生命論的パラダイム

  • 本末転倒を反転すると元に戻る

    友人のアーティスト、スギオカカズキさんによると、時間の流れが逆転したのはルネッサンス期からなのだそうだ。

    遠近法の発明をきっかけに、完成した状態から逆算して制作していくという方法が生み出されたのだとか。

    未来に完成図を思い描き、そこから逆算して計画を立てていくという思考方法は、時間の進む向きを反転させた。

    しかし、インターネットが発明されて20年がたち、この思考方法と現実とが合わなくなってきているのではないか。

    機械文明を支えてきた機械論パラダイムは、すべてが予定通りに進むことを良しとする考え方だ。

    しかし、生き物がもつ魂の躍動は、「予定通り」をはみ出していくところに本質がある。

    機械論パラダイムは、魂の躍動の抑制とセットになっている。

    だからといって、今すぐ、機械をすべて捨ててしまえと言っているわけではない。

    インターネットだって、機械によって支えられている。

    僕がやりたいのは、機械論に潜む暴力に気づき、機械論から暴力を抜き去って共存できる形を探したいということ。

    機械論に潜む暴力とは、自分自身になることから阻害されること。

    社会における役割(=歯車)を果たすことを強く求められ、型にがっちりとはめられていく。

    だから、その仕組みに気づいて、型をやぶっていくことができれば、自由になった魂が道具として機械を使えるようになる。

    そのために必要なことは、「正直になること」だと思う。

    正直になろうとすると、社会的な正解の外側を表現せざるを得なくなる。

    そのときになってはじめて、抑圧の存在に気づくことができる。

    ひとりで正直になっていくのはつらいし、怖いから、場を創って、その内部で正直になる。

    それを繰り返していくと、どこにいても正直にいられるようになってくる。

    僕たちは、社会から正解を押しつけられていて、正解の枠の内側をきっちりと埋め尽くすことを求められている。

    それができないと、社会人として失格だという烙印を押されるんじゃないかという恐れが蔓延している。

    だから、勇気を持って、「ちゃんとやらない」という選択をする。

    ちゃんとやるのを止めると、場のプロセスが感じられるようになっていく。

    瞬間、瞬間で起こっていることを受け止めて、そこに対して感じていることを返していくことができるようになる。

    ルネッサンス以来、反転していた時間が、もう一度反転して、本末転倒の状況が解消されていく。

    そのなかで、魂の作動によって、必然的に循環が生まれていくのが、自己組織化だ。

    今まで時間を反転させてきたことにも、きっと意味があったのだろう。

    そのことによって、多くの学びがあったはずだ。

    でも、機械論が極まってしまったことで多くの問題が生じている。

    そろそろ本末転倒を反転して、時間の流れに沿って生きることをはじめませんか?

    8月26日に、「未来の先生展」で、学びのパラダイムの反転について語りました。

    すべての根っ子は同じです。

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  • 自己組織化エルダーワーク@オンラインやります

    8月28日~29日、「東京エルダーワーク」というイベントに参加してきました。

    1日目には、東出融さんの身体ワークと、オペラ歌手の倉原佳子さんの素粒子ボイスワークがあり、2日目には、私の「自己組織化エルダーワーク」と、映画『純愛』上映会+対話会を行いました。

    僕が、なぜ、この「東京エルダーワーク」を共同開催したかというところから、今日は、書き始めたいと思います。

    どうやったら世界のパラダイムを反転させられるか?

    311後、次々と立ち現れる問題に対して、問題を解決するのではなく、問題を作り出しているパラダイムを反転しないとどうにもならないという想いが募るようになりました。

    僕は、2012年から、「反転授業」というものに関わっていますが、これは、単なる授業改善の手法ではなく、教育のパラダイムシフトの動きです。

    8月26日には、未来の先生展の「反転ワールドカフェ」で、次のような話をしました。

    教育のパラダイムシフトについて探究を重ねていくと、同じ構造が、いたるところにあることに気づくようになりました。そして、

    「社会のパラダイムを反転させて、社会の仕組みと、自然の摂理とを一致させたい」

    と思うようになりました。

    旧パラダイムが大部分を占める社会の中で、どうやって新パラダイムの世界を創っていけるのか?

    という問いを立てて、様々な試行錯誤を重ねていくうちに、同じように社会のパラダイムを反転させるために取り組んでいる人たちと出会うようになりました。

    東出融さんは、その中の1人でした。

    はじめは、東出さんの奇想天外な話に戸惑ったのですが、自分の思考が深まって行くにつれて、東出さんとのシンクロ率が高まっていくように感じ、Zoomで対話することになりました。

    東出さんの「肚を作る身体ワーク」は、僕のやっている「魂の脱植民地化」と重なるし、

    東出さんの「鰯の大群になる」は、僕のやっている「自己組織化」と重なります。

    同じところに行き着いてきているということを感じ、東京でのコラボに繋がりました。

    東出さんの身体ワーク

    1日目は、東出さんの身体ワークを全身で受け取りました。

    肚に意識を置き、細い管を通していくイメージをすることによって肚の働きが変わっていくことを体感しました。

    後から話を聞くと、細い管が内側からめくり上がって裏返しになっていき、内側から外側へ出て行くときにフィボナッチのらせんが生じるイメージなのだとか。

    このイメージは、内側の世界と外側の世界とがフラクタルになっている世界観や、植物の形態形成に繋がるものだと思いました。

    東出さんに「腹落ちする」という身体感覚も、今まで自分自身が思い描いていたものと重なりました。上と下からやってきたものがねじが締まるような感じで組み合わさっていくような感覚だとか。これは、清水博さんに教わった「相互誘導合致」というイメージとぴったりで驚きました。それを、自分でも身体的に感じられるようになると、「理解」というものが、違ったイメージで捉えられるかもしれません。

    身体ワークの中で、東出さんの「股力」のパフォーマンスがありました。これは、腕を股に挟んでもらって、両足の動きを感じたのですが、東出さんが、頭の中のイメージを変化させることで、足が内側に回転しながら閉まっていき、ローラーに巻き込まれていくような感じでした。

    その動きをマスターするためのものがカエルポーズで、実際にやってみると、少しずつ足の付け根が内側に回転していくことが感じられるようになりました。これも、続けていることで見えてくるものがあるのだと思います。

    頭の中のイメージを変化させることで身体が変化し、身体の動きが変化することで思考が変化するという心身一如の一端を感じることができるワークで、身体の探究の貴重な入り口を教えてもらいました。

    自己組織化エルダーワーク

    1日目の身体ワークを全身で受け取り、2日目の「自己組織化ワーク」をどのようにやるか。

    一晩、考えて決めました。

    自己組織化というのは、頭で設計した秩序ではなく、自然界が行っている秩序化の働きによって集団の動きを作るというものです。

    秩序からカオス

    集団のメンバーが、自由に行動するようになるとカオスになります。

    プロセス指向心理学の創立者、アーノルド・ミンデルは、紛争こそが最高の教師だと言います。カオスを怖れるのではなく、「自由の対価」と見なして、炎の前に座り、場のプロセスから秩序が現れるように場をホールドするのが、エルダーの役割です。

    東京エルダーワークとは、カオスを怖れずに、自己組織化を起こしていくためのワークショップなのです。

    東出さんの身体ワークや、倉原さんのボイスワークは、身体を通して自己一致する感覚を取り戻していくものでした。

    僕の「自己組織化ワーク」は、教育がどのようにして「自己一致しないようにしているのか」というメカニズムを明らかにし、対話を通して自分自身と繋がっていくようなデザインにしました。

    昨年、対話を通して理解を深めていった「魂の植民地化プロセス」と「魂の脱植民地化プロセス」を言語によって理解することは、気づきを深めていくための言葉や概念を得るために有効だと思います。

    午後からは、実際にコミュニティに自己組織化が起こるためのきっかけを作ろうと思い、オープンスペーステクノロジー(OST)を行いました。

    8つほどの話し合いたいテーマが生まれ、輪になって話し合いが進みました。

    参加者からの感想

    オンライン参加ということで、前日よりも体感が乏しくなってしまうかなと心配していましたが、田原さんの自己組織化をそのベースとなったオンライン環境で体感できたということで、ある意味とても良かったと感じています。人がありのままの自分のまま、ありのままを発信してゆくことで、豊かな創造性が発揮されるという考えに、正に”腸が上がる”ワクワクを覚えました。実際のワークでは、今後に繋がる仲間との出会いがあり、その仲間と一緒に身体の神秘と自己組織化について、さらに引き続き学んでゆける可能性が広がったことに、大きな喜びを覚えました。素晴らしい機会を頂き、本当にありがとうございました。
    純愛を観る機会は今回得られず残念でしたが、今後はネットワーク上でもそうした機会が広がったら(観た後にネット上で感想シェアなど)より面白いかなと思います。

     

    初めてオンラインで話しをするということを体験させてもらいました。よくわからないままのスタートでしたので圧倒されるばかりで話の内容が頭に入らずオンラインのグループトークも話がまとまらず、先ずは自分の中のロックを解除しなければ先には進めないと実感しました。
    でも、初めての話した皆さんの思いや考えを聞いて同感したり、いろんな考え方を聞いて安心した部分もあり凄く頭を使って疲れましたが楽しかったです。ありがとうございました。

     

    田原さんのお話は、目からウロコが落ちるような気付きをいただきました。
    そして、オンラインによって色んな可能性が溢れてきますね!
    離れている人たちがネット空間に集まってミーティングやセミナーができる! 色んな状況をクリアできる、集まれる空間がある事が素晴らしいです。

    自己組織化エルダーワーク@オンライン

    自己組織化は、学ぶものではなく、起こすものです。

    イベントで話を聴くものではなく、日常の中で巻き起こすものです。

    東京エルダーワークは、そのためのきっかけ。

    自己組織化を起こすためのゆらぎの1つ。

    僕は、ここからが、本番だと考えています。

    以下の日時で、自己組織化エルダーワーク@オンライン を行います。

    日時 9月11日20:15-22:15

    場所 Web会議室Zoom

    対象 東京エルダーワークの参加者、あらえびすのサポーターさん

    東出さんが、情熱を持って起こしたい現実。1万人の雛形。

    これを実現するための助けとなる動きを生み出したいと思っています。

    未だ生まれていない「鰯の大群」という現実を生み出すのがアート。

    身体ワークも、自己組織化ワークも、それを生み出すための手段だと、僕は考えています。

    一緒に未来を生み出しませんか?

    どのようにしたら、あらえびすに自己組織化が起こるのか?

    二日間を共に過ごした僕から提案があります。

    その後、対話を行いましょう。

    自己組織化エルダーワーク@オンラインの申し込み

    ※今回は、多くの人に田原の本気のオンラインの場を体験してもらいたいので、参加費をいただきません。

    ※余力がある人は、東京エルダーワークの自己組織化エルダーワークの動画をご覧になってから参加するのがおすすめです。(見てなくても参加可能です)→ 動画視聴の申し込み

     

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  • お互いの内側の森に種を蒔き合う

    責任と影響力

    社会構造に無自覚に過ごした20代の終わりに待っていた人生のちゃぶ台返しを経て、自分が無自覚に及ぼしてしまう権力というものに対して恐怖が芽生えた。

    男性優位社会において「男性」であり、学歴社会において「高学歴」であり、教室で教壇に立っていたりすると、それだけで、権力構造の文脈の中に取り込まれ、自分が好むと好まざるとに関わらず、自分から権力が発動してしまう。

    ヒエラルキー構造において影響力を持つということは、ヒエラルキーにおける上位のポジションを得るということと同義である。影響力は、個人ではなく「立場」から生まれ、上から下へと一方向的に伝わっていくからだ。

    ヒエラルキー構造において、「下の者」は、「上の者」に支配されることを要求される。そして、「上の者」が管理責任を持つことによって、「下の者」は責任を免除される。自分は命令に従っただけで、責任は「上の者」にあると考えることで、行為に対して責任を持たなくてもよいとされるのだ。

    このように、責任や影響力といった言葉には、機械論パラダイムの手垢がべったりとついている。

    それが極まると、アイヒマン裁判で有名なナチスのアイヒマンのように、自分がどのような行為をしても「命令に従っただけなのだから無罪である」というような責任転嫁の感覚に行き着く。

    フォアグラ型教育では、フォアグラ生産者がガチョウのフォアグラの大きさを管理し、責任を持つ。

    ガチョウは、自らの身体の管理を手放し、病気になれば、フォアグラ生産者の責任を問う。

    この構造は、学校教育を通して構築され、社会の様々な場所に浸透している。

    責任

    僕は、フォアグラ生産者として影響力を及ぼしたり、責任を取ったりしたくない。

    そして、ガチョウとして、誰かに責任を取ってもらったりもしたくない。自分の人生の責任を自分で持ちたい。

    権力を行使せずに、他人とどのように関わったらよいのだろうか?

    分断を乗り越えるためには、他人と関わる必要があるけど、影響力や責任と、どのように向き合ったらよいのか?

    そんなことを考えながら、散歩をしていたら、ある気づきが降りてきた。

    お互いの内側の森に種を蒔き合う

    僕が考えていることのすべては、言葉も含めて、すべて外側からやってきたものだ。

    いろんな種が撒かれて、僕の内側に森が繁っている。

    子どもの頃は、きっと森じゃなくて、管理された「畑」だったのかもしれないけど、今じゃ、いろんな植物が繁って森になってきている。

    対話をすると、相手からいろんな種が飛んできて、自分の森に着地し、必要に応じて発芽する。

    自分から出た種も、相手の内側の森に撒かれて、必要に応じて発芽する。

    必要が無ければ発芽しない。

    発芽するかどうかは、宇宙が決めること。

    相手を管理して、相手の内側に無理矢理に種を蒔き、思った通りに育てようとすると抵抗にあう。だからこそ、管理と権力はセットで行使される。

    権力を行使するのではなく、相手から受け取った種を、自分の内側の森で大切に育てていく。

    それぞれが、種を大事に受け取って育てていくという世界を、まず、自分が創っていく。

    そして、「あなたから受け取った種が発芽して、こんなに大きくなりましたよ。ありがとう。」と伝えていく。

    自己肯定感が低いと、自分が周りに与えている影響を認識できない。

    自分が撒いた種が、他の人の内側の森で発芽しても、それが自分の種のはずはないと思ってしまう。

    だから、ちゃんと覚えておいて、「あなたの種が、こんなに大きく育ちました」と伝えていくことが大切だ。

    感謝と共に受け取った影響を伝えていくことで、自分の持つ影響力を認識できるようになり、正当な自己肯定感を取り戻していくことができる。

    これは、そっくり自分にも当てはまる。僕も、「あなたの蒔いた種が、私の内側の森で育ちましたよ。」と伝えてもらうことがあり、そのおかげで、自己肯定感を取り戻すことができる。

    感謝を感じながら、自分の内側の森を育てていくと、多くの果実が実る。

    この果実は、自分が実らせたものではなく、多くの人からいただいた種が森を育み、豊かな土壌生態系を生み出し、森に多種多様な循環が生まれたからこそ実ったものだ。

    だから、「みなさん、ありがとう!みなさんのおかげで、こんな果実が実りましたよー。一緒に食べましょう!」と声に出すことができる。

    そして、そうやって食べる果実は、1人で食べる果実より、何百倍もおいしい。

    内側の森

    共創の世界は、とても豊かだ。

    内側の森には、いくらでも種を蒔くことができ、次々に創造のサイクルが回る。

    若い頃に教わってきた「創造性」は、個人に属するもので、それが、自分に備わっていないことが残念だった。

    でも、そうではなく、「創造性」は、宇宙に備わっているもので、自分の内側の森の存在に気づけば、誰もがアクセスできるものなのだと思う。

    分断の呪縛を解き、内側の森に、お互いに種を蒔き合っていきませんか。

    すでに現れつつある豊かな世界を、一緒に探求してみませんか。

     

     

     

     

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  • フォアグラ型教育から対話型教育へのシフト

    私が、教育システムの構造的な問題について考え始めるきっかけとなったのは、311の後に見えた光景だった。

    それが、実際に見えたというよりも、自分にはそういうように感じられたということなのだが、とにかく、次のようなことが自分には見えてショックだった。

    真実を見てつらくなるよりは、今まで通り、楽しく生きたい

    真実はどこにあるのか?と思って、夜も寝ないでインターネットで調べまくっていた自分は、他の人も同じことをやっているはずだと漠然と思っていたが、必ずしもそうではないのだということに気づき、呆然とした。孤独も感じた。

    そして、それが個人の問題ではなく、教育システムや、社会システムが生み出した問題だと思い、そのメカニズムを明らかにしたいと思った。

    真実を見に行くことに対する恐れは、自分自身にもある。それを見に行くと、世界の底が抜け、取り返しのつかないことになるのではないかという恐怖がわいてくる。

    実際に見に行くと、確かに世界の底が抜けてしまい、ある意味、取り返しがつかない状況になったりするわけで、底が抜ける直前は、すごく怖いわけだが、抜けてしまえば、自分の中の囚われが少なくなり、思考が自由になる。すると、いろんな人と繋がれるようになり、自分の創造性が、明らかに増していく。心が柔らかくなってきて、外部の刺激に強く反応しないで受け止められるようになり、以前よりも、世界を自由に探検できるようになる。それを実感して、自分の世界を閉ざしていた蓋が、刺激に対して反応していたのだということに気づく。蓋がなくなったから、反応しなくなったのだ。

    去年、由佐美加子さんからNVC(非暴力コミュニケーション)のことを学んだり、深尾葉子さん、安冨歩さんの「魂の脱植民地化研究」に関わらせていただいたりしていくなかで、蓋が構築され、世界が狭くなっていくプロセスが明確になったきた。そんな中で、1冊の本と出会った。

    パウロ・フレイレ著 『被抑圧者の教育学』だ。

    この本では、子どもを単なる容れ物だと見なして、お金を銀行に貯金するように、子どもに知識を流し込んでいく教育を「銀行型教育」と呼び、対話型教育へのシフトを呼びかけている。

    そして、教育の中でどのように抑圧が行われているのかを解明していく。この本を読んで、曖昧だったところが明確になった。

    ただ、私には、「銀行型教育」というメタファーが、どうもしっくりこなかったので、もっとよいメタファーがないかと考えていたところ、ぴったりくるものが思い浮かんだ。

    それが、「フォアグラ型教育」だ。

    みなさんは、フォアグラという食べ物を知っているだろうか?

    ガチョウやアヒル、鴨などに対して運動の自由を奪い、餌を強制的に大量に食べさせ、脂肪肝になるようにする。その脂肪肝を「フォアグラ」という食べ物として食べるのだ。

    ここには、生き物を抑圧し、モノ化するメカニズムが分かりやすい形で現れている。

    もし、人間とガチョウがコミュニケーションが取れるとしたら、フォアグラ生産の場でどのようなことが起こるだろうか?きっと、次のようなことになるのではないだろうか。

    フォアグラ型教育

    フォアグラ生産者は、脂肪の多い食べ物をガチョウの口から強制的に流し込む。

    ガチョウの身体は、「もう食べたくない」「苦しい」というサインをガチョウの脳に届ける。

    しかし、ガチョウは、そのサインを受け取って食べるのを止めることができない暴力的な環境に置かれている。

    フォアグラ生産者は、ガチョウが抵抗せずに、むしろ、進んでフォアグラ生産に協力するように、「口を閉じずに我慢できるなんてえらいぞ!」「おまえは、なんて強いガチョウなんだ」と褒めたり、「食べ物を戻してしまうなんてダメな奴だ」と叱ったり、「この檻から出たら餌を取ることができずに飢え死にするぞ」と脅したり、「肝臓の大きいやつほど価値がある」「肝臓の大きい優良な奴は、大きめの檻に入れてやるぞ」などと序列化したりする。

    暴力的な環境に置かれているガチョウにとって、現実を直視するのはつらい。その状況で精神が崩壊することから身を守るために、ガチョウが、身体からのサインを無視し、フォアグラ生産者の意図を内面化していくと、抑圧が進む。

    抑圧されたガチョウは、「自分は我慢強いガチョウだ」という虚栄心を抱いたり、「あいつは、食べ物を戻す弱いガチョウだ」「自分の肝臓のほうが、あいつの肝臓よりも大きいから、自分のほうが優れている」などと他のガチョウを見下したりするだろう。「大きな肝臓になれば、大きい檻に入る自由が手に入るのだ」と考え、進んで我慢して口を開け続けるようになるだろう。ついには、自分の肝臓のことを「フォアグラ」と呼び始め、「自分のフォアグラは5万円の商品価値がある」などと自慢し始めるだろう。

    安冨歩さんは、『生きるための経済学』の中で、次のような思考連鎖を、死に魅入られた経済学(ネクロフィリア・エコノミクス)と呼んでいる。

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    この思考連鎖は、抑圧されたガチョウのことを思い浮かべると納得できるのではないだろうか。

    囚われの身である自分に対する自己嫌悪が、自己欺瞞を生み出し、虚栄や利己心を生み出していく。その先にあるのは、序列化の上に行くことで得られると思わされている選択の自由であり、以下に効率よく序列を上げるのかという行動の最適化だ。

    では、抑圧されたガチョウが、自分自身を取り戻していくためには、どうしたらよいだろうか?

    その第一歩は、身体からのサインに耳を傾けることだと思う。

    生き物は、環境応答能力を持ち、みずから環境を作り替えながら、自分も作り替えていき、自分と環境との間に創造的な活動を生み出していく。

    檻に閉じ込めて自由を奪い、身体からの応答を無視させることで、ガチョウは、多くの飼料を入力すれば、大きなフォアグラがアウトプットされるという単純な入力ー出力関係の物質系に貶められているのだ。

    だから、檻から脱走し、身体からの応答に耳を傾け、環境応答力を取り戻すところが、抑圧から逃れる第一歩になる。

    そして、教え込まれてきたことに対して疑問を投げかけ、それらを自分の語りによって再定義していく。

    そのために重要な役割を果たすのが対話である。

    学ぶというのは、抑圧者の言葉を効率よく受け入れることではない。

    自分が健康に生きるために、環境とやりとりしながら、自分の語りによって世界を定義していくことだ。

    深尾葉子さんは、魂の植民地化を次のように定義する。

    人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。

    また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。

    他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。

    身体からのフィードバックを断ち切り、抑圧されていたガチョウたちが、対話の中から「これは、フォアグラではない。肝臓だ。私が健康に生きるために重要な役割を持った、私の内臓だ!」と気づき、自分の言葉で再定義していくとき、ガチョウの魂の蓋が開き、抑圧され、植民地化されていたガチョウの魂は、脱植民地化されていくだろう。

    安冨さんは、次のような思考連鎖を、「生きるための経済学」と呼ぶ。

    自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

    真実を見に行くと、抑え込んできた強い感情が溢れ出る。それは、多くの場合、痛みを伴う。ガチョウにとって、自分が囚われた存在であり、信じていたフォアグラ生産者が、自分を商品として扱っているという真実を知ることはつらいことだろう。

    しかし、NVC(非暴力コミュニケーション)は、その強い感情を手がかりに、その奥にある自分自身が大切にしているものを探っていき、それと繋がれれば、エネルギーが沸いてくるのだと教えてくれる。私が311の後に感じた強い怒りと哀しみの奥には、「人間(生き物)が、人間(生き物)らしく生きることを大切にしたい」というニーズがあった。このニーズに繋がれたとき、怒りと哀しみの大きさが、自分の内側にあるエネルギーの大きさとして感じられた。

    ガチョウは、痛みや悲しみを感じつつも、感情を抑圧していたときには感じられなかった色彩鮮やかな世界が内部に広がることを感じるだろう。それは、自分自身であることからくる喜びだ。そして、自分の内側に、「生命を躍動させて生きたい」という強いエネルギーが存在していたからこそ、強い怒りと哀しみを感じたのだということを理解するだろう。そのとき、自分が無力な家畜ではなく、自然の一部として祝福された存在であると感じられるだろう。

    自由を取り戻した魂は、創造性を取り戻していく。自由な魂同士が出会うと創造の渦が回っていく。

    フォアグラ型教育から、対話型教育へシフトしよう。

    それは、子どもを抑圧していく教育から、子どもを解放していく教育へのシフトだ。

    そのシフトには、痛みが伴う。

    なぜなら、私たちもフォアグラ型教育を受けてきたし、また、そのような教育を施してきてしまったからだ。

    だが、その痛みは、私たちの内部に、大切にしているものが確かに存在しているという証拠でもある。

    だから、痛みの向こう側にある、自分が大切にしているものを見に行こう。

    そこから、豊かで美しい世界へと繋がるはずだ。

     

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  • 善悪の評価を超えた野原で回る共存在サイクル

    311の後、世界の舞台裏が急に目の前に現れたように感じ、もとの世界には戻れなくなってしまった。

    同じものを見たはずの人たちが、もとの世界で生活を続けているのを見て、孤独感を感じた。

    それまで生きてきた40年間の人生の舞台裏でも、同じようなことが起こっていたのだと思い、自分の人生の意味が変わってしまうような気がした。

    それからの自分は、ずっと怒り続けていた。

    社会システムに対して

    教育システムに対して

    そのなかで生きてきた自分に対して

    311以前の世界を生きている人たちに対して

    怒りのエネルギーを燃料として、問題を掘り下げていくエンジンが回り始めた。

    どうしてこんなことになってしまったのかを突き止めたい。

    自分に対しても、周りに対しても批判の目を向けながら、リミッターを外して、がむしゃらに進んでいった。

    人間を工業製品のように生産する教育システムが、人間の心をどのようにして不自由にしていったのか?

    自分の心には、その影響が、どのように残っているのか?

    人間の心を自由にしていくためには、どのような方法があるのか?

    進めば進むほど、世界の見え方が変わり、それに伴い、自分も変容していった。

    そして、その速度は、どんどん加速していった。

    人間を機械化するプロセスを否定し、ひたすら実験を繰り返しながら生命的に生きるということをやり続けた結果、ついに、そのスピードに身体がついて行けなくなってきた。

    血圧が180を超え、心臓に問題が生じ、首と肩に激しい痛みが出て、身動きが取れなくなった。背中にカッピングをしたら、背中全体がどす黒い紫色に染まっていた。

    仕事を効率化したり、作業を他人に代行してもらったりせざるを得なくなった。

    試行錯誤を通してプロトタイプを創る工房パラダイムを肯定し、大量生産をする工場パラダイムを否定してきた自分が、この両者を統合する必要が出てきた。

    そんなとき、『かかわり方の学び方』という本を読んだ。

    そこで、工房パラダイムから、工場パラダイムへと連続的に繋がるグラフと出会った。

    そのグラフを見ながら、工場パラダイムが極まったら、成功体験を手放してパラダイムシフトを起こして、工房パラダイムを最初から始めるはずだと思った。そして、ペンを取り出して曲線を引いてループを作り、Uプロセスと書き込んだ。

    それを見ているうちに、工房、工場、変容は、どれも、生きていくために必要な要素なのだということが、じわーっと認識されてきた。

    共存在サイクル

    どれかが善で、どれかが悪なのではなく、それぞれが違う評価軸を持っているから、多様な人たちが生きていけるのだと思った。

    共存在サイクル表2

    311の後、ずっと自分の中にあった怒りの奥にあったものが何だったのかが見えてきた。

    怒りの奥にあったのは、人間が人間らしく生きるということを大切にしたいという気持ち。

    それを実現するための手がかりを掴めたことで、自分がやってきたことに意味があると感じることができた。

    ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーは言う。

    「間違った行ないと正しい行ないを超えたところに野原が広がっています。そこで逢いましょう」

    ルーミーは、この野原へ到達するために、どれだけの痛みを乗り越えたのだろうか?

    大きく左右にぶれるからこそ、バランスが取れる中心を見いだすことができるのだと思う。

    共存在サイクルは、誰も否定せず、優劣を作らず、水平に回る。

    これは、ルーミーが待っている野原で回るサイクルだと思う。

     

     

     

     

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  • 「学習するコミュニティ」と「同調コミュニティ」の違い

    コミュニティや共同体という言葉には、束縛やしがらみのイメージがつきまとう。

    でも、私が作りたいコミュニティは、束縛やしがらみのイメージとは正反対のものだ。

    正反対の2つのものが同じ言葉で語られることで大きな混乱が起きている。

    私が作りたいコミュニティの話をすると、私が作りたくないコミュニティのイメージが重なってきて、語るのが難しくなってくる。

    そこで、一方に「学習するコミュニティ」、他方に「同調コミュニティ」という名前をつけて区別することを提案してみようと思い、Facebookに次の投稿をしたところ、多くの方がシェアして下さり、コメント欄にたくさんのコメントをいただいた。

    それらを踏まえた上で、私が考える両者の違いの表をバージョンアップさせて、次のようにまとめてみた。

    学習するコミュニティ 同調(統制)コミュニティ
    「絆」を信頼の意味で使う 「絆」を束縛の意味で使う
    「中庸」=ホメオスタシス 「中庸」=極端ではない
    乱を超えて和に至る 和を乱すなと言う
    自由が推奨される 我慢が強制される
    自分でいることが大事 適応することが大事
    発達障害がギフテッドと呼ばれる ギフテッドが発達障害と呼ばれる
    思いつきから活動が生まれる 規則によって行動が決まる
    創発的計算によって動く 手続き的計算によって管理する
    集合知による一体感 同調による一体感
    和集合で繋がる 共通部分で繋がる
    やりながら考える 誰かの考えに従う
    フィードバックから学ぶ フィードバックが出ないようにする
    各自が役割を見つける 既存の役割から選ぶ
    場のプロセスを読む 空気を読む
    未来を探る お互いの腹を探る
    ドラマが生まれる 予定通りに進む
    創発が起こる 協同現象が起こる
    ストレスが癒える ストレスが溜まる
    素人が考え、玄人が実行する 玄人が考え、素人が従う
    直感で行動してから理性で考える 理性で考えてから行動する
    役割は流動的 役割は固定的
    対話で決める 多数決で決める
    違和感が尊重される 違和感が黙殺される
    生命論的安心感 機械論的安心感
    出る杭は尊敬される 出る杭は打たれる
    外に開いている 内に閉じている
    内発的動機で動く 外発的動機付けで動かされる
    感化によって君子が増える 同調圧力によって小人が増える
    全身で感じる 頭で考える
    分からなくてもやる 分かることしかやらない
    失敗は試行錯誤の一部 失敗は責任問題
    興味を持って相手の話を聴く 自分の判断に基づいて相手の話を聴く
    自分の価値基準に従う 集団の価値基準に従う
    色に例えるとターコイズ 色に例えると赤
    フラットな関係 縦の関係

     

    この中には、私の考えたものもあれば、私のFacebookの投稿に、他の人が追加してくれたものも含まれている。

    すっかり悪者にされてしまった感がある「同調コミュニティ」に対する同情の声もあった。

    違いをどのように表現するかには、様々な意見があると思うが、違いを区別した上で共に考えるということに大きな価値があると思う。

    コメント欄でのやりとりの中で、重要な指摘をいくつもいただいた。

    こちらのコメント欄をご覧いただきたい。

    やりとりをする中で整理されてきたのは、これらの違いがどこからやってくるのかということだ。

    私は、「同調メカニズムも自然の摂理である」という意見に賛成する。その上で、春秋戦国時代の中で孔子が考えたことや、全体主義の台頭に対する反省としてサイバネティクスの創始者であるウィナーが考えたことをもとに考えたい。

    ウィナーは、アリやハチといった社会的昆虫に対する考察から、社会秩序はコミュニケーションによって形成されることを見抜いた。アリやハチの社会は、個体間の多様性が小さく同調による自己組織化によって社会秩序が形成される。

    私たち人間にも、同調メカニズムが備わっており、同調による協働作業を行うことができる。しかし、人間と昆虫とを分ける大きな違いは、「学習メカニズム」の有無である。

    人間は、環境から学習をするため、後天的に多様な個体差を獲得でき、同調によって繋がることだけでなく、違いから学び合うことによって繋がることもできる。後者こそが、人間が新しく獲得した可能性である。

    論語では、学習モードを発動させて対話することによって、カオスを乗り越えて調和に至ることができる者のことを「君子」と呼び、同調モードによってのみ他人と繋がることができる者を「小人」と呼んでいる。孔子が考えたのは、人々が君子になれば、学習モードによって社会が調和に至って社会秩序が形成されるということだった。

    人間は、状況によって同調モードと、学習モードとを切り替えることができる。10人でボートを漕ぐときは、同調モードを発動させて一体となってオールを漕ぐことができるし、同じ10人で対話を行い、ボートレースの戦略やトレーニングについての集合知を生み出すことができる。

    健康なコミュニティは、同調モードと学習モードとが、必要に応じて発動し、協力や学び合いが柔軟に起こるようなものなのではないかと思う。私は、このようなコミュニティを「学習するコミュニティ」と呼びたい。 

    一方で、何かしらの理由で学習モードが抑え込まれると、人間は、人間であるにもかかわらず、「同調モード」しか発動しなくなってしまうのではないだろうか。私は、このようなコミュニティを「同調コミュニティ」と呼びたい。

    つまり、次のようにイメージしている。

    ・学習コミュニティ→同調モードと学習モードが、必要に応じて発動する

    ・同調コミュニティ=同調モードしか発動しない

    人間が本来持っている「学習モード」が抑え込まれてしまっている状況は苦しく、様々なサインが身体や精神から発せられてくる。このサインを徹底して無視していくと、心身を病んでしまったり、魂に蓋をし、適応するための人工的な自己を蓋の上に作り上げてしまったりするのではないだろうか。

    適応するための人工的な自己を作り上げた人たちが集まると、多様性を失っているが故に、同調モードが強力に発動し、同調圧力によって、周りの人の魂を傷つけていく悪循環のスパイラルが回る。ウィナーは第二次世界大戦の反省から、このメカニズムを抽出し、そうならないための方法として「学習に基づいた秩序」というものを考え、サイバネティクスを生み出したのだ。

    学習モードの作動を止めないためには、自分の真実に正直になり、言いにくいことを発言していくことが大切だと思う。

    隠されている真実を、自分から見にいくことが大切だと思う。

    私たちは、同調モードも、学習モードも兼ね備えた人間であり、そのどちらを発動させるのかを自分で決めることができるのだ。

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  • 生命論的パラダイムにおける安心感とは何か

    生命論的パラダイムで生きるという挑戦を続けている。

    挑戦を本格的に始めてから半年が過ぎ、「生命論的パラダイムで生きる」ということが、どういうことなのかが少しずつ見えてきたので、ここにまとめておく。

    機械論的パラダイムにおける安心感

    生命論的パラダイムについて語る前に、機械論的パラダイムについて語っておきたい。

    機械論的パラダイムの特徴は、過去の延長線上に未来が存在することである。

    自然界も人間も、すべてが「予定通り」に動き、秩序が維持される。

    その前提があるからこそ、過去のデータの集積から法則性を見いだし、それを未来に適応していくという戦略が意味を持つ。

    機械論的パラダイムの敵は、故障、エラー、誤差などの不確定要素である。

    それらが存在しないことによって秩序が維持され、その秩序が未来に対する不安を軽減し、「機械論的安心感」を与える。

    終身雇用が成立していた時代は、問題を起こしさえしなければ、身分と収入が保証され、長期の住宅ローンを組むことができた。

    しかし、現在は、そのような保証をしてくれる企業は減り、「機械論的安心感」を得ることが、どんどん難しくなっている。

    成功法則はすぐに陳腐化して使えなくなる。

    「機械論的パラダイムにおける安心感」を求めても、その試みの多くは失敗に終わり、不安が増大していく。

    では、いったいどうすれば、今の状況の中で、安心感を持って生きることができるのだろうか?

    生命論的パラダイムにおける安心感

    自分自身が森の中の1本の木であることをイメージしてみよう。

    自分が木として、枯れずにいられるのは、自分が未来を予想し、その予想通りに森の生命活動が行われているからではない。

    自分も含めた森の生き物が、生命活動を躍動させていれば、様々な循環が生まれ、自分も森も生きていけると確信できるのではないだろうか。

    そこに生命論的パラダイムにおける安心感の手がかりがある。安心感の根拠は、予想ではなく、生命の躍動なのだ。

     

    2016年4月頃、私は、本当に迷っていた。

    その頃の私は、右足を機械論的パラダイムに乗せ、左足を生命論的パラダイムに乗せていたのだ。

    心の中では、生命論的パラダイムに重心を乗せたいと思っているが、それでどうやって生きていけるのかが見えないことが不安で、なかなか思い切ることができなかった。

    一方、自分を長期間支えてきた機械論的パラダイムにも陰りが見えてきて、同じことをやっても収益が上がらない状況になりつつあった。

    迷いに迷った末、確信は持てないまま、生命論的パラダイムに全重心を乗せることにした。先が見えないから不安だという考え方そのものが、機械論的パラダイムにおける不安感だと思ったのだ。

    全重心をかけると、見えてくる景色が一変した。半分だけ重心を乗せているのと、全重心を乗せるのとでは、全く違うのだ。

    半分だけ重心を乗せていたときは、リスク管理をしていたが、飛び込んでしまった以上、向こう岸まで泳ぎ着かなければ死んでしまうので、自分の中の「生きる力」が立ち上がり、必死になって泳ぎはじめたのだ。

    自分のマインドセットを生命論的パラダイムに切り替えるために、毎月10万円使っていた広告費を、すべてペイフォワード予算に振り替えることにした。

    広告は、過去のデータを下に反応率を計測し、反応率がよいものへと改善していくものだが、その結果として、消費者マインドを強く持った人が集まってくる。それが、旧パラダイムの象徴のような気がして違和感を感じ始めたのだ。

    ただし、単に広告を止めただけでは、人が来なくなるだけだ。考えた末に、広告とは180度違うことにお金を使おうと思った。それが、「ペイフォワード予算」だった。

    自分の周りに循環が生まれ、その循環によって自分が生きていけるようになることを意図したとき、まずは、自分からはじめようと思った。

    とはいえ、毎月10万円、見返りを求めずに、感謝と応援に使っていくというのは、なかなか難しいことだ。

    だからこそ、毎日のように、自分は、どこに感謝を感じているか、世界のどこを応援したいと思っているか・・と真剣に考え、払う先を決めて払っていく。

    2016年5月から7ヶ月間やってみた結果、素晴らしい気づきを得た。

    機械論的パラダイムにおける不安の源は、不確定要素であったが、生命論的パラダイムでは、不確定要素こそが創造の源になるのだ。

    自己組織化が起こるターニングポイントは、ゆらぎが広がらずに消失してしまうか、増幅されて渦が広がっていくかどうかにある。そのような活性化した場が周りにできていれば、創造の渦が巻き起こっていく。

    自分の周りの場を活性化させ、ゆらぎが増幅されて広がっていくようになれば、自分は生きていくことができる。「ペイフォワード予算」は、自分の周りの場を活性化させるための投資だと考えると、全く非合理的な行動だと思っていたものが、合理的な行動だと思えてきた。

    多くの人とコミュニケーションを取りながら生きていると、ちょっとした思いつきや提案などがやってくる。

    それらの多くは、計画に従って動いているときには無視されるような小さなゆらぎである。

    しかし、それを無視しないで、片っ端から増幅していくと、毎週のように新しいプロジェクトが立ち上がるようになる。

    ゆらぎを無視しないだけでなく、増幅していくのだ。そうすると、共創造のサイクルがどんどん回り始める。

    不確定性は増大し、1ヶ月後に自分が何をやっているのか全く予想できなくなる。

    ただし、それは不安ではない。

    こんな頻度でプロジェクトがニョキニョキと立ち上がっていくのであれば、生命の躍動に支えられて生きていくことができるはずだという安心感があるのだ。

    私は、これを「生命論的パラダイムにおける安心感」と名づけた。

    半年前、「機械論的パラダイムにおける不安」を強く感じておびえていた私は、異なる種類の安心感を手に入れた。

    最近は、予想の付かない展開に次々に巻き込まれるようになってきた。

    未来は、余計に予想不可能になってきた。

    しかし、それは、不安ではなく希望である。

     

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  • ゆらぎに詰まった叡智が創発の種になる

    進路に迷っていた大学3年生の頃、配属が決定していた研究室のゼミのテーマが「カオス」だったことがきっかけで、J・グリックの『カオス-新しい科学をつくる』を読んだ。

    物理学科の中では、優秀な人たちは宇宙論か素粒子論へ進む。そこでの激しい競争に身を投じる自信のなかった私は、それ以外の分野で面白いテーマはないかと考えていたのだが、そんな私にとって「カオス」は、まさにぴったりなテーマだった。

    私がカオスに惹きつけられた理由は、競争に勝ち抜く自信がなかったことに加えて、カオスから、パラダイムシフトの香りがしたことだった。

    当時、科学が人を幸せにしているという神話を信じられなくなっていて、どうせやるなら、パラダイムシフトを起こしていく側に回りたいという想いがあったのだ。

    そんなこんなで、この分野を極めることを勝手に決意し、猛烈な勢いで、カオス、非線形物理、自己組織化、複雑系・・などを学んでいった。

    協同現象(シナジェティクス)との出会い

    卒業論文を書きながら、いつも傍らに置いていたのが、H・ハーケンの『協同現象の数理ー物理・化学・生物における自律形成』だった。

    ハーケンは、多くの量がお互いに関係し合う複雑なダイナミクスにおいて、どのようにして秩序が生まれてくるのかを研究し、その結果、「隷属化原理」というものを見つけた。

    これは、様々な変数の中で、ゆっくり変化する量が秩序パラメーターのように振る舞い、その他の変数がそこに「隷属」していくという仕組みだ。

    秩序パラメーターというのは、変化を外側からコントロールする量だと考えればよい。たとえば、水の融点を調べる実験を行う場合は、水槽を固定し、ゆっくり温度を下げていく。この場合、水分子同士の相互作用などが観察しているダイナミクスで、温度が秩序パラメーターになる。

    このような人為的な実験では、ダイナミクスと秩序パラメーターとを区別するが、自然界には秩序パラメーターなど存在せず、ダイナミクスしかない。

    しかし、変化の速度が速い量と遅い量とがある場合、変化の速度が速い変数から見ると、遅い変数は、あたかも「定数」のように振る舞うようになる。

    例を挙げよう。私たちの日々の活動に比べて、太陽系が形成されて消滅していくダイナミクスは遙かにゆっくりしているので、私たちは、太陽系を「変化せずに存在しているもの」として捉え、そこに適応していく。

    「変化せずに存在しているもの」はフレームワークを与える。フレームワークが与えられると、その内部で最適化が起こり、ダイナミクスが単純化してくる。いくつかの変数が定常状態に落ち込むと、それは、新たに「変化せずに存在しているもの」となり、他のダイナミクスのフレームワークとなる。このようにして、乱雑な状況から秩序が生まれてくる。ハーケンは、これを、協同現象(シナジェティクス)と呼んだ。

    ゆらぎを通した秩序~散逸構造

    隷属化原理に基づいた協同現象については、理解できたが、私が知りたかったことは、自発的に複雑化していくプロセスだった。それこそが、私の考える自己組織化のイメージだったのだ。

    イリヤ・プリゴジンの『ゆらぎを通した秩序』という言葉にヒントがあるのかと思い、修士課程では『散逸構造』の自主ゼミを行った。

    熱力学第2法則は、孤立系ではエントロピーが増大していくことを主張する。つまり、コーヒーにミルクを入れると、どんどん混ざっていくように乱雑さが一方的に増大していくのだ。

    しかし、非平衡開放系では、エネルギーや物質の循環が起こる可能性があり、混沌とした状態から秩序が立ち上がってくる可能性がある。

    プリゴジンは、非平衡状態の熱力学を用いて、一様な状態から、秩序が立ち上がっていくダイナミクスを明らかにし、「散逸構造」と名づけた。

    ゆらぎが増幅され、時空間パターンが形成する例として有名なのは、B-Z反応だ。

    プリゴジンは、BZ反応の速度方程式の本質的な部分を抽出したモデルであるブリュッセレータを数学的に解析し、非線形性によってゆらぎが増幅され、一様な状態が不安的化し、縞模様や、振動するパターンが生じてくることを示した。

    このような生き物を想起させるようなパターン形成に、私はワクワクし、このような研究の延長線上に、生き物らしさの理解があるのではないかと思った。

    創発システム

    自分は何に惹かれているのだろうかと問いかけながら研究を進めていく中で、生命現象の自己組織化へと興味が向かっていった。

    ビッグバン以来、自発的対称性の破れが次々に起こり、異なる状態同士が接するインターフェースのところに散逸構造のような渦が巻き起こり、隷属化原理によって単純な構造に落ち込む働きと、更に複雑な仕組が生まれていく働きとが拮抗しながら、より高度な秩序を創りだした結果として生命が生じていると考えたときに、生命は、究極の自己組織化現象だと思ったからだ。

    私は、袋小路にはまったときに、ゆらぎを増幅させて、そこから脱出していくことができるという部分に生命らしさを感じる。

    あるフレームの内部で最適化されていく活動と、そのフレーム自体を抜け出して、創造的な解を見つけ出していく活動とが両立するようなダイナミクスが、生き物のダイナミクスなのではないかと考える。

    ある行動ルールを与えたサブユニットが相互作用した結果、集団の中にサブユニットに帰着できないような活動が生まれ、それが、私の考える生き物らしさを表現してくれるのではないか?

    非線形現象、カオス、散逸構造、協同現象・・などの概念の絡み合いの中で、生き物の創造性を理解できるのではないか。

    複雑系研究者の多くが、そのような想いで創発システムを研究していたのだと思う。

    私も、同じ夢を思い描きながら、細胞性粘菌を研究していた。

    偏微分方程式で書いた細胞モデルを相互作用させ、細胞集団に個々の細胞モデルの性質には帰着できない時空間パターンを発生させることには成功したが、それは、私がイメージしていた生き物らしさには遠く及ばないものだった。それは、いつも決まったパターンに落ち着くものであった。隷属化原理に基づいた協同現象はシミュレーションによって再現できるが、創造性は発生しないのだ。

    創発が起こるためには、何が足りないのだろうか?

    その疑問は解決しないまま、大学院の博士課程を中退した。

    ゆらぎには叡智が詰まっている

    10年以上経ち、様々な巡り合わせにより、再びこのテーマについて考えることになった。

    反転授業に関わるようになり、学び、組織、社会を、自己組織化の原理で変えていきたいと思って活動を始めた。

    自己組織化について考える中で、協同現象と創発の違いについて、改めて考えることになった。

    そのきっかけになったのは、清水博さんの『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化が2種類に分類されていたことだった。(詳しくはこちら→ 『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと

    ・散逸構造的な自己組織

    ・<いのち>の自己組織

    前者は、固定されたフレームの中で隷属化原理にしたがって再現可能が繰り返されていくような自己組織である。

    後者は、清水さんによると「内在的世界と外在的世界とを循環しながら起こる自己組織」である。

    「内在的な世界」をどのように捉えたらよいのかが分からなかったが、私が探究したい自己組織は、後者であることは明らかだった。

    その後、安冨歩さんの『合理的な神秘主義』を読み、安冨さんとお話しする機会があった。

    そのときから、記述の原理的限界がどのようにして生じるのかということを考え始めた。

    神秘=記述の原理的限界の外側

    と定義し、なおかつ、その存在を仮定したことで、清水さんの「内在的世界」は、記述の原理的限界の外部に存在する世界のことを指しているのだと理解することができた。

    記述をするためには、フレームが必要になる。

    フレームを設定した瞬間、フレームの外部は存在しなくなる。

    外部の存在は、境界条件や、ゆらぎ、という形で代替される。

    シミュレーションでは、ゆらぎは、ホワイトノイズとして導入される。

    ホワイトノイズは、単に内部のダイナミックスを起動するだけの役割を果たし、その結果、内部のダイナミックスが再現可能な形で現れる。

    しかし、私の思考に入ってくるゆらぎは、ホワイトノイズではない。

    それは、いわば、私の脳細胞や体細胞が、私を取り巻く世界からの情報を受け取りながら生きている結果として起こる生命活動のささやきの総和であり、膨大な情報処理がなされた結果として生じるものである。

    私の思考に入ってくるゆらぎには、私と私を取り巻く宇宙の情報が凝縮されている。ちょっと大げさな言い方だが、私を含む宇宙のダイナミクスの一つの現れだと考えることができる。

    yuragi

    そのようなゆらぎが増幅されたときに、創造的な活動が生まれていくのだとすると、私の粘菌モデルに創発が起こらなかった理由は明らかだ。

    安冨さんが、Facebookの私の投稿に、次のようなコメントをしてくれた。

    プリゴジンの「散逸構造論」に、創発への道を夢見て、非線形科学に入ったので、ハーケンの「隷属化原理」という名前に違和感を覚えてしまったのだけれど、『貨幣の複雑性』を書き上げて、よくよく考えてみると、いわゆる構造形成では必ず隷属化が起きていることに気づきました。
    たとえば、貨幣の生成では、そこに効率性の向上と不平等の形成が不可避的に起きる。この状況下で人々が「最適化」を目指すと、貨幣が崩壊して元の不効率で平等な状況に戻る。
    コンピュータで、いくらやっても、より複雑であったり、より豊かであったり、より平等あるような状況への変化が起きないので、困ってしまったのだが、ある時、そこから先に行きたければ「創発」が起きなければならないず、それは「隷属化原理」に従う「協同現象」ではありえないのだ、と気づきました。
    そう考えると、夢を膨らませてくれたプリゴジンより、夢を凋ませてくれたハーケンの方が、正確だった、ということかもしれません。もちろん、両方いてくれたから、たどり着いたのですが。

    安冨さんの言葉を手がかりにして壁を登っていった結果として、創発の概念を自分なりに理解できたことができ、感謝の気持ちで一杯になった。

    自分の内部から沸き上がってくるゆらぎを無視し、「正しいと教えられたこと」に基づいて論理的に生きていくと、創発が生まれなくなるのだと思う。

    だから、ちょっとした思いつきや、やってみたくなったことは、自分の思考が意味づけできなかったとしてもやってみるようにしている。

    それは、脳の上にソフトウェアとして走っている「思考」よりも、遙かに複雑なプロセスによって浮かび上がってきたものかもしれない。

    ゆらぎに詰まっている叡智を信じて増幅していくと、どんなことが起こるだろうか?

    ワクワクしながら、人生の実験を続けていく。

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  • 協同現象として理解するのではなく、創発を起こしていく

    生きるためのXというプロジェクトを立ち上げてから、生命論的パラダイムについて、毎日考え続けている。

    私が立ち上げている「生きるための物理」は、安冨歩さんの「生きるための経済学」をフレームワークとして使いながら、自分の人生の学びを語っていくものだ。

    そして、それをプロトタイプとして、「みんなも、それぞれの人生の学びを語ってみようよ!」と呼びかけていくムーブメントが、生きるためのXである。

    安冨さんは、「生きるための経済学」を次のように定義する。

    「生きるための経済学」とは、ネクロ経済学の論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、ビオ経済を活発にするための経済学である。

    ネクロ経済学とは、安冨さんの造語である。

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    という思考連鎖による経済学を、「ネクロフィリア・エコノミックス」(略してネクロ経済学)と呼んでいる。

    一方で、ビオフィリア・エコノミクス(略してビオ経済学)は、

    自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

    という思考連鎖による経済学であり、これも安冨さんの造語である。

    それを、物理学に当てはめるとどのようになるだろうか?

    この文脈で物理学のことを考えたときに思い浮かぶのは、物理学から生まれた機械論的パラダイムによる魂の植民地化プロセスである。

    生き物は、最適化モードと探索モードとを持ち、それらを自由に行き来しながら魂を躍動させる。

    しかし、機械論的世界観は、魂の躍動を封殺することで、すべてが予定通りに動く世界を作りだしてきた。

    そこで封殺されてきたものは、外部の自然であり、私たち内部の自然である。

    そこで、私は、「生きるための物理」を次のように定義したい。

    「生きるための物理」とは、機械論的パラダイムの論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、生命の躍動を活発にしていくための物理学である。

    物理学=機械論ではない。機械論的パラダイムを乗り越え得る様々な知を内部に蓄えてきた。今、私が、機械論的パラダイムの破壊的側面に対して思考を巡らせることができるのは、機械論的パラダイムを通過し、非線形物理や、複雑系、生物物理、量子力学などを学んだからである。

    生命の躍動を活発にするための鍵になるのが、「創発」という概念を理解することである。

    今日のブログでは、「創発」に対する私の考えを書いてみたい。

    協同現象と創発の違い

    Wikipediaを見ると、創発について、以下のように書いてある。

    創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

    私が、大学院で細胞性粘菌の形態形成について研究していたときも、実は、上記のようなイメージで創発を捉えていた。

    多数の粘菌アメーバが合体し、多細胞の移動体という部分の総和に留まらない組織が「創発」すると考え、アメーバ細胞の数理モデルを相互作用させ、多細胞体の境界が「創発」されるメカニズムを抽出しようとしていたのだ。

     

    しかし、安冨歩さん、深尾葉子さんとの対話から、私がシミュレーションによって見いだそうとしていたのは「創発」ではなく、「協同現象」に過ぎないことに気づいた。

    協同現象というのは、対流や化学反応のパターン形成のように、物質間の相互作用からマクロな構造が生まれる現象のことだ。

    サブユニットに単純なルールを与えて、相互作用させることによって対流のようなマクロなパターンが生じるのは、まさに「協同現象」である。このとき、各サブユニットは、基本的に交換可能な「同質なもの」であり、プログラムなどに記述可能である。

    では、創発とは何だろうか?

    清水博さんは、『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化現象を次の2つに分類している。

    ※詳しくは、『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと を参照。

    物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。

    <いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。

    物質的な自己組織とは、協同現象に相当し、<いのち>の自己組織が、創発が起っている現象に相当する。

    機械論的パラダイムの中で行われた工業化モデルの教育システムでは、人間の自由な探索モードを抑制し、最適化モードのみを発動させて条件付けるので、人間の行動が同質化され、単純なルールで記述可能なサブユニットと見なせる状況が生まれる。そのとき、人間社会には、協同現象が自己組織化しやすくなる。

    人間の自由な探索モードを強く抑制する課程で作動するのが、

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    という思考連鎖である。

    条件付きの愛情などにより探索モードの発動を抑え込まれると、「才能のある子ども」として、自己嫌悪を抱えながら用意されたレールの上を走るようになる。そして、用意された「選択の自由」の中で虚栄心を得られるように行動を最適化する。

    このように外部から行動を最適化された人間は、機械論的組織の中で、上から下りてくる指令を正確にこなす「機能的人間」としての役割を果たすことを期待される。

    私は、それこそが、機械論的パラダイムの破壊的側面だと思う。

    一方で、人間の自由な探索モードを正常に発現させると、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようになり、コミュニケーションのPathの柔軟なつなぎ替えにより、マクロな循環構造が予想不可能な形によって生まれる。それは、人間同士の間だけでなく、個人の思考のネットワークの中でも起るだろう。

    私は、このようなプロセスで起る現象を「創発」と読んで、「協同現象」と区別したい。

    では、サブユニットにランダムネスを与え、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようなシミュレーションを行ったら、「創発」を再現できるのだろうか?

    私は、そうは思わない。

    自由な探索モードによる行動には、各個人の歴史性、身体性が伴っており、無意識レベル、身体レベルに蓄えられた膨大な情報から浮かび上がってくるプロセスが本質的に重要なのだと思う。それを、ランダムネスで近似してしまったら「創発」には、きっとならない。

    私たちは、理由は分からないけど、なんとなく行動を始めることがあり、しばらくしてから、なぜ自分がそれをしたかったのかを理解することがある。

    <いのち>を持った存在は、身体知レベル、無意識レベルでは価値判断をしており、創発的計算の末に直感的に行動を選んでいるのだ。

    それは、おそらく原理的に記述不可能な領域であり、強引にランダムネスで置き換えると、単に協同現象を観察することになる。
     
    協同現象は、外部に条件つけられ「最適解」や「安定状態」へ移行する現象である。一方、「創発」は、枠組みを脱出し、意味をずらしていく現象である

    だから、創発は、記述の世界に落とし込んで知的に理解するものではなく、各自が、自らの身体を使って作動させ、体感によって納得するものだと思う。

    自然界は、創発に満ちている。自分の身体を使って創発を起こす体験は、自然との繋がりを取り戻すことを意味する。

    創発的な場を、数多く創っていこう。

    そして、体験を共有する人たちと語り合っていこう。

    生命論的なパラダイムとは、創発を共通体験として持つ人たちによって広がっていくものだと思う。

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  • 粘菌を通して考える生命論的パラダイム

    20年前に粘菌と出会ってから、粘菌は、自然の摂理について考えるときのプロトタイプとして僕の頭の中にずっと存在し続けています。

    粘菌にはたくさんの種類がありますが、単細胞アメーバが合体して移動体を形成する細胞性粘菌と、多核単細胞の巨大アメーバを形成する真正粘菌が有名です。

    細胞性粘菌は、もともと生物の形態形成や分化比率制御のプロトタイプとして多くの研究者によって研究されてきた生き物ですが、粘菌の生態には、もっと広い意味での生きることの様々な側面が凝縮されていて、たくさんのことを教えてくれます。

    真正粘菌は、ネットワークを形成し情報処理をしたり学習をしたりすることができ、思考の原形を見せてくれます。

    生命論的パラダイムについて考えていく上で、粘菌というプロトタイプを頭に置きながら思考することは、たいへん有効なのではないかと思います。

    場との相互作用で生まれる渦

    大学院時代に僕が取り組んでいたのは、細胞性粘菌アメーバの集合のメカニズムでした。

    細胞性粘菌アメーバは、バクテリアを食べ尽くすと飢餓状態に陥り、cAMPという情報伝達物質を分泌するようになります。このアメーバ細胞は、cAMPに対する受容体を持っていて、自分や他のアメーバが分泌するcAMPの量が一定の閾値を超えると発火して、cAMPをドバッと分泌する性質を持っています。

    これは、ニューロン細胞とよく似た性質で、非線形振動子としてモデル化することができます。

    非線形振動子は、パラメーターによって、外から刺激を与えたときに発火する興奮性を示す状態と、外から刺激を与えなくても自律振動する状態とを取ることができます。

    僕が研究していた20年前は、ペースメーカーと呼ばれる自律振動するアメーバ細胞がいて、その周りに興奮性を示すアメーバ細胞がシグナルをリレーしながら集まってくるという説明がされていました。

    僕は、どうしてもこの説明に納得がいきませんでした。

    生物の発生の根本には、最初は同じ細胞であるにも関わらず、相互作用によって自発的に対称性が破れ、役割が分化していくという性質があると考えていたので、「じゃあ、ペースメーカーは、どうやって誕生したんだ?」と思ったのです。

    それで、「すべての細胞が同じであるにもかかわらず、自律振動する細胞と、興奮性を示す細胞が現れるメカニズムとは何か」ということを考えました。

    それで見つけたのが、興奮性を示す細胞の密度を大きくしていくと、あるところで、みんなで自律振動するようになるということでした。

    タイミングがそろって、ドバッとcAMPを出すようになると、場に溢れだしたcAMPの瞬間的な量が大きくなり、閾値を超えてそこにいるアメーバ細胞が発火できるようになるのです。そして、再びcAMPをドバッと出す・・・というのが繰り返されていきます。

    1つのアメーバ細胞では自律振動できなくても、周りにアメーバ細胞がいて、お互いに引き込みながら同時に振動しているからこそ、自律振動できるというメカニズム。

    僕は、これこそが生き物の本質を表しているのではないかと思いました。

    今年になってから、清水博さんの『<いのち>の自己組織』を読みました。

    清水さんは、物質が示す対流のような自己組織と、<いのち>の自己組織とを区別して論じています。

    清水さんが言う<いのち>の自己組織とは、個体が自分の<いのち>を場に投げ込んでいった結果、場に<いのち>のドラマが起こり、そのドラマから個体が「活き」を受け取っていくというもので、清水さんは、それを、与贈循環と呼んでいます。

    与贈循環については、こちらをご覧ください。

    この本を読んだときに、細胞性粘菌のcAMPの分泌によるパターン形成と集合のプロセスは、まさに、与贈循環を表しているものだと思いました。

    細胞性粘菌の集合メカにズムを知っていたおかげで、与贈循環という概念を深く理解することができたのです。

    粘菌アメーバが集まってくると、密度が高い領域が生まれ、そこから外側へ広がるcAMPの渦が生まれます。

    粘菌アメーバは、コミュニケーションと移動を通してシグナルを増幅していき、渦を生み出し、渦の中心へと集まって合体するのです。

    その壮大なドラマをこちらの動画で見ることができます。

    胞子から発芽して、アメーバになり、集合して他細胞体である移動体になり、子実体を形成するまでの動画

    集まっている様子を上から見た動画

    集合期に発生するcAMPのらせん波の渦

    細胞性粘菌からは、多くのことを学ぶことができます。

    インターネットが発達し、オンラインでコミュニケーションを簡単に取れるようになったことで、人と人との間を情報が飛び交うようになってきました。

    粘菌アメーバが、飢餓状態になることでスイッチが入るように、僕たちも東日本大震災の後の危機感によりスイッチが入り、想いがシンクロし始めているのではないかと思います。

    ただし、僕たちは、粘菌アメーバの1つのような視点で社会を捉えており、自分たちを取り巻く状況を俯瞰することはできません。

    時代の変革期の中で、局所的で限定された情報しかない中で渦を起こしたり、渦に巻き込まれたりするような存在なのです。

    その位置から感じ取れる限られた情報の中で、重要な意味を持つのが、シンクロが起こる頻度です。

    頻繁にシンクロが起こる方向へ進むことで、より大きな渦を起こしたり、巻き込まれたりしていきます。

    シンクロを頼りに、右往左往しながら、徐々に形成される渦によって生まれる動きは、プロパガンダによって外部から誘導される動きとは全く異なるもので、自然の摂理に基づいた<いのち>の自己組織化現象です。

    私たちの身体も自然の摂理に従っており、それを発動させることで、大きな渦が起こっていくのではないでしょうか。

    粘菌アメーバが合体し、多細胞体を形成して長距離を移動していく様子は、まさにパラダイムシフトをイメージ化したものではないかと思います。パラダイムシフトを目指す僕の活動は、細胞性粘菌に導かれるように進んでいるような気がします。

    外発的動機付けによる線型化のプロセス

    真正粘菌は、多核単細胞でありながら、脳と似た構造を持ち、学習や記憶などの知的能力を示すことができます。

    自然に近い状態では、真正粘菌はフラクタル的な複雑な形態をしており、探索行動と選択のバランスを取っています。

    各部分は、非線形振動子と見なせる構造を持ち脈動し、脈動に応じて細胞質流動が起こります。そのメカニズムが統合されることで、複雑な情報処理と変形や移動、学習を可能としているのです。

    その仕組みは、おおざっぱに言うと、次の通りです。

    真正粘菌の一部に餌を接触させると、その部分の非線形振動の振動数が大きくなり、その部分から他の部分へ波が伝わっていき、その波動のパターンが細胞質流動を生み出し、餌を取り囲むように全体が移動してきます。

    一方、青い光などを一部に当てると、その部分の非線形振動の振動数が小さくなるため、波は、光を当てた側と遠い側から伝わるようになり、青い光から逃げるように移動し始めます。

    このように細胞に与えられた外部刺激を非線形振動のネットワークがパターンとして統合し、そこから変形や移動を起こして、意味のある行動を、その時々で創りだしていくのです。

    これを社会のメタファーと捉えると、各個人が学習回路を正しく作動させ、それらが有機的に繋がることで、社会全体として複雑な情報処理をすることができ、自然と調和状態に到達するというように考えることができます。

    これは、論語の「学習に基づいた社会秩序」の考えと非常に近いイメージだと思います。

    粘菌の知的能力を実験するために、しばしば粘菌に迷路を解かせる実験というものを行います。

    迷路の2カ所に餌を置くと、その2カ所を結ぶ最短距離に粘菌は線上に分布するようになります。

    この迷路実験は、見方を変えると、複雑で豊かな活動をしている生命に対して、強烈な外発的動機付けを施し線形化していくプロセスを表していると捉えることができます。

    文字通り「線形化」されてしまった粘菌は、自由度を減らし、刺激に対して決まった応答を返してくる理解可能な単純な系へと縮約されてしまいます。

    これは、外発的動機付けによって生命を制御可能なものにしようとしてきた工業主義的農業や畜産業を思い起こさせるものです。

    学力テストを用いたアメとムチによる条件付けにより、子どもを線形化していく教育とも通じるものです。

    真正粘菌もまた、様々な示唆を与えてくれる存在です。

    (追記)

    2016年に実施した「生きるための物理~真性粘菌に学ぶ生命論的パラダイム」の後、手続き的計算と創発的計算について考えていたところ、ソフトウェア工学の専門家である山崎進さんが、次のような問題提起をしてくれました。

    記述や計算の限界を考える上で興味深い問題提起なので、これについて、引き続き考えていきたいと思います。

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