信じていることを純化させて祈りとして解き放つ

信じていることを純化させて祈りとして解き放つ

大人はこうあるべきという「規格」はどのようにしてできあがっているのだろうか?

日本では、様々な「規格」があり、その規格を満たしていないと周りから指摘されたり責められたりする。

あるべき姿からの引き算で自分を捉えることを求められ、できないことができるようになっても、+2から+5になるのではなく、-7から-4になるだけで、「まだ4足りないね」というメッセージを受け取ることになる。

そして、そのような中に晒され続けると、他人が規格を満たしているのかどうかについて厳しく相互監視するようになってくる。

赤信号を渡って見知らぬ人から注意されたこともあるし、ETCがうまく動作しなかったので車を停止させたら、後ろから知らないおじさんがツカツカとやってきて「バカヤロー」と言われたこともある。

規格を内面化して、その正しさを疑わず、その正しさを根拠に見知らぬ他人に「バカヤロー」と怒鳴ってもOKだと思っている人は、必ずしも少数派ではないと思う。
ということは、これは、個人的な問題ではなく、社会の構造的な問題なのではないかと思う。

規格が、細かい部分まで行きわたっていて、おまけに、年々増えてくる感じがしている。女性の場合は、男性よりも満たさなければならない規格が1.5倍くらい多いのではないだろうか?

いつの頃からか、エレベーターを降りるときに、「閉」ボタンを自分で押しながら降りるようになったんだろうか?

昔は、コンビニの店員は、あんなに接客していなかったと思う。

まともな大人として周りから認められて暮らしていくためのハードルは結構高くて、時間の多くを「規格」を満たすために費やさなければならない。

そして、「規格」には、流行があって変遷するので、自分が「規格」を満たしているのかどうかを、常にチェックせねばならない。

テレビや雑誌では、今の「規格」についての情報を発信しているので、要チェックだ。

「規格」をどれだけ満たしているのかは、上下関係に繋がっている。様々な細かいルールを知っていることを他人に誇り、ルールを知らないことによって他人を見下す。

そうなると、ヒエラルキーの中での最適行動は、自分なりに考えて行動することではなく、社会のルールを学び、目の前の現実に対して、常にルールを参照しに行き、「適切な」行動をしていくことになる。これが、誰からも非難されない立派な大人の行動ということになる。

「規格」を満たしていない人や、満たしたくない人は、社会からネガティブな声を浴びせられ続けるという目に合う。

日本社会は、「規格」を満たしていない人には、本当に厳しいのだ。

これは、いったいどこから来ているのか?

この構造から抜け出していくための未来をどうやって創るのか?

そういうことを、最近、よく考えるのだけど、そのヒントになる動画を福島毅さんが紹介してくれた。

福島さんは、どんぐり教員セミナーの制作者で、僕に必要なものを、必要なタイミングで紹介してくれるありがたい人。

「Co-Creationという世界の生き方、リーダーシップ」

動画の中で話している由佐美加子さんは、『U理論』の翻訳者で、Co-Creationという考え方を提唱している方。

彼女の話の中でとても共感したのが、

「怖れをトリガーにして攻撃か逃避が生まれて、それを土台にして成長神話ができている」

という部分。

由佐さんの言っている「正しいか間違いかの二項対立に陥らない」というのは、言い換えれば、「規格」を満たしているかどうかという思考に陥らないということなのではないかと思う。なぜなら、日本では、正しさの根拠を「規格」に置いているのだから。

他人から攻撃されるという怖れから「規格」を満たした「立派な」大人になるほうへ駆り立てられていき、それを「成長」と呼ぶのは本当に正しいのか?

でも、怖れを回避する方法として、学校教育や社会人教育において、唯一、教えられてきた方法が「規格」を満たしていくという行動パターンで、追い詰められればられるほど、過去の成功パターンを強化していくし、その成功パターンでヒエラルキーを登った人は、その成功パターンを下に押し付けていく。

由佐さんが言う「怖れによる反応によって、外からコントロールされる」という指摘は、とても鋭い。

ここに、別の未来を創るためのヒントが隠れている。

「怖れに対する反応」を引き起こさないためにはどうしたらよいのか?

それに対する由佐さんの答は、

「怖れから目をそむけると、そこから派生して増殖してくるものによって縛られるので、怖れを可視化して正体を見極める」

「反応は、良い悪いの判断から始まるので、良い悪いの判断を辞めると、反応を止められる」

というもの。

そして、「規格」を満たすことに使っていたエネルギーを、そこに使わなくなると、Creationに使えるようになるという指摘は、自分の体験とも一致している。

じゃあ、「規格」を満たすのをやめて、Creationにエネルギーを使い始めたら、生きていけるのか?

というように思考してしまいがちではないだろうか?

「生きていけるのか?」

これは、怖れを発生させる究極の切り札だと思う。

いろんなことを考えても、最後は、「生きていけるのか?」と問われて、また元に戻っていくという思考を僕も何度も繰り返している。

それに対して由佐さんは、

「真・善・美のエネルギーは凄まじい」

と言い切る。これは、僕の固定観念を壊してくれた言葉だったと思う。これを自分自身の言葉として言い切ることができたとき、自分はもっと思いっきりアクセルを踏めるようになるんじゃないかと思う。

リーダーが「これが正しい」という情報を発信すると、「正しい/間違っている」という二項対立に陥り、多くの人に怖れの反応を引き起こし、分断が生まれていく。

これを回避するためにリーダーは何を発すればよいのか?

由佐さんは、「信じていることを純化させて、祈りとして発信する」「美に触れると元気になる」と言う。

これは、サイモン・シネックのゴールデンサークルの話を、さらに掘り下げているものだと思う。

自分自身が発信するものが、真・善・美になっているだろうか?

自分のメッセージが広がらないときは、まだ、真・善・美が足りていないのだろう。

何に向けて努力すればよいのかが明確になってきた。

 

僕の祈りは、【21世紀マインドセット】に込めました。

あとは、これをもっと純化させていこう。

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