稿に、他の人が追加してくれたものも含まれている。

    すっかり悪者にされてしまった感がある「同調コミュニティ」に対する同情の声もあった。

    違いをどのように表現するかには、様々な意見があると思うが、違いを区別した上で共に考えるということに大きな価値があると思う。

    コメント欄でのやりとりの中で、重要な指摘をいくつもいただいた。

    こちらのコメント欄をご覧いただきたい。

    やりとりをする中で整理されてきたのは、これらの違いがどこからやってくるのかということだ。

    私は、「同調メカニズムも自然の摂理である」という意見に賛成する。その上で、春秋戦国時代の中で孔子が考えたことや、全体主義の台頭に対する反省としてサイバネティクスの創始者であるウィナーが考えたことをもとに考えたい。

    ウィナーは、アリやハチといった社会的昆虫に対する考察から、社会秩序はコミュニケーションによって形成されることを見抜いた。アリやハチの社会は、個体間の多様性が小さく同調による自己組織化によって社会秩序が形成される。

    私たち人間にも、同調メカニズムが備わっており、同調による協働作業を行うことができる。しかし、人間と昆虫とを分ける大きな違いは、「学習メカニズム」の有無である。

    人間は、環境から学習をするため、後天的に多様な個体差を獲得でき、同調によって繋がることだけでなく、違いから学び合うことによって繋がることもできる。後者こそが、人間が新しく獲得した可能性である。

    論語では、学習モードを発動させて対話することによって、カオスを乗り越えて調和に至ることができる者のことを「君子」と呼び、同調モードによってのみ他人と繋がることができる者を「小人」と呼んでいる。孔子が考えたのは、人々が君子になれば、学習モードによって社会が調和に至って社会秩序が形成されるということだった。

    人間は、状況によって同調モードと、学習モードとを切り替えることができる。10人でボートを漕ぐときは、同調モードを発動させて一体となってオールを漕ぐことができるし、同じ10人で対話を行い、ボートレースの戦略やトレーニングについての集合知を生み出すことができる。

    健康なコミュニティは、同調モードと学習モードとが、必要に応じて発動し、協力や学び合いが柔軟に起こるようなものなのではないかと思う。私は、このようなコミュニティを「学習するコミュニティ」と呼びたい。 

    一方で、何かしらの理由で学習モードが抑え込まれると、人間は、人間であるにもかかわらず、「同調モード」しか発動しなくなってしまうのではないだろうか。私は、このようなコミュニティを「同調コミュニティ」と呼びたい。

    つまり、次のようにイメージしている。

    ・学習コミュニティ→同調モードと学習モードが、必要に応じて発動する

    ・同調コミュニティ=同調モードしか発動しない

    人間が本来持っている「学習モード」が抑え込まれてしまっている状況は苦しく、様々なサインが身体や精神から発せられてくる。このサインを徹底して無視していくと、心身を病んでしまったり、魂に蓋をし、適応するための人工的な自己を蓋の上に作り上げてしまったりするのではないだろうか。

    適応するための人工的な自己を作り上げた人たちが集まると、多様性を失っているが故に、同調モードが強力に発動し、同調圧力によって、周りの人の魂を傷つけていく悪循環のスパイラルが回る。ウィナーは第二次世界大戦の反省から、このメカニズムを抽出し、そうならないための方法として「学習に基づいた秩序」というものを考え、サイバネティクスを生み出したのだ。

    学習モードの作動を止めないためには、自分の真実に正直になり、言いにくいことを発言していくことが大切だと思う。

    隠されている真実を、自分から見にいくことが大切だと思う。

    私たちは、同調モードも、学習モードも兼ね備えた人間であり、そのどちらを発動させるのかを自分で決めることができるのだ。

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 生命論的パラダイムにおける安心感とは何か

    生命論的パラダイムで生きるという挑戦を続けている。

    挑戦を本格的に始めてから半年が過ぎ、「生命論的パラダイムで生きる」ということが、どういうことなのかが少しずつ見えてきたので、ここにまとめておく。

    機械論的パラダイムにおける安心感

    生命論的パラダイムについて語る前に、機械論的パラダイムについて語っておきたい。

    機械論的パラダイムの特徴は、過去の延長線上に未来が存在することである。

    自然界も人間も、すべてが「予定通り」に動き、秩序が維持される。

    その前提があるからこそ、過去のデータの集積から法則性を見いだし、それを未来に適応していくという戦略が意味を持つ。

    機械論的パラダイムの敵は、故障、エラー、誤差などの不確定要素である。

    それらが存在しないことによって秩序が維持され、その秩序が未来に対する不安を軽減し、「機械論的安心感」を与える。

    終身雇用が成立していた時代は、問題を起こしさえしなければ、身分と収入が保証され、長期の住宅ローンを組むことができた。

    しかし、現在は、そのような保証をしてくれる企業は減り、「機械論的安心感」を得ることが、どんどん難しくなっている。

    成功法則はすぐに陳腐化して使えなくなる。

    「機械論的パラダイムにおける安心感」を求めても、その試みの多くは失敗に終わり、不安が増大していく。

    では、いったいどうすれば、今の状況の中で、安心感を持って生きることができるのだろうか?

    生命論的パラダイムにおける安心感

    自分自身が森の中の1本の木であることをイメージしてみよう。

    自分が木として、枯れずにいられるのは、自分が未来を予想し、その予想通りに森の生命活動が行われているからではない。

    自分も含めた森の生き物が、生命活動を躍動させていれば、様々な循環が生まれ、自分も森も生きていけると確信できるのではないだろうか。

    そこに生命論的パラダイムにおける安心感の手がかりがある。安心感の根拠は、予想ではなく、生命の躍動なのだ。

     

    2016年4月頃、私は、本当に迷っていた。

    その頃の私は、右足を機械論的パラダイムに乗せ、左足を生命論的パラダイムに乗せていたのだ。

    心の中では、生命論的パラダイムに重心を乗せたいと思っているが、それでどうやって生きていけるのかが見えないことが不安で、なかなか思い切ることができなかった。

    一方、自分を長期間支えてきた機械論的パラダイムにも陰りが見えてきて、同じことをやっても収益が上がらない状況になりつつあった。

    迷いに迷った末、確信は持てないまま、生命論的パラダイムに全重心を乗せることにした。先が見えないから不安だという考え方そのものが、機械論的パラダイムにおける不安感だと思ったのだ。

    全重心をかけると、見えてくる景色が一変した。半分だけ重心を乗せているのと、全重心を乗せるのとでは、全く違うのだ。

    半分だけ重心を乗せていたときは、リスク管理をしていたが、飛び込んでしまった以上、向こう岸まで泳ぎ着かなければ死んでしまうので、自分の中の「生きる力」が立ち上がり、必死になって泳ぎはじめたのだ。

    自分のマインドセットを生命論的パラダイムに切り替えるために、毎月10万円使っていた広告費を、すべてペイフォワード予算に振り替えることにした。

    広告は、過去のデータを下に反応率を計測し、反応率がよいものへと改善していくものだが、その結果として、消費者マインドを強く持った人が集まってくる。それが、旧パラダイムの象徴のような気がして違和感を感じ始めたのだ。

    ただし、単に広告を止めただけでは、人が来なくなるだけだ。考えた末に、広告とは180度違うことにお金を使おうと思った。それが、「ペイフォワード予算」だった。

    自分の周りに循環が生まれ、その循環によって自分が生きていけるようになることを意図したとき、まずは、自分からはじめようと思った。

    とはいえ、毎月10万円、見返りを求めずに、感謝と応援に使っていくというのは、なかなか難しいことだ。

    だからこそ、毎日のように、自分は、どこに感謝を感じているか、世界のどこを応援したいと思っているか・・と真剣に考え、払う先を決めて払っていく。

    2016年5月から7ヶ月間やってみた結果、素晴らしい気づきを得た。

    機械論的パラダイムにおける不安の源は、不確定要素であったが、生命論的パラダイムでは、不確定要素こそが創造の源になるのだ。

    自己組織化が起こるターニングポイントは、ゆらぎが広がらずに消失してしまうか、増幅されて渦が広がっていくかどうかにある。そのような活性化した場が周りにできていれば、創造の渦が巻き起こっていく。

    自分の周りの場を活性化させ、ゆらぎが増幅されて広がっていくようになれば、自分は生きていくことができる。「ペイフォワード予算」は、自分の周りの場を活性化させるための投資だと考えると、全く非合理的な行動だと思っていたものが、合理的な行動だと思えてきた。

    多くの人とコミュニケーションを取りながら生きていると、ちょっとした思いつきや提案などがやってくる。

    それらの多くは、計画に従って動いているときには無視されるような小さなゆらぎである。

    しかし、それを無視しないで、片っ端から増幅していくと、毎週のように新しいプロジェクトが立ち上がるようになる。

    ゆらぎを無視しないだけでなく、増幅していくのだ。そうすると、共創造のサイクルがどんどん回り始める。

    不確定性は増大し、1ヶ月後に自分が何をやっているのか全く予想できなくなる。

    ただし、それは不安ではない。

    こんな頻度でプロジェクトがニョキニョキと立ち上がっていくのであれば、生命の躍動に支えられて生きていくことができるはずだという安心感があるのだ。

    私は、これを「生命論的パラダイムにおける安心感」と名づけた。

    半年前、「機械論的パラダイムにおける不安」を強く感じておびえていた私は、異なる種類の安心感を手に入れた。

    最近は、予想の付かない展開に次々に巻き込まれるようになってきた。

    未来は、余計に予想不可能になってきた。

    しかし、それは、不安ではなく希望である。

     

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • ゆらぎに詰まった叡智が創発の種になる

    進路に迷っていた大学3年生の頃、配属が決定していた研究室のゼミのテーマが「カオス」だったことがきっかけで、J・グリックの『カオス-新しい科学をつくる』を読んだ。

    物理学科の中では、優秀な人たちは宇宙論か素粒子論へ進む。そこでの激しい競争に身を投じる自信のなかった私は、それ以外の分野で面白いテーマはないかと考えていたのだが、そんな私にとって「カオス」は、まさにぴったりなテーマだった。

    私がカオスに惹きつけられた理由は、競争に勝ち抜く自信がなかったことに加えて、カオスから、パラダイムシフトの香りがしたことだった。

    当時、科学が人を幸せにしているという神話を信じられなくなっていて、どうせやるなら、パラダイムシフトを起こしていく側に回りたいという想いがあったのだ。

    そんなこんなで、この分野を極めることを勝手に決意し、猛烈な勢いで、カオス、非線形物理、自己組織化、複雑系・・などを学んでいった。

    協同現象(シナジェティクス)との出会い

    卒業論文を書きながら、いつも傍らに置いていたのが、H・ハーケンの『協同現象の数理ー物理・化学・生物における自律形成』だった。

    ハーケンは、多くの量がお互いに関係し合う複雑なダイナミクスにおいて、どのようにして秩序が生まれてくるのかを研究し、その結果、「隷属化原理」というものを見つけた。

    これは、様々な変数の中で、ゆっくり変化する量が秩序パラメーターのように振る舞い、その他の変数がそこに「隷属」していくという仕組みだ。

    秩序パラメーターというのは、変化を外側からコントロールする量だと考えればよい。たとえば、水の融点を調べる実験を行う場合は、水槽を固定し、ゆっくり温度を下げていく。この場合、水分子同士の相互作用などが観察しているダイナミクスで、温度が秩序パラメーターになる。

    このような人為的な実験では、ダイナミクスと秩序パラメーターとを区別するが、自然界には秩序パラメーターなど存在せず、ダイナミクスしかない。

    しかし、変化の速度が速い量と遅い量とがある場合、変化の速度が速い変数から見ると、遅い変数は、あたかも「定数」のように振る舞うようになる。

    例を挙げよう。私たちの日々の活動に比べて、太陽系が形成されて消滅していくダイナミクスは遙かにゆっくりしているので、私たちは、太陽系を「変化せずに存在しているもの」として捉え、そこに適応していく。

    「変化せずに存在しているもの」はフレームワークを与える。フレームワークが与えられると、その内部で最適化が起こり、ダイナミクスが単純化してくる。いくつかの変数が定常状態に落ち込むと、それは、新たに「変化せずに存在しているもの」となり、他のダイナミクスのフレームワークとなる。このようにして、乱雑な状況から秩序が生まれてくる。ハーケンは、これを、協同現象(シナジェティクス)と呼んだ。

    ゆらぎを通した秩序~散逸構造

    隷属化原理に基づいた協同現象については、理解できたが、私が知りたかったことは、自発的に複雑化していくプロセスだった。それこそが、私の考える自己組織化のイメージだったのだ。

    イリヤ・プリゴジンの『ゆらぎを通した秩序』という言葉にヒントがあるのかと思い、修士課程では『散逸構造』の自主ゼミを行った。

    熱力学第2法則は、孤立系ではエントロピーが増大していくことを主張する。つまり、コーヒーにミルクを入れると、どんどん混ざっていくように乱雑さが一方的に増大していくのだ。

    しかし、非平衡開放系では、エネルギーや物質の循環が起こる可能性があり、混沌とした状態から秩序が立ち上がってくる可能性がある。

    プリゴジンは、非平衡状態の熱力学を用いて、一様な状態から、秩序が立ち上がっていくダイナミクスを明らかにし、「散逸構造」と名づけた。

    ゆらぎが増幅され、時空間パターンが形成する例として有名なのは、B-Z反応だ。

    プリゴジンは、BZ反応の速度方程式の本質的な部分を抽出したモデルであるブリュッセレータを数学的に解析し、非線形性によってゆらぎが増幅され、一様な状態が不安的化し、縞模様や、振動するパターンが生じてくることを示した。

    このような生き物を想起させるようなパターン形成に、私はワクワクし、このような研究の延長線上に、生き物らしさの理解があるのではないかと思った。

    創発システム

    自分は何に惹かれているのだろうかと問いかけながら研究を進めていく中で、生命現象の自己組織化へと興味が向かっていった。

    ビッグバン以来、自発的対称性の破れが次々に起こり、異なる状態同士が接するインターフェースのところに散逸構造のような渦が巻き起こり、隷属化原理によって単純な構造に落ち込む働きと、更に複雑な仕組が生まれていく働きとが拮抗しながら、より高度な秩序を創りだした結果として生命が生じていると考えたときに、生命は、究極の自己組織化現象だと思ったからだ。

    私は、袋小路にはまったときに、ゆらぎを増幅させて、そこから脱出していくことができるという部分に生命らしさを感じる。

    あるフレームの内部で最適化されていく活動と、そのフレーム自体を抜け出して、創造的な解を見つけ出していく活動とが両立するようなダイナミクスが、生き物のダイナミクスなのではないかと考える。

    ある行動ルールを与えたサブユニットが相互作用した結果、集団の中にサブユニットに帰着できないような活動が生まれ、それが、私の考える生き物らしさを表現してくれるのではないか?

    非線形現象、カオス、散逸構造、協同現象・・などの概念の絡み合いの中で、生き物の創造性を理解できるのではないか。

    複雑系研究者の多くが、そのような想いで創発システムを研究していたのだと思う。

    私も、同じ夢を思い描きながら、細胞性粘菌を研究していた。

    偏微分方程式で書いた細胞モデルを相互作用させ、細胞集団に個々の細胞モデルの性質には帰着できない時空間パターンを発生させることには成功したが、それは、私がイメージしていた生き物らしさには遠く及ばないものだった。それは、いつも決まったパターンに落ち着くものであった。隷属化原理に基づいた協同現象はシミュレーションによって再現できるが、創造性は発生しないのだ。

    創発が起こるためには、何が足りないのだろうか?

    その疑問は解決しないまま、大学院の博士課程を中退した。

    ゆらぎには叡智が詰まっている

    10年以上経ち、様々な巡り合わせにより、再びこのテーマについて考えることになった。

    反転授業に関わるようになり、学び、組織、社会を、自己組織化の原理で変えていきたいと思って活動を始めた。

    自己組織化について考える中で、協同現象と創発の違いについて、改めて考えることになった。

    そのきっかけになったのは、清水博さんの『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化が2種類に分類されていたことだった。(詳しくはこちら→ 『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと

    ・散逸構造的な自己組織

    ・<いのち>の自己組織

    前者は、固定されたフレームの中で隷属化原理にしたがって再現可能が繰り返されていくような自己組織である。

    後者は、清水さんによると「内在的世界と外在的世界とを循環しながら起こる自己組織」である。

    「内在的な世界」をどのように捉えたらよいのかが分からなかったが、私が探究したい自己組織は、後者であることは明らかだった。

    その後、安冨歩さんの『合理的な神秘主義』を読み、安冨さんとお話しする機会があった。

    そのときから、記述の原理的限界がどのようにして生じるのかということを考え始めた。

    神秘=記述の原理的限界の外側

    と定義し、なおかつ、その存在を仮定したことで、清水さんの「内在的世界」は、記述の原理的限界の外部に存在する世界のことを指しているのだと理解することができた。

    記述をするためには、フレームが必要になる。

    フレームを設定した瞬間、フレームの外部は存在しなくなる。

    外部の存在は、境界条件や、ゆらぎ、という形で代替される。

    シミュレーションでは、ゆらぎは、ホワイトノイズとして導入される。

    ホワイトノイズは、単に内部のダイナミックスを起動するだけの役割を果たし、その結果、内部のダイナミックスが再現可能な形で現れる。

    しかし、私の思考に入ってくるゆらぎは、ホワイトノイズではない。

    それは、いわば、私の脳細胞や体細胞が、私を取り巻く世界からの情報を受け取りながら生きている結果として起こる生命活動のささやきの総和であり、膨大な情報処理がなされた結果として生じるものである。

    私の思考に入ってくるゆらぎには、私と私を取り巻く宇宙の情報が凝縮されている。ちょっと大げさな言い方だが、私を含む宇宙のダイナミクスの一つの現れだと考えることができる。

    yuragi

    そのようなゆらぎが増幅されたときに、創造的な活動が生まれていくのだとすると、私の粘菌モデルに創発が起こらなかった理由は明らかだ。

    安冨さんが、Facebookの私の投稿に、次のようなコメントをしてくれた。

    プリゴジンの「散逸構造論」に、創発への道を夢見て、非線形科学に入ったので、ハーケンの「隷属化原理」という名前に違和感を覚えてしまったのだけれど、『貨幣の複雑性』を書き上げて、よくよく考えてみると、いわゆる構造形成では必ず隷属化が起きていることに気づきました。
    たとえば、貨幣の生成では、そこに効率性の向上と不平等の形成が不可避的に起きる。この状況下で人々が「最適化」を目指すと、貨幣が崩壊して元の不効率で平等な状況に戻る。
    コンピュータで、いくらやっても、より複雑であったり、より豊かであったり、より平等あるような状況への変化が起きないので、困ってしまったのだが、ある時、そこから先に行きたければ「創発」が起きなければならないず、それは「隷属化原理」に従う「協同現象」ではありえないのだ、と気づきました。
    そう考えると、夢を膨らませてくれたプリゴジンより、夢を凋ませてくれたハーケンの方が、正確だった、ということかもしれません。もちろん、両方いてくれたから、たどり着いたのですが。

    安冨さんの言葉を手がかりにして壁を登っていった結果として、創発の概念を自分なりに理解できたことができ、感謝の気持ちで一杯になった。

    自分の内部から沸き上がってくるゆらぎを無視し、「正しいと教えられたこと」に基づいて論理的に生きていくと、創発が生まれなくなるのだと思う。

    だから、ちょっとした思いつきや、やってみたくなったことは、自分の思考が意味づけできなかったとしてもやってみるようにしている。

    それは、脳の上にソフトウェアとして走っている「思考」よりも、遙かに複雑なプロセスによって浮かび上がってきたものかもしれない。

    ゆらぎに詰まっている叡智を信じて増幅していくと、どんなことが起こるだろうか?

    ワクワクしながら、人生の実験を続けていく。

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 協同現象として理解するのではなく、創発を起こしていく

    生きるためのXというプロジェクトを立ち上げてから、生命論的パラダイムについて、毎日考え続けている。

    私が立ち上げている「生きるための物理」は、安冨歩さんの「生きるための経済学」をフレームワークとして使いながら、自分の人生の学びを語っていくものだ。

    そして、それをプロトタイプとして、「みんなも、それぞれの人生の学びを語ってみようよ!」と呼びかけていくムーブメントが、生きるためのXである。

    安冨さんは、「生きるための経済学」を次のように定義する。

    「生きるための経済学」とは、ネクロ経済学の論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、ビオ経済を活発にするための経済学である。

    ネクロ経済学とは、安冨さんの造語である。

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    という思考連鎖による経済学を、「ネクロフィリア・エコノミックス」(略してネクロ経済学)と呼んでいる。

    一方で、ビオフィリア・エコノミクス(略してビオ経済学)は、

    自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

    という思考連鎖による経済学であり、これも安冨さんの造語である。

    それを、物理学に当てはめるとどのようになるだろうか?

    この文脈で物理学のことを考えたときに思い浮かぶのは、物理学から生まれた機械論的パラダイムによる魂の植民地化プロセスである。

    生き物は、最適化モードと探索モードとを持ち、それらを自由に行き来しながら魂を躍動させる。

    しかし、機械論的世界観は、魂の躍動を封殺することで、すべてが予定通りに動く世界を作りだしてきた。

    そこで封殺されてきたものは、外部の自然であり、私たち内部の自然である。

    そこで、私は、「生きるための物理」を次のように定義したい。

    「生きるための物理」とは、機械論的パラダイムの論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、生命の躍動を活発にしていくための物理学である。

    物理学=機械論ではない。機械論的パラダイムを乗り越え得る様々な知を内部に蓄えてきた。今、私が、機械論的パラダイムの破壊的側面に対して思考を巡らせることができるのは、機械論的パラダイムを通過し、非線形物理や、複雑系、生物物理、量子力学などを学んだからである。

    生命の躍動を活発にするための鍵になるのが、「創発」という概念を理解することである。

    今日のブログでは、「創発」に対する私の考えを書いてみたい。

    協同現象と創発の違い

    Wikipediaを見ると、創発について、以下のように書いてある。

    創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

    私が、大学院で細胞性粘菌の形態形成について研究していたときも、実は、上記のようなイメージで創発を捉えていた。

    多数の粘菌アメーバが合体し、多細胞の移動体という部分の総和に留まらない組織が「創発」すると考え、アメーバ細胞の数理モデルを相互作用させ、多細胞体の境界が「創発」されるメカニズムを抽出しようとしていたのだ。

     

    しかし、安冨歩さん、深尾葉子さんとの対話から、私がシミュレーションによって見いだそうとしていたのは「創発」ではなく、「協同現象」に過ぎないことに気づいた。

    協同現象というのは、対流や化学反応のパターン形成のように、物質間の相互作用からマクロな構造が生まれる現象のことだ。

    サブユニットに単純なルールを与えて、相互作用させることによって対流のようなマクロなパターンが生じるのは、まさに「協同現象」である。このとき、各サブユニットは、基本的に交換可能な「同質なもの」であり、プログラムなどに記述可能である。

    では、創発とは何だろうか?

    清水博さんは、『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化現象を次の2つに分類している。

    ※詳しくは、『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと を参照。

    物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。

    <いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。

    物質的な自己組織とは、協同現象に相当し、<いのち>の自己組織が、創発が起っている現象に相当する。

    機械論的パラダイムの中で行われた工業化モデルの教育システムでは、人間の自由な探索モードを抑制し、最適化モードのみを発動させて条件付けるので、人間の行動が同質化され、単純なルールで記述可能なサブユニットと見なせる状況が生まれる。そのとき、人間社会には、協同現象が自己組織化しやすくなる。

    人間の自由な探索モードを強く抑制する課程で作動するのが、

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    という思考連鎖である。

    条件付きの愛情などにより探索モードの発動を抑え込まれると、「才能のある子ども」として、自己嫌悪を抱えながら用意されたレールの上を走るようになる。そして、用意された「選択の自由」の中で虚栄心を得られるように行動を最適化する。

    このように外部から行動を最適化された人間は、機械論的組織の中で、上から下りてくる指令を正確にこなす「機能的人間」としての役割を果たすことを期待される。

    私は、それこそが、機械論的パラダイムの破壊的側面だと思う。

    一方で、人間の自由な探索モードを正常に発現させると、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようになり、コミュニケーションのPathの柔軟なつなぎ替えにより、マクロな循環構造が予想不可能な形によって生まれる。それは、人間同士の間だけでなく、個人の思考のネットワークの中でも起るだろう。

    私は、このようなプロセスで起る現象を「創発」と読んで、「協同現象」と区別したい。

    では、サブユニットにランダムネスを与え、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようなシミュレーションを行ったら、「創発」を再現できるのだろうか?

    私は、そうは思わない。

    自由な探索モードによる行動には、各個人の歴史性、身体性が伴っており、無意識レベル、身体レベルに蓄えられた膨大な情報から浮かび上がってくるプロセスが本質的に重要なのだと思う。それを、ランダムネスで近似してしまったら「創発」には、きっとならない。

    私たちは、理由は分からないけど、なんとなく行動を始めることがあり、しばらくしてから、なぜ自分がそれをしたかったのかを理解することがある。

    <いのち>を持った存在は、身体知レベル、無意識レベルでは価値判断をしており、創発的計算の末に直感的に行動を選んでいるのだ。

    それは、おそらく原理的に記述不可能な領域であり、強引にランダムネスで置き換えると、単に協同現象を観察することになる。
     
    協同現象は、外部に条件つけられ「最適解」や「安定状態」へ移行する現象である。一方、「創発」は、枠組みを脱出し、意味をずらしていく現象である

    だから、創発は、記述の世界に落とし込んで知的に理解するものではなく、各自が、自らの身体を使って作動させ、体感によって納得するものだと思う。

    自然界は、創発に満ちている。自分の身体を使って創発を起こす体験は、自然との繋がりを取り戻すことを意味する。

    創発的な場を、数多く創っていこう。

    そして、体験を共有する人たちと語り合っていこう。

    生命論的なパラダイムとは、創発を共通体験として持つ人たちによって広がっていくものだと思う。

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 粘菌を通して考える生命論的パラダイム

    20年前に粘菌と出会ってから、粘菌は、自然の摂理について考えるときのプロトタイプとして僕の頭の中にずっと存在し続けています。

    粘菌にはたくさんの種類がありますが、単細胞アメーバが合体して移動体を形成する細胞性粘菌と、多核単細胞の巨大アメーバを形成する真正粘菌が有名です。

    細胞性粘菌は、もともと生物の形態形成や分化比率制御のプロトタイプとして多くの研究者によって研究されてきた生き物ですが、粘菌の生態には、もっと広い意味での生きることの様々な側面が凝縮されていて、たくさんのことを教えてくれます。

    真正粘菌は、ネットワークを形成し情報処理をしたり学習をしたりすることができ、思考の原形を見せてくれます。

    生命論的パラダイムについて考えていく上で、粘菌というプロトタイプを頭に置きながら思考することは、たいへん有効なのではないかと思います。

    場との相互作用で生まれる渦

    大学院時代に僕が取り組んでいたのは、細胞性粘菌アメーバの集合のメカニズムでした。

    細胞性粘菌アメーバは、バクテリアを食べ尽くすと飢餓状態に陥り、cAMPという情報伝達物質を分泌するようになります。このアメーバ細胞は、cAMPに対する受容体を持っていて、自分や他のアメーバが分泌するcAMPの量が一定の閾値を超えると発火して、cAMPをドバッと分泌する性質を持っています。

    これは、ニューロン細胞とよく似た性質で、非線形振動子としてモデル化することができます。

    非線形振動子は、パラメーターによって、外から刺激を与えたときに発火する興奮性を示す状態と、外から刺激を与えなくても自律振動する状態とを取ることができます。

    僕が研究していた20年前は、ペースメーカーと呼ばれる自律振動するアメーバ細胞がいて、その周りに興奮性を示すアメーバ細胞がシグナルをリレーしながら集まってくるという説明がされていました。

    僕は、どうしてもこの説明に納得がいきませんでした。

    生物の発生の根本には、最初は同じ細胞であるにも関わらず、相互作用によって自発的に対称性が破れ、役割が分化していくという性質があると考えていたので、「じゃあ、ペースメーカーは、どうやって誕生したんだ?」と思ったのです。

    それで、「すべての細胞が同じであるにもかかわらず、自律振動する細胞と、興奮性を示す細胞が現れるメカニズムとは何か」ということを考えました。

    それで見つけたのが、興奮性を示す細胞の密度を大きくしていくと、あるところで、みんなで自律振動するようになるということでした。

    タイミングがそろって、ドバッとcAMPを出すようになると、場に溢れだしたcAMPの瞬間的な量が大きくなり、閾値を超えてそこにいるアメーバ細胞が発火できるようになるのです。そして、再びcAMPをドバッと出す・・・というのが繰り返されていきます。

    1つのアメーバ細胞では自律振動できなくても、周りにアメーバ細胞がいて、お互いに引き込みながら同時に振動しているからこそ、自律振動できるというメカニズム。

    僕は、これこそが生き物の本質を表しているのではないかと思いました。

    今年になってから、清水博さんの『<いのち>の自己組織』を読みました。

    清水さんは、物質が示す対流のような自己組織と、<いのち>の自己組織とを区別して論じています。

    清水さんが言う<いのち>の自己組織とは、個体が自分の<いのち>を場に投げ込んでいった結果、場に<いのち>のドラマが起こり、そのドラマから個体が「活き」を受け取っていくというもので、清水さんは、それを、与贈循環と呼んでいます。

    与贈循環については、こちらをご覧ください。

    この本を読んだときに、細胞性粘菌のcAMPの分泌によるパターン形成と集合のプロセスは、まさに、与贈循環を表しているものだと思いました。

    細胞性粘菌の集合メカにズムを知っていたおかげで、与贈循環という概念を深く理解することができたのです。

    粘菌アメーバが集まってくると、密度が高い領域が生まれ、そこから外側へ広がるcAMPの渦が生まれます。

    粘菌アメーバは、コミュニケーションと移動を通してシグナルを増幅していき、渦を生み出し、渦の中心へと集まって合体するのです。

    その壮大なドラマをこちらの動画で見ることができます。

    胞子から発芽して、アメーバになり、集合して他細胞体である移動体になり、子実体を形成するまでの動画

    集まっている様子を上から見た動画

    集合期に発生するcAMPのらせん波の渦

    細胞性粘菌からは、多くのことを学ぶことができます。

    インターネットが発達し、オンラインでコミュニケーションを簡単に取れるようになったことで、人と人との間を情報が飛び交うようになってきました。

    粘菌アメーバが、飢餓状態になることでスイッチが入るように、僕たちも東日本大震災の後の危機感によりスイッチが入り、想いがシンクロし始めているのではないかと思います。

    ただし、僕たちは、粘菌アメーバの1つのような視点で社会を捉えており、自分たちを取り巻く状況を俯瞰することはできません。

    時代の変革期の中で、局所的で限定された情報しかない中で渦を起こしたり、渦に巻き込まれたりするような存在なのです。

    その位置から感じ取れる限られた情報の中で、重要な意味を持つのが、シンクロが起こる頻度です。

    頻繁にシンクロが起こる方向へ進むことで、より大きな渦を起こしたり、巻き込まれたりしていきます。

    シンクロを頼りに、右往左往しながら、徐々に形成される渦によって生まれる動きは、プロパガンダによって外部から誘導される動きとは全く異なるもので、自然の摂理に基づいた<いのち>の自己組織化現象です。

    私たちの身体も自然の摂理に従っており、それを発動させることで、大きな渦が起こっていくのではないでしょうか。

    粘菌アメーバが合体し、多細胞体を形成して長距離を移動していく様子は、まさにパラダイムシフトをイメージ化したものではないかと思います。パラダイムシフトを目指す僕の活動は、細胞性粘菌に導かれるように進んでいるような気がします。

    外発的動機付けによる線型化のプロセス

    真正粘菌は、多核単細胞でありながら、脳と似た構造を持ち、学習や記憶などの知的能力を示すことができます。

    自然に近い状態では、真正粘菌はフラクタル的な複雑な形態をしており、探索行動と選択のバランスを取っています。

    各部分は、非線形振動子と見なせる構造を持ち脈動し、脈動に応じて細胞質流動が起こります。そのメカニズムが統合されることで、複雑な情報処理と変形や移動、学習を可能としているのです。

    その仕組みは、おおざっぱに言うと、次の通りです。

    真正粘菌の一部に餌を接触させると、その部分の非線形振動の振動数が大きくなり、その部分から他の部分へ波が伝わっていき、その波動のパターンが細胞質流動を生み出し、餌を取り囲むように全体が移動してきます。

    一方、青い光などを一部に当てると、その部分の非線形振動の振動数が小さくなるため、波は、光を当てた側と遠い側から伝わるようになり、青い光から逃げるように移動し始めます。

    このように細胞に与えられた外部刺激を非線形振動のネットワークがパターンとして統合し、そこから変形や移動を起こして、意味のある行動を、その時々で創りだしていくのです。

    これを社会のメタファーと捉えると、各個人が学習回路を正しく作動させ、それらが有機的に繋がることで、社会全体として複雑な情報処理をすることができ、自然と調和状態に到達するというように考えることができます。

    これは、論語の「学習に基づいた社会秩序」の考えと非常に近いイメージだと思います。

    粘菌の知的能力を実験するために、しばしば粘菌に迷路を解かせる実験というものを行います。

    迷路の2カ所に餌を置くと、その2カ所を結ぶ最短距離に粘菌は線上に分布するようになります。

    この迷路実験は、見方を変えると、複雑で豊かな活動をしている生命に対して、強烈な外発的動機付けを施し線形化していくプロセスを表していると捉えることができます。

    文字通り「線形化」されてしまった粘菌は、自由度を減らし、刺激に対して決まった応答を返してくる理解可能な単純な系へと縮約されてしまいます。

    これは、外発的動機付けによって生命を制御可能なものにしようとしてきた工業主義的農業や畜産業を思い起こさせるものです。

    学力テストを用いたアメとムチによる条件付けにより、子どもを線形化していく教育とも通じるものです。

    真正粘菌もまた、様々な示唆を与えてくれる存在です。

    (追記)

    2016年に実施した「生きるための物理~真性粘菌に学ぶ生命論的パラダイム」の後、手続き的計算と創発的計算について考えていたところ、ソフトウェア工学の専門家である山崎進さんが、次のような問題提起をしてくれました。

    記述や計算の限界を考える上で興味深い問題提起なので、これについて、引き続き考えていきたいと思います。

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 生命論的パラダイムを非線形的に語っていく

    2ヶ月前に深尾葉子さんの『魂の脱植民地化とは何か』と出会い、仲間と集まってダイアログをしたり、オンラインのイベントをやったりし始めた。安冨歩さんとも繋がり、『生きるための論語』や『神秘的な合理主義』を読み、高知大学の集中講義をZoom配信した。

    そうしているうちに、自分の中の扉のいくつかが開き、眠っていたものが動き始めた。

    その中の一つが、「非線形現象」である。

    線形(=直線的)に対して、非線形は、「直線的ではないもの」を意味する。

    線形システムでは、入力値を連続的に変化させると、出力値もそれに比例して連続的に変化するが、非線形システムでは、入力値を連続的に変化させているのにもかかわらず、ある閾値を超えると出力値が不連続に変化する。

    その身近な例が相転移である。水の温度を連続的に上げていくと、ある温度で突然、対流が起こり始め、温度を更に上げていくと、対流は乱流へと変化し、100℃で沸騰する。このように、入力である温度変化を連続的に変化させているのにもかかわらず、出力が不連続に変化するのが非線形現象の特徴である。

    また、カオスを含む非線形システムでは、入力値のわずかな差異が、時間発展と共に指数関数的に拡大していくため、現実的に未来を予想不可能になる。

    線形振動(サインカーブで表せる振動)が、重ね合わせの原理に従うのに対し、非線形振動は、お互いに引き込み合って同期する。

    このように、線形現象と非線形現象には、大きな違いがある。私たちの身の回りは、非線形現象に満ちあふれており、その一部を切り取れば、線形現象として見なせるということに過ぎない。

    非線形現象との出会い

    大学3年生のとき、J・クリックの『カオス~新しい科学を作る』を読み、自分はこの分野に進もうと決意した。

    カオスが決定論的世界観の限界を示していることを知り、そこにパラダイムシフトの種を感じてワクワクしたのだ。

    そして、生命現象を、非線形現象として理解しようとする研究を始めた。

    魂の脱植民地化シリーズを先導している安冨歩さんとは、20年前に京都で行われた複雑系の研究会で一緒だった。当時、私は、物理学科の大学院生で、細胞性粘菌の数理モデルの研究をしていた。研究のヒントを得るために、東大や京大で行われる研究会に足繁く通っていた。安冨さんの研究発表を聞いたのは、京大で行われた研究会だった。東京から夜行バスで行ったため、寝不足の頭で必死に理解しようとしていたことを覚えている。

    安冨さんは、物々交換のプロセスの中から対称性の破れが起こって貨幣が形成されるという研究発表をしていた。経済学をこのような手法で研究することが可能だということがとても新鮮で面白く感じたことをよく覚えている。

    人生は非線形現象である

    その後、私は大学院を中退して物理の予備校講師になり、オンラインの予備校を作ったり、反転授業の研究というオンラインコミュニティを作ったりと、非線形現象や複雑系とは、直接関係のない活動をしてきたが、その間、自分自身の思考の枠組みが大きく変化し、それに伴って世界の見え方が劇的に変化するということを2度体験した。

    最初の大きな変化は、学生結婚した妻が病気になったことをきっかけに大学院を中退したときに起こり、2回目の変化は、東日本大震災をきっかけに起こった。

    思考の枠組みの変化が起こる過程では、一時的に混乱状態に陥るが、その状態を自分自身で把握するのに非線形現象に対する理解が役立った。恩師の「カオスには世界をサーチする力がある」という言葉は、最初の大変容のプロセスのときに心の支えとなった。

    大学院で研究のための知識として学んだ非線形現象の知識は、いつの間にか変化に満ちた人生を言語化するためのツールへと役割を変えた。

    20年ぶりに安冨さんと巡り会い、安冨さんが書いた「合理的な神秘主義」を読み、その中に「非線形哲学」という言葉を見つけたときに、今自分がやろうとしている生命論的パラダイムの構築に、非線形現象の知識を生かせることに気づいた。

    それは、あたかも使われるのを待っていたかのように自分の中に存在していて、そのことに感動してしまった。

    生命論的パラダイム

    反転授業に取り組むようになり、それが、教育システムのパラダイムシフトに関わるムーブメントであることに気づいた。

    産業化社会は、線形的思考によって作られている。線形現象というものは、本来は非線形現象に満ちあふれた世界を、線形近似したにすぎない。実験室では、単純理想化した環境を作り、線形的に理解できる状況を人工的に作り出す。

    線形的に単純な因果律で理解したいという精神が、実験室という人工的な世界を作りだし、その中で起こった現象を線形的に理解しているのだ。

    非線形現象を線形的に理解するためのは、外部との相互作用を断ち切って空間的に隔離した密室を作り、循環的な時間の一部を切り出して直線的な時間と見なし、その時間の前後に因果律を見いだす。

    そして、その因果律が、実験室内で再現可能であることをもって「科学的である」と主張し、実験室内の結果に基づいて得られた結果を、適用範囲外の実験室の外の世界へ当てはめていく。

    線型的に理解したいという精神が、非線形な世界を線型に理解可能な形に歪めた上で、「理解した」と宣言するという倒錯がここにはある。

    この構造は、学校の教室にもそのまま当てはまる。

    非線形現象の塊である子どもを、外部の相互作用と遮断した教室という密室に隔離し、入力に対して決まった応答を返す線形システムとして扱えるように管理していく。

    子どもの非線形性に寄り添うのではなく、子どもを「線型化」していくことは、暴力的なのであるが、それが、あまりに蔓延してしまっているので、その暴力性には気づきにくい。

    暴力性の度合いを強め、子どもに対する管理を強めていくほど、子どもは均質化し、決まった応答を返すようになる。その入力ー出力関係の再現可能性を根拠に、「科学的に」教育システムが成功していることを主張するのが、工業社会における教育システムではないだろうか。

     

    非線形的な語り

    先日、私の扉を開いてくれた深尾葉子さんと安冨歩さんの2人とZoomで話をする機会があった。

    深尾さんが現在執筆中の論文について議論相手としてお役に立てればということで参加した。

    fukao04

    その中で、安冨さんが語っていた言葉

    非線形性にこだわって、非線形な語りをしていく。

    が、とても印象に残った。

    生命論的パラダイムは、非線形現象である生命に寄り添っていくものになる。

    そこでは、線型的な理解をするために現実を歪めるのを止め、非線形現象を非線形なまま語っていくことになるはずだ。

    人間の頭に理解しやすくするために世界を歪めていく暴力が、地球環境と人間の魂を傷つけている。

    線型的な思考からは、地球と魂を癒やす知恵は産まれてこないだろう。

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 生きるためのx、自分と繋がるy

    生き物は、生まれた瞬間から学び始める。

    学ぶことは、生きることと不可分なのだ。

    外から情報を取り入れ、自分の中で統合し、身体知へと変えていくことで、外部を内部に取り込んでいく。

    このときに大事なのは、入ってきた情報に対してフィードバックループを回し、自分で取捨選択して統合していくというプロセスだ。

    何かしらの理由でフィードバックループが切断され、統合化のプロセスが回らないと、魂は呪縛される危険にさらされる。

    人間も自然の一部であるのにも関わらず、デカルトは人間の理性を自然と切り離し、理性によって切り離した記述空間を作り出した。

    その自然と分断された空間の中で科学は誕生し、科学は機械文明を生み出した。

    機械文明における規範は、すべてが予定通りに動くことである。不確定要素は排除すべきものであり、予定通りに動かない部品は不良品である。

    自然は、人間の居住空間から追い出され、コンクリートで固められた都市空間が誕生した。ここでは、すべてが予定通りに動くのだ。

    追い出されたのは、外部の自然だけではない。

    人間の内部に存在する自然も、不確定要素を生み出すものとして排除されてきた。

    社会秩序を構築するために、人間は内なる自然から沸き上がってくる感情を抑え、社会における役割を正確にこなしていくことを求められるようになってきたのだ。

    このような機械文明的な社会秩序を構築するために、学校教育が利用されてきた。

    一方的に大量の情報を流し込み、各自が自分の中でフィードバックループを回して統合する時間を与えないようにすると、子どもたちの魂は呪縛されていき、魂の上に蓋を創り、蓋の上に機械文明への適応のためのインターフェースを構築する。

    このようにして、機械文明を支える人間が大量生産される。

    機械文明がもたらした恩恵もある。機械文明が生まれなければ、私は、日本のどこかの田舎で、農業をして一生を送る以外の選択肢を持つことができなかっただろう。このようにインターネットによって様々な情報にアクセスし、ブログに記事を書いて多くの人たちに発信することができるのは、まさに機械文明のおかげだ。

    しかし、だからといって機械文明のもたらした闇を肯定することにはならない。

    きちんとフィードバックループを回し、主体的に機械文明の中で取り入れる部分を残し、捨てるべき部分を捨てる判断をしていくことが重要なのだと思う。
     
    機械文明は、自然のすべてを記述空間の中に写し取り、思い通りに管理できるはずだという証明されていない前提に基づいて突き進んできた。
     
    しかし、1970年に見つかった「カオス」により、非線形システムの挙動は予想不可能であることが記述空間の内部で証明された。生命は、まさに非線形システムであり、その振る舞いを予想し、制御することは原理的に不可能なのだ。
     
    「自然を完全にコントロールする」という機械文明の思い描いた夢は、すでに実現不可能であることが確定しているのだ。

    現在、機械文明がもたらしている深刻な問題は、2つの自然破壊だと思う。

    1つ目の自然は地球だ。自然を克服するという旗を掲げて突き進んできた機械文明は、毎年、地球の生産量の1.5倍を消費するようになるまで膨張してしまった。自分の乗っている宇宙船地球号を食いつぶしていった先には、当然ながら未来は存在しない。

    もう1つの自然は人間の魂だ。蓋によって封じ込められた魂は、暴力的に発露する。それは、自分自身に対する暴力(=病気や自殺)という形を取ったり、他人に対する暴力(=ハラスメント、差別、戦争)といったものが起こりやすくなる状況を生み出す。

    この状況をどのように変えていけば良いのだろうか?

    一番最初に戻って考えてみよう。

    機械文明は、デカルトが内なる自然である魂と外部世界とを切断し、分断を生み出したことから始まった。

    デカルトは、『方法序説』において、複雑な現象を理解するために、十分に簡単だと思われる要素に分割して理解した後、それらを総合して全体を理解する分析と総合の手法の有効性を説いた。

    これは、機械論を支える要素還元主義を生み出した。

    しかし、自然は、分析と総合の手法によって理解できない存在だ。

    魚を切り分けてしまったら、「生きた魚」という存在は失われてしまう。

    非線形システムは、要素の集合体以上の全体性を持っていて、その全体性は分割によって失われてしまうのだ。

    今、私たちがやらなくてはならないのは、分断されてしまった世界を統合していくことだと思う。

    まずは、人間の魂と外部社会とを隔てる蓋を溶かし、人間の内部に生まれている分断を統合するところから始めよう。

    それが、生きるためのx、自分と繋がるyという学びを立ち上げようと思った理由だ。

    xやyには、各自が好きなものを入れて、好き勝手に初めて欲しい。
     
    まずは自分が先頭を切り、xに物理を代入し、「生きるための物理」をやってみる。

    9月18日に、そのコンセプトについて語る予定だ。

    「生きるための物理」とは何か

    facebooktwittergoogle_plusby feather
  • 『ソウル・オブ・マネー』を実践して気づいたこと

    自分らしく生きることを邪魔するものがある。

    それが、外発的動機付けである。

    学生時代には、学力テストの点数が外発的動機付けとして使われ、自分らしく学びたい気持ちを邪魔してくる。

    点数をとらねばならないというプレッシャーで後ろから押され、人よりもよい点数をとって優越感を得たいという欲で前から引っ張られる。

    外発的動機付けが強い場にさらされると、子どもたちは、自分の地平で生きるのを止め、他人の地平で生き始める。

    自分の頭で理解したり、納得したりすると時間がかかってしまって学力テストで点数が取れないので、点数をとるためにやり方を覚えるという方法を取るようになる。

    自分にとっては無意味な作業を、外発的動機付けのために延々とやり続けるようになってしまうのだ。

    この延長線上に、会社への就職があり、学力テストによって行われていた外発的動機付けが、会社での地位とお金に置き換わる。 

    自分の魂がワクワクしてやりたい活動をあきらめ、お金になる仕事へ時間を振り分けるようになる。

    お金がないと生きていけないぞという恐れによって後ろから押され、多くのお金を持つことで「成功」したいという欲により前から引っ張られるのだ。

    一度、自分の地平で生きることを手放すと、外発的動機付けがないと前に進めなくなるため、自ら外発的動機付けを求めるようになる。

    このようにして、お金で支配される仕組みができあがっていく。

    『ソウル・オブ・マネー』を書いたリン・トゥストさんは、ファンドレイザー(資金調達者)である。

    お金をよい活動に流すために、お金を集める仕事だ。

    『ソウル・オブ・マネー』を読んだことがない人は、このビデオを見てほしい。リンさんが伝えたいことが分かると思う。

    彼女は、外発的動機付けに対して、次のように述べる。

    「私たちは誰もが、生涯にわたり、お金への関心と魂の呼び声との綱引きを経験します。」

    そして、「魂の次元」にいるときは、誠実に行動し、思慮深く、寛大で勇気があり、献身的で、愛と友情の価値を知っているのに対し、「お金の次元」にいるときは、本来の自分として認識するハートから断絶してしまうことが増えてくるのだと述べる。

    最近、魂の脱植民地化というテーマにはまっている私にとっては、「魂の次元」が「自分の地平」に、「お金の次元」が「他人の地平」に対応するように思える。

    「お金の次元」で生き続けることは、魂が植民地化されることを意味し、「生きるために働いている」のではなく、「死ぬために働いている」ような状況になっていくのだ。

    しかし、それは、お金の問題ではなく、お金との関わり方をどのように選択するのかという問題なのだとリンは言う。

    お金そのものが問題なわけではありません。お金そのものは善でも悪でもありません。お金そのものにはパワーがあるわけでも、パワーが無いわけでもありません。それは、私たちのお金に対する解釈、お金との関わり方次第であり、自己発見と自己変容の本当のチャンスを発見する場所なのです。

    全くその通りだと思う。理屈は分かった。

    しかし、自分の心の底まで浸透してしまっている現代社会の常識を払拭し、魂の次元でお金を使えるようになるためには、リハビリが必要だ。

    そこで、できるだけ、魂の次元でお金を使ってみて、自分の内部と外部にどんなことが起こるのかを実験してみることにした。

    自分で金額を決め、感謝を込めてお金を払う

    1年近く、できるだけ「魂の次元」でお金を使うことを心がけたところ、応援を意図して、コミットメントを表現するために使うお金というものは、とてもパワフルなものなのだなということを実感することができた。

    商品の価値と交換するためのお金を使うのではなく、自分が創りたい世界が広がっていくことを意図してお金を使っていくと、そのお金が高額でなくてもパワーを発揮する。

    「お金の次元」で埋め尽くされている社会において、「魂の次元」で使ったお金は光を発する。

    背景の闇が暗いほど、光は鮮烈な印象を残す。

    自分が感謝を感じていることに対してお金で感謝を表現していったり、自分ができないことを代わりにやってくれる人に対して感謝の気持ちをお金で表したり、お金を自分の在り方の表現として使うようにすると、いろいろなクリエイティブな使い方を見つけることができた。
     
    クラウドファンディングにお金を払うだけでなく、挑戦者に連絡を取り、うまくいく方法を一緒に考え、支援者を募るためのオンラインイベントを共に行い、支援者のコミュニティ作りを行った。
     
    今年の5月から、それまで広告費に使っていた毎月10万円を、すべてペイフォワードに使うことを決めた。お金を「魂の次元」で使うことによって引き起こすことができるパワーを信じられるようになってきたからだ。

    そのようにして使ったお金は、人と人との縁を深め、その縁から創造のサイクルが回り始める。

    人を信頼できるようになり、自分のことも信頼できるようになり、心に平安がやってきて、孤独感が減っていく。

    そんな経験を、繰り返しするようになった。

    また、自分自身が、「魂の次元」のお金を受け取ったことは、大きな学びになった。

    そのような想いがこもった応援を受けると、簡単には活動を止められないと感じる。そこに込められた願いを裏切りたくないという気持ちが沸いてくるのだ。

    へこたれそうになったときに、「魂の次元」のコミットメントが思い浮かび、再び勇気を奮い起こして前に進めるようになる。

    本当に金額ではないのだ。

    ただし、注意しなくてはならない点もある。油断していると「魂の次元でお金を使うと、結局は得する」というような思考が回り、お金の次元に引き戻されてしまうことがあることだ。

    常に自分のマインドがどの状態にあるのかを確認しながら、純粋な気持ちでお金を使えたときに、お金はリンさんの言う「超パワー」を発揮する。

    そのことが、体験を通して、自分の身体の中に少しずつ染みこんできている。

    チェンジ・ザ・ドリーム・シンポジウム

    自分の地平で生きることを難しくしているのは、どこに原因があるのだろうか?

    最近、私は、現代社会を覆う機械論的世界観にその原因があるのではないかと考えるようになった。

    大小様々な循環が起こり、それらがゆらぎながら同期して調和を保っている世界の一断片を空間的、時間的に切り取り、直線的な因果関係を見いだしていくのが、古典的な科学の手法だ。

    そして、そこで見いだされた因果関係を、切り取った空間や時間の範囲外へも適用できると考えて拡張しているのが、現在の社会の在り方なのではないだろうか。

    ゆらぎながら全体で調和している自然界に対して、機械論的な因果律を当てはめていくことで生じる矛盾は、地球環境問題や、私たちの心身の不調という形で表面化してきているように思う。

    これらを、機械論的パラダイムを維持したまま、科学の発展によって解決することはできないと思う。なぜなら、機械論的パラダイム自体が問題を生み出しているからだ。

    この問題を解決するためには、世界観を変えなくてはならない。

    生きている魚を切り刻んだ後に、寄せ集めても、「生きている魚」を再現することはできないのと同じように、分割することによって失われてしまう全体性が存在する。

    世界全体に存在する大小様々な循環が、お互いに同期しながら調和を生み出すという生命論的パラダイムは、機械論のように単純に記述に落とし込んで理解することができない。しかし、単純に理解できないのは、人間の認知の限界を示しているだけであり、理解できることを理由に、自然の姿を歪めてしまうのは本末転倒だと思う。

    リンさんたちが始めたチェンジ・ザ・ドリーム・シンポジウムは、その名の通り「夢を変える」ことを目指すプロジェクトである。現代社会が共有している夢、つまり、世界観を変える必要があるのだ。

    その夢の中では、機械論的な世界観に基づいた未来予想プロジェクトが動いており、各自は、自分の魂の作動に基づいて行動するよりも、未来予想プロジェクトが敷いたレールに沿って行動することが求められている。そのレールの上を走るための餌としてお金や地位が使われ、それは、常に充足することが無いため、永遠にレールの上を走り続けなくてはならない。

    レールから外れることは怖いことで、自分の魂の作動に従うよりも、世間で言われていることに従った方が安全だと教えられている。

    しかし、そのレールの先にどんな現実が待ち構えているのか。私たちが心と頭を働かせれば、気がつくことができる。

    リンさんは、絶滅に向かってレールの上をひた走る人たちに向かって、「夢を変えよう」と呼びかける。

    リンさんのような人が存在していることが、私たちにとっては希望だと思う。

    2016年9月4日に、リン・トゥイストさんの来日イベントが東京で実施される。

    この日、東京に行くことができる人は、ぜひ、来日イベントに参加してみてほしい。

    魂と繋がった行動をしている人が発するエネルギーを、感じることができるはずだ。

    来日イベントの情報はこちら

    facebooktwittergoogle_plusby feather