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  • 冒険する人が最短距離を発見する

    冒険する人が最短距離を発見する

     

    フランス人の友人と話をしていたときに「ルール」が話題になった。

    僕は、日本人の多くは、「喜んでルールに従い、かつ、ルールに従っていない人を非難する」と説明した。

    フランス人の友人は、僕の話を信じられないという顔をして聞いた後、

    「フランス人は、何とかしてルールを破るのが好きなんだ。ルールは破るためにあると思っている。」

    と言っていた。

     

    根本的に「ルール」というのは、自分の自由を制限するものだ。だから、僕は、ルールはなるべく最低限にして、自由な領域を大きくしたほうがよいと思っている。

    ルールによって、行動の自由を制限されているうちに、心の自由も制限されていく。

    そして、自分から喜んで自由を差し出すようになる。

    これって、非人間的なことなんじゃないか。

     

    日本には、暗黙のルールを含めて大量のルールがあり、それをフォローしていると、ほとんど判断せずに行動できる。

    ルールは日々更新され、日々増えていくから、いつもルールについての情報を仕入れてフォローしているように生きていると、人生の時間の多くが費やされ、自由に考える時間は無くなっていく。

    ルールに従うことに慣れている人は、マニュアルを欲しがるようになる。

    自分で考えて行動するよりも、何かの言うとおり、何かに書いてある通りに行動することに安心感を感じるようになるからだ。

     

    だが、その安心感にはどのような根拠があるのだろうか?

    世界は、すごい速さで変化し、テクノロジーが不可能を可能にしている時代に、古臭いマニュアルに従い、何十年も前から続いている暗黙のルールに従うことは有効なのだろうか?

    心を自由にして、いろんなことを思うがままに勝手にやってみると、思いがけずに最短距離を見つける可能性が生まれる。

    世界は、どんどん変わっていて、繋がってなかったものが、次々に繋がっている。

    誰も見つけていないPathが、あちこちに出来ている。

    自由な心を持っている人だけが、わくわくしながら、いろんなPathを探す。

    そういう場所には、まだ、ルールなんて存在しない。

    ルールは、多くの人たちが集まってきたときに、誰かが自由を制限するために作る。

    そのころには、自由な人たちは、別のPathを見つけているだろう。

     

    自由に学ぶために学校を辞め、ホームスクーリングで学んでいるローガン・ラプラント君のTED動画を見てほしい。

    自由に学ぶことが、何をもたらすのかがよく分かるだろう。

    彼は、スキーをするときに、最短距離を見つけてショートカットをすることを恐れない。

    やりたいこと、本質的なことに対して、できるだけまっすぐに進む。

    心が自由であるということは、心の壁のせいで回り道をしなくてもよいということ。

    無駄なことをしたくないという人は、まず、心を自由にしよう。

    そうすれば、たくさんの「本当はどうでもいい無駄なこと」の存在が見えてきて、最短のPathを見つけられるはずだ。

    そのPathを進むのが一人っきりで寂しくても、心配することはない。

    あなたの後ろには、自由な心の人たちが次々と続く。

    そのPathに合理性があるのなら、そのPathは、必ず太くなっていく。

    ルールは人間が作った幻だから、この自然の流れを止められない。

    冒険者たちは、壁のあちこちに穴をあけていく。

    その中のいくつかからは、水が噴き出すだろう。

    KnowCloudは、自由な心を持った冒険者たちが集う場所になる。

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  • 「反転授業 動画一本の革命」~オセロをひっくり返していく

    「反転授業 動画一本の革命」~オセロをひっくり返していく

     

    「農業生物学者から教わったこと」という連載を書いているうちに、反転授業と自然農法とのアナロジーに気づいた。

     

    周りの自然環境から切り離した人工的な環境を作って、生き物である植物の環境応答能力を制限し、大量生産のプロダクトとしての「農作物」を作っていく20世紀型の農業のアンチテーゼとして、植物の生きていく力を信じて、それを最大限に引き出すことを目指す自然農法。

     

    教室を周りの世界から隔離し、生き物である生徒の自由に伸びていく力を制限し、我慢強さと従順さを備えてテキパキと働く均質な労働者を作り出していく20世紀型の教育のアンチテーゼとして、生徒の生きていく力を信じて、それを最大限に引き出していくことを目指す反転授業。

     

    これらは、きれいに対応する。

     

    そんなことを考えているうちに、自然農法家、福岡正信さんの『わら1本の革命』のことを思い出した。

    福岡さんは、農薬を使わず、肥料も使わず、耕すこともせず、何十種類もの種を混ぜ込んだ粘土団子を撒く独特の自然農法を実践した方だ。そのやり方は、荒れ地を緑化していく方法にも利用され、海外から高く評価されている。

    福岡さんの自然農法には、「植える」という考えはない。たくさんの種の中から、そのとき、その環境に適したものが発芽していくと考えるのだ。人間が考えるのではなく、自然の営みに任せる。ただし、自然の営みがよりよく促進されるように粘土団子を撒いていく。

    管理でなく、放置でなく、支援をしていくのだ。

     

    福岡さんは、次のように述べる。

    健全な作物を作れば、人間が農薬を使わねばならないほどの病気や害虫は発生しない。耕作法や施肥の不自然から病体作物ができ、自然がバランスを取り戻すための病害虫が発生し、消毒剤が必要になる。

    肥料も農薬も機械も、わざわざ人間がそれらを必要とする条件を作ってきた。余計なことをするから、さらにしなければならないことが増えて、雪だるま式に膨れ上がったのが近代農業であり、近代化の全てである。何もせんのが一番いい。
    「自然」というのは、余計なことをしないこと。だから、自然農業や自然食というのは、最低の労力と費用でできるはずだ。

     

    福岡さんの本には、5年ほど前に出会った。行きつけのインドカレー屋の本棚にあるのを見つけ、それから、手に入る限りの福岡さんの本を読んだ。

    そのときは、「ふーん、そんなものか」と思い、自分でも何かやってみたいということで、ホームセンターにある一番大きなコンポストを買い、公園や草むらから手当たり次第に種を取ってきてコンポストに撒いたりしていた。

    そのときはよく分からなかったことが、「農業生物学者から教わったこと」の連載を経て、もう一度読み直すと、すっと頭に入ってくる。明峯さんが、理解の橋渡しをしてくれたようだ。

     

    5年前に福岡さんの本を読んだときは、「文明以前に戻れ」という主張として理解していた。しかし、もう一度、読み直すと、違う印象を受けた。福岡さんは、「放任」と「自然」とを明確に区別している。

     

    終戦後に一度ミカン山へ入って、自然農法を標榜したときに、私(福岡正信)は無剪定ということをやって、放任した。私ははじめ、「放任」ということと、「自然」ということを、ごっちゃにしていたんですね。ところが、枝は混乱する、病虫害にはやられるで、70アールばかりのミカン山を無茶苦茶にしてしまった。私は、その時から、自然型とは何ぞや、ということが、常に問題として頭にあって、これだということを確信するまでに、永い間模索してきました。そして、やっと自然型とは、これだな、という確信を持てるようになった。

    自然型というものを作るようになってくると、病虫害の防除も必要なくなって、農薬がいらなくなった。剪定というような技術も必要なくなった。自然というものがわかれば、人間の知恵なんて必要ないんです。(p21)

     

    福岡さんの言う「自然」とは、何なのだろうか?

    僕なりの言い方で言うと、「個が生き物らしさを発揮して、自己組織化が起こるような状況」なのではないかと思う。

     

    地球上に「手つかずの自然」など既に存在しない。

    様々に手を入れられて、バランスが大きく崩れた状況の中で「放任」すると、生き物は、生き物らしさを正しく発揮することができずに混乱する。不自然なものに取り囲まれた中で放置しても「自然」にはならないのである。

     

    だから、福岡さんは、植物が「自然」な状態を取り戻せるように介入していく。何が「自然」なのかを模索した結果、生き物が環境応答能力を最大限発揮できる状態、生き物としての力を最大限発揮できる状態というものを把握できるようになったのではないだろうか。彼は、それを「自然型」という言葉で表しているように思う。

    「自然型」の植物たちは、活発にコミュニケーションを取りながら、ホメオスタシスが強く効く生態系を自己組織化していく。そして、そのような生態系が出来上がってしまえば、人間が介入しなくても、植物たちだけで立派にやっていけるようになる。

    福岡さんの知恵は、不自然な環境の中で、植物たちが本来の環境応答能力を取り戻し、自律的に生態系を自己組織化させるための条件を理解し、環境を整え、その動きを支援していくところに使われている。

    不自然な環境を前提とし、その中で、植物たちに「自然な生き方」をさせるためにどうしたらよいかと考えたからこそ、粘土団子を撒くという考えが生まれたのだ。

     

     

    僕は、福岡正信さんと教育工学者のスガタ・ミトラ氏との間に、共通点を見出す。

    スガタ・ミトラ氏は、「子どもたちは、自分たちで学ぶ力を持った存在である」という学習者像に基づき、その本来の力が発揮できる条件を探す。

    彼を一躍有名にしたのは、スラム街の壁にインターネットに接続されたPCを埋め込み放置する「壁の穴プロジェクト」

    このプロジェクトは、テクノロジーが子どもたちの好奇心を刺激し、自分たちで使い方を発見し、仲間同士で教えあってどんどん学んでいくことができるという可能性を示した。

     

    彼は、この考えをさらに進め、インターネットに接続されたPCがある小さな部屋を用意し、そこにイギリス人のおばあちゃんボランティアをスカイプで繋いだ学習環境を作った。SOLE(Sefl Organized Learning Environment)と呼ばれるこの学習環境は、子どもたちが本来持っている学習能力を呼び起こすためのものだ。

    sugata

    スガタミトラ氏は、学校の起源を「大英帝国を動かす部品としての人間を作り出すためのもの」だと語る。巨大なヒエラルキー構造を維持するために必要な知識を広めるために巨額な資金が投入されている。

    しかし、それらは、本来、必要なものなのだろうか?

    人間には、もともと好奇心によって自ら学んでいく力が備わっている。人工的な社会という不自然な環境の中で放置されると、自ら学んでいく力は必ずしも発揮されないが、注意深く作られた学習環境と少しの支援があれば、子どもは備わった力を発揮し、「自然型」として伸びていく。

    福岡正信さんが、自分の考えの正しさを証明するために自然農法を始めたように、スガタミトラ氏は、適切な環境と支援があれば、人間が自己成長できることを示すためにSOLEを作っている。

     

    教師は2つの役割を果たすことを求められている。

     

    1つは、現存するシステムを維持するための人材を育てること。

    もう1つは、生徒に生きていく力をつけること。

     

    しかし、今の日本社会では、これらは、相反する概念なのではないだろうか。

    ヒエラルキー構造の中では、トップダウンに命令が伝わっていく。その中に適応できるのは、無批判に命令を受け取り、素早く処理することができる人材である。また、ストレスが多い環境でも不平を言わずに我慢し、規則正しく行動する人材である。教師は、巨大な管理システムと生徒との接点に位置し、社会システムの価値観を生徒に押し付け、生徒を管理することを求められる。

    だが、ヒエラルキー構造への従属は、もはや、その人の生活の安定を保証しない。21世紀型の社会構造へ世界が構造変化する中で、ヒエラルキー構造へ忠誠を誓っても報酬は得られなくなっている。ヒエラルキー構造への適応は、生きていく知恵どころか、自分で考えて道を切り開いていく力を弱め、生きていく力を弱めていくことになる。

     

    一方で、生徒の自主的な学びを支援する教師もいる。生徒が有能な学習者であることを信じ、それらが発揮される環境を整えていく。上から降りてくるプレッシャーを受け止め、管理の連鎖を断ち切って、生徒の自主性を育んでいく。生徒たちは、自分たちで枝を伸ばして学習コミュニティという生態系を作っていく。

     

    前者の役割を果たしていた教師が、後者の役割を果たすように変わっていったら、どんなことが起こるだろうか?

    ヒエラルキー構造の特徴は、少数の人間が多くの権限を持っていること。言い換えれば、頂点よりも末端のほうが人数が多いということだ。

    最前線にいる教師の人数が、教育行政を取り仕切っている人たちよりも圧倒的に多い。

    その教師たちの間にシンクロが起こり、マインドセットが代わり、オセロが黒から白に次々にひっくり返っていったら、どんなことを起こるだろうか?

    また、社会システムの中で「上」へ行くために子供を駆り立てていた親が、子どもが生命力を発揮できるように支援するように変わっていったら、どんなことが起こるだろうか?

     

    僕は、人間は変わることができると思っている。

    実際、僕のマインドセットも、この数年間で大きく変化した。

    僕が、長年やってきたことは予備校講師である。

    ヒエラルキー構造を維持するための受験システムを、下から支える受験産業の中で働いてきた。

    つまり、教師の2つの役割のうち、前者の役割をおもいっきり果たしてきた。

    しかし、この数年間で、マインドセットが変化し、後者の役割を強く意識するようになった。

    そのきっかけとなったのは、「動画」を作ったことだ。

    動画を作ったときに、自分が今までやってきたことの多くは、動画で置き換えることが可能だということに気づいたのだ。

    そして、動画では置き換えられない人間らしい活動とは何かということを考え始めたのだ。

    その結果、反転授業に興味が湧き、主体的な学びが起こるための条件や環境について学ぶための学習コミュニティを作ることになった。

     

    これは、サルマン・カーン氏に起こったことと同じことだ。

    動画を作ったことで、彼は、学校教育の多くの部分を動画によって置き換えることが可能であることに気づいたのだ。そして、彼は、カーン・アカデミーという誰もがマイペースで自学自習できるシステムを作った。彼は、それによって、教師が、「教えること」から解放されて、生徒が自分で学ぶことを支援する役割を果たすようになると考えている。彼も、オセロを黒から白へとひっくり返そうとしているのだ。

     

     

    また、子どもに動画を見せたことも大きな転機になった。

    子どもが自分で学べるように、親がYoutubeなどで動画を子どものために動画を探してきて、学習環境を整えてやれば、仕事をしながらでも子どもの学習を支援することが可能だということに気がついた。

    子どもは、動画を使って学ぶ環境と、適切な見守りがあれば、自分でどんどん学んでいくことができるのだ。

    学校任せにせずに、親が自分の子どもと一緒に学んでいくことができるという気づきは、育児に対する考えを劇的に変えた。

     

    動画を学びに利用することは、意識を変革するきっかけになる。

    教師が動画を1本でいいから作ってみる。

    親が子どものために動画を1本でいいから探してみる。

    これが、意識変革のトリガーになる。

     

    福岡正信さんが、『わら1本の革命』に込めた思いを、僕は『動画1本の革命』という言葉に込めたい。

     

    福島さんやスガタミトラ氏が、自分の考えを実証するために自然農法の農園を作り、SOLEを作ったように、僕は、サイバースペース上の生態系であるKnowCloudを作る。

     

    不自然な世界に生きる僕たちは、単に放置しても、僕たちの中の内なる「自然」は呼び起こされない。

    僕たち、そして、子どもたちの「自然」が呼び起こされる条件を見つけ、テクノロジーを使って低コストでその条件を満たす仕組みを作っていく。

    かつての自然には戻れないが、らせんを描いて異なる「自然」へと進んでいくことはできるだろう。

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  • シンクロの果てに「共有ビジョン」にたどり着く

    シンクロの果てに「共有ビジョン」にたどり着く

    ピーター・センゲの『学習する組織』を読んだとき、なんだか懐かしい気がした。

    僕は、組織論については全く素人だが、この本の中に出てくる基本的な概念のうちのいくつかは、僕が学んできた自己組織化(Self-Organization)の概念と共通していたからだ。

    学習する組織の5つの規律は以下の通り。

    メンタルモデル

    「メンタルモデル」とは、マインドセットやパラダイムを含め、それぞれの人がもつ「世の中の人やものごとに関する前提」です。自らのメンタルモデルとその影響に注意を払い、うまくいかないときには外にその原因を求めるのではなく、自らのメンタルモデルの欠陥を探求します。

    「チーム学習・ダイアログ

    「チーム学習」とは、チーム・組織内外の人たちとの対話を通じて、自分たちのメンタルモデルや問題の全体像を探求し、関係者らの意図あわせを行うプロセスです。中でも、「本音で腹を割って話す」ことに主眼を置き、集団で気づきの状態を高めて真の問題原因・目的を探求する一連の手法を「ダイアログ」といいます。

    システム思考

    「システム思考」とは、ものごとを一連の要素のつながりとして捉え、そのつながりの質や相互作用に着目するものの見方です。しばしば、全体最適化や複雑な問題解決への手法としても応用され、「生きているシステム」の考え方の根幹をなす考えでもあります。

    パーソナルマスタリー

    「パーソナルマスタリー」とは、自分が「どのようにありたいのか」「何を創り出したいのか」について明確なビジョンを持ちながら、ビジョンと現実との間の緊張関係を、創造的な力に変えて、内発的な動機を築くプロセスです。

    共有ビジョン

    「共有ビジョン」とは、経営者や構成員のそれぞれのビジョンを重ね合わせて、組織として共有・浸透するビジョンを創り出すプロセスです。ひとたび、ビジョンが共有されれば、それが組織の行動、成果、学習の指針をコンパスのように示します。

    この中の「システム思考」と「共有ビジョン」は、特に、生きているシステムについて学んできた僕にとってはなじみが深いものだ。

    しかし、違いもある。

    1つは、組織の構成員が、自分を取り巻くシステムをメタ認知するという部分。

    多くの生命システムにおいては、サブシステムは、メタ構造のことを知らずに、ただ素朴に生きている。ここに、人間の集団における自己組織化の特徴があるように思う。

    もう1つは、個が変化できる範囲が広いということ。生命システムの多くは「遺伝子」というハードウェアによって行動ルールが決まっているから、個が出すことのできるカードは限られていて、その中で自己組織化を起こしていく。しかし、人間は「メンタルモデル」というソフトウェアによって行動しているから、対話などによってそれを書き換えていくことができる。そこに、人間の自己組織化の大きな可能性がある。

     

    『学習する組織』の5つの規律をフレームにして考えると、今、自分が何をしているのかが明確になる。

    KnowCloudをテーマに、毎日、ブログ記事を書いているが、これは、まさに「パーソナルマスタリー」のプロセスに他ならない。

    「書く」という行為を通して、自分のやりたいことを整理していっているのだ。

    でも、それだけじゃない。

    「パーソナルマスタリー」が目的だったら、自分の部屋で日記に書けばよい。

    わざわざブログに書いて公開しているのは、シンクロ(Synchronization)を起こしたいからだ。

    同じような方向を向いている人と、お互いに影響を与え合いながら進んでいこうと思っているからだ。

     

    僕が書いていることのすべてを、僕が考えたわけではない。

    いろいろな人が書いたものを読んで、「そうだ!そうだ!」と強く共感した言葉が心に残り、それらを使いながら思考を組み立てている。

    みんなが、このようなプロセスで、大量にアウトプットしていくと、だんだんと言っていることが似てくる。

    多くの人の心に刺さる言葉が選択されてくる。

    だから、僕は、自分が記事を書くだけじゃなく、多くの仲間の記事を読んでフィードバックを送っていく。

    自分もどんどん影響されていく。

    そうすると、同じようなタイミングで、同じようなことを考え、同じようなアウトプットをするようになってくる。

    そのような形で集団の中に浮かび上がってきたビジョンこそ、共有ビジョンだ。

    共有ビジョンは、高次の協同作業によって作られるものだと思う。

    お互いが、他者の思考にヒントを得ながら、自分のメンタルモデルをつくり変えていき、他人の言葉を借りながらモヤモヤを言語化していく努力をしたときに集団の中に浮かび上がってくるものだろう。

     

    すでにあちこちでシンクロが起こっている。

    時代の精神を通してシンクロし、さらに、直接の交流によってシンクロが強まっている。

     

    僕は、かつて、他人から影響されるということに対してネガティブな心証を持っていた。

    社会のヒエラルキー構造の上から下へと流れてくるプロパガンダ的な情報に対して、「影響されないぞ!」と防御を固めていた。

    ある時は暴力的に押し付けられ、ある時は知らないうちに紛れ込んでくる影響から自分を守ろうとしていた。

     

    しかし、影響を受けるというのは、ネガティブなことばかりではない。

    自ら進んで影響を受けて変わっていく場合もある。

    安心感を感じることができる仲間との関係において、心をオープンにすると、自分の中からいろいろなものが芽吹き、影響を栄養として育っていく。

     

    この2つは、力のベクトルの向きが逆向きである。

    前者は、外から内へ向かうベクトル。情報をインストールしてくるイメージ。

    後者は、内から外へ向かうベクトル。根や葉を伸ばしていくイメージ。

     

    信頼できる仲間との交流の中で、お互いに影響をうけあいながら枝を伸ばしていくと、そこに多くのシンクロが生まれるだろう。

    信頼できる仲間から影響されて、自分が変化していくことを恐れずに進むと、シンクロは進んでいく。

    シンクロは、もうすでに生まれている。

    これから、もっと起こる。

     

     

     

     

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  • 閾値を超えた先に存在するものは何か

    閾値を超えた先に存在するものは何か

     

    現在、英語を学ぶ重要性は、10年前に比べて1000倍以上になったと感じている。

    それを実感するようになったので、40歳を過ぎてから、英語をもう一度勉強し始めた。

    読めるだけじゃなくて、聞けて、書けて、話せる英語力が必要だ。

    そうすれば、世界で行われていることにプレーヤーとして参加できるようになる。

     

    非線形システムの大きな特徴は、閾値があることだ。

    システムへの入力を少しずつ変えていくと、ある値を境にして出力が劇的に変化する。

    そこを超えた瞬間、スイッチがONになるのだ。

    ONとOFFとは0と1

    「ある」と「なし」

    スイッチがONになった瞬間、量的な違いが、質的な違いに転換するのだ。

     

    インターネットが始まったころは、まだスイッチOFFだった。

    知りたいことがあれば図書館へ行って調べた。インターネットには十分な量の情報がなく、その情報の信頼性も低かったからだ。

    インターネットには情報が情報を呼ぶ仕組みがある。

    たくさんの情報を出しているサイトは、多くの人からのリンクが貼られ、検索エンジンから高い評価をされるようになる。

    その結果、多くのアクセスと情報が寄せられ、さらに情報の質が高まっていく。

    このようにして集合知的に良質な情報が生まれていく。

    その結果、あるところでスイッチがONになった。

     

    多くの人が、

    「図書館に行くより、Googleで調べたほうがよい」

    と考えるようになり、行動が一気に変化したのだ。閾値を超えた瞬間、社会は不連続に変化したのだ。

     

    英語の重要性を感じた理由の1つは、Youtubeに起こった相転移に気づいたこと。

    Youtubeにアップロードされている英語コンテンツは、日本語コンテンツに比べて圧倒的に多い。

    一定量の情報がYoutubeに蓄積すると、閾値を超え、人々の行動に劇的な変化が起こる。

    英語コンテンツはすでに閾値を超え、多くの人はYoutubeで検索して情報を得るようになっているのだ。

    図書館とGoogleの関係が、GoogleとYoutubeの関係に置き換わっている。

    文章で読むよりも、動画で見るほうが理解しやすいので、最初から動画で検索するのだ。

    僕の行動もすでにそうなっている。

    まず、Youtubeで検索し、ちょうどよいものが見つからないときにGoogleで検索する。

    この行動の変化に対して、すでに正のフィードバックがかかっている。

    みんながYoutubeで検索するなら、そこにビデオをアップロードしようという人たちが増えてきているのだ。

    それによって、英語のコンテンツの増加率は一気に加速している。

     

    一方、日本語コンテンツは、まだ閾値を超えていない。

    日本語でYoutube検索しても、たいした情報を見つけられないから検索しない。

    日本語コンテンツも、いつかは閾値を超えるのだろうが、その間に英語コンテンツは、さらにいくつもの閾値を超えているかもしれない。

    非線形システムは、立ち上がりに時間がかかるが、一度立ち上がるとどんどん加速していく。

    最初は小さかった差が、指数関数的に広がっていくのだ。

     

    「知識はインターネットで学べるから、学校の役割が変わる」というのは、英語圏ではすでに現実だが、日本語圏ではまだ到来していない未来だ。

    僕は、そのことを確かめるために、インターナショナルスクールに通う中学3年生と高校3年生の学習サポートを行った。

    彼らが学ぶのに必要なYoutubeビデオを集めてMoodleにコースを作成し、彼らが自分で学べるようにしたのだ。

    英語のキーワードで調べると、有り余る量の講義コンテンツがYoutubeにアップされているのが分かる。

    だから、僕が彼らに「英語で教える」必要はない。

    僕がやったのは、彼らのマインドセットをGrowth Mindsetに変えていくこと、ときどき質問に回答すること、安心感を与えることなど。

    ティーチングよりも、キュレーションとコーチングが重要になることを実感した。

    一番大事なのは、彼ら自身が、Youtubeで学ぶことができることに気づくことだった。

    2人とも、Youtubeはエンタメのためにしか使っていなかった。

    学校の先生の教え方に文句を言っていたので、もっといい先生を無料でいくらでも探して学ぶことができることを教えた。

    そして、どのようにキーワードを選べば、うまくちょうどよい講義を見つけられるのか、コツを伝授した。

     

    英語の動画を自分の学習に利用できるようになれば、いくらでも学べるようになる。

    いくらでも自分の人生を切り開いていける。

    人生の可能性が1000倍くらい広がるだろう。

    だから、英語を学ぶ価値は、かつての1000倍なのだ。

    今や、多すぎるコンテンツの中からどのように宝物を見つければよいのかということが主要テーマになって来ている。

    学びを誘うガイド役に価値が生まれている。

    KnowCloudが、あなたの学びのガイド役になる。

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  • 「準備されたもの」からではなく世界から学ぶ

    「準備されたもの」からではなく世界から学ぶ

    高校生や受験生に物理や数学をを教えるようになり、もうすぐ20年になる。

    彼らの多くは、テストのプレッシャーに晒され続けていて、彼らにとって勉強というものは「テストで点数を取ること」が大きなウェイトを占める。

    その中で予備校講師の僕がやってきたことは、簡単に言うと、点数を取れるようにしてあげること。

    入試問題の試験範囲という限定された世界の中では、問題のパターンも限られているので、その中である程度、必勝法のようなマニュアルを作ることもできる。

    古典物理学の考え方に沿った解法マニュアルを作ることで、入試問題を解けるようになることと、古典物理学を理解することとを両立し、大学生になっても役立つような学び方で物理を学んでもらおうというのが僕のスタンスだった。

     

    だが、最近、入試問題を解けることをゴールにすることが、本当にまずいんじゃないかと思うようになってきた。

    どこかの誰かが作った閉じたシステムの中で最適な行動をするということは、そのシステムの維持を手伝い、システムに適応していくこと。

    このシステムに依存していて、本当に大丈夫だろうかと思い始めたのだ。

    高度経済成長を成し遂げたという成功体験に支えられている工業化社会のシステムは、21世紀の変化の速い知識基盤型社会に対応できない。

    しかし、入試制度も含めて、教育システムは工業化社会の伝統を引きづっている。

    まずは、自分を包み込んでいるシステムをメタ認知する必要がある。

     

    自分を包み込んでいるシステムをメタ認知するのは、とても難しい。

    生まれたときから当たり前のように存在しているものは、ついつい見過ごしてしまい、意識に上らない。

    工業化社会に適応して生きてきた自分は、無意識レベルまで、その価値観の残骸が散らばっている。

    それに気づくためにはどうしたらよいのだろうか?

    方法は、おそらく2つある。

    1つは、論理的に突き詰めていって矛盾に突き当たること。それによって背理法的に前提を問い直すことができる。

    もう1つは、「他者」と出会って、自分が当たり前だと感じていたことが、実は「他者」にとっては当たり前じゃないという事実を突きつけられること。

    この2つの作業を行うことで、当たり前だと思って見過ごしてきたことを、意識上に上げていくことができる。

     

    自分たちを包み込むシステムを認識するための1つの方法は、他の国のシステムと比較することだ。

    そうすると、自分たちが当たり前だと思っているものが、他国では当たり前でないという事実に突き当たる。

    たとえば、僕たちが小学生のときやっていた運動会の練習。きちんと揃うまで何度も繰り返して行進の練習をした。

    朝礼では、教師の号令のもと、「きをつけー、礼」などを行っていた。

    これを、6年間行うと、命令に従うことに対する抵抗感がなくなり、当たり前のように言われるままに行進するようになる。

    上から下へ命令が通るような仕組みを作りやすくなる。

    上から降りてくる命令を、疑問を持たずに受け入れやすくなる。

     

    しかし、最近になって、いろんな学校を見るようになり、「行進の練習」なんてやっていない学校がたくさんあるということに気づいた。

    僕の知っているイギリス系、アメリカ系の小学校でSport Meetをやるときは、スポーツの競技を楽しむだけで、行進も、行進の練習もしていない。

    彼らは、日本の朝礼のように外に整列する代わりに、体育館の床にあぐらをかいて座る。

    教科書はない場合が多く、教師がインターネットから教材をダウンロードしたりして使っている。

    学ぶ範囲が決まっていて、それを染み込むまで反復するような勉強ではなく、自分で本やインターネットで調べてくるプロジェクト型の宿題が多い。

     

    一方、中華学校などでは、日本みたいに行進の練習をやっているのを見かけたことがある。

    男子は短髪、女子はおかっぱみたいな髪型をしなくてはならないと決められている。

    限られた例から判断するのは無理があるが、僕が知っている範囲では、日本の小学校は、欧米の学校よりも、中華学校に近い。

     

    「行進」や「朝礼」は1つの例であり、このようなものは日常生活のいたるところに埋め込まれていて、僕たちの思考に大きく影響している。

    それを「日本人らしさ」という言葉でくくって思考停止することはしたくない。

    少なくとも、一度、自分の思考レベルに上げて、その意味を吟味して、残すか、捨てるか、自分で判断したいと思っている。

    自分が無意識に受け取っているものは、無意識に次世代へ伝えることになる。

    僕は、自分が伝えるものには、できる限り責任を持ちたい。

     

    「準備されたもの」だけを使って学んでいるうちは、自分を取り囲むシステムをメタ認知することが難しい。

    幸いなことに、今はインターネットがある。

    目の前の端末は、システムの外側に直接つながるのだ。

    そこには、自分のために準備されていない「生の情報」がいくらでもある。

    受け身でいると、「準備されたもの」だけを受け取ることになる。

    それ以外のものは、自分でつかみに行かなくてはならない。

    自分のために準備されていないものに、自分から直接ぶつかっていこう。

    そこに、新しい体験がある。

     

     

    英語を学ぶ意味は、インターネット以前と比べ物にならないほど大きくなった。

    少なく見積もっても1000倍くらいは大きくなったと思う。

    世界で起こっていることに、直接、アクセスできるということのメリットは計り知れない。

    今は、英文を読むだけじゃなく、SNSでつながり、スカイプで話すことができる。

    友達になって、信頼関係を築くこともできる。

     

     

    数年前、中国で反日デモが激しく行われていると報道されていたとき、僕は、毎週、2人の中国人とスカイプでラングエッジエクスチェンジをしていた。

    朝ごはんには、毎日、ゆで卵を食べるとか、最近、オカリナを習い始めたとか、このアニメが好きだとか、そんなとりとめもない話をしていた。

    だから、報道よりも、毎週自分が話している相手から受ける印象のほうが、自分にとっては圧倒的な強度を持っていた。

    ニュースを聞くよりも、スカイプで「Masato, テレビを見ると悲しいよ。」って泣かれたという事実のほうが重かった。

     

     

    今は、LCCを使って安価で海外に行ける。

    でも、自分の眼鏡(メンタルモデル)を固定したままで海外に旅行に行っても、見たいものを見るだけで終わる。

    自分の眼鏡(メンタルモデル)を外したり、取り換えたりすることこそが、自分を大きく成長させる。

    その意識があれば、海外に出ていくことはかけがえのない経験になるし、インターネットでもいろんなことができる。

     

    自分からどんどん飛び出していこう。

    そして、自分の目で、体で、直接世界を確かめよう。

    そういうマインドセットを持った人たちが、どんどん根を伸ばしていけば、そこに生態系が生まれ、自己組織化が起こる。

    KnowCloudは、そのためのプラットフォームになる。

     

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  • 「見せられているもの」の外側を見に行く

    「見せられているもの」の外側を見に行く

    かつて、パソコンがフロッピーディスクで動いていたころ、パソコンは、単なる計算機だった。

    ソフトウェアを買ってきて、それを動かすための機械だった。

    しかし、インターネットが登場し、自分の目の前のパソコンが、世界と繋がってしまった。

    ここにどんな可能性が潜んでいるのだろうか?

     

    かつては、「知りたい」と思っても、様々な壁があった。

    僕が子どもの頃住んでいた茨城県の日立市の駅前にある書店に置いてある本は限られていて、市の図書館の本も限られていた。

    僕は、小学生のころ、ちょっとした天文少年だったが、図書館にある天文の本は、3カ月もすればすべて読み終えてしまった。

     

    しかし、インターネットが登場してから、知りたいと思ったら、どこまでもどこまでも調べることが可能になった。

    小さな箱の中で暮らしていたのが、突然、箱が壊れて大草原に飛び出していけるようになったのだ。

    どこまでも走っていくことができる。

    世界を隔てる壁は、突然、無くなってしまったのだ。

    このことに本当に気がついている人は、どのくらいいるのだろうか?

    世界を隔てる壁がなくなっても、あたかもそこに壁があるかのように行動を制限して生きている人が多いのではないだろうか?

    僕にも、自分自身の習慣が作り出した「幻の壁」がたくさんあり、実際に行動を制限しているのは、多くの場合、現実的な壁ではなく、「幻の壁」である。

     

    そのことに気がつくきっかけになったのが、ロンドンに住む20歳の、アーティストであり、起業家でもあるエインとの出会いだった。

    インターネットの回線が、僕をエインに会わせてくれた。

    10年前だったら、絶対に会うことは不可能だっただろう。

     

    彼女が作ったInspiring Learningというビデオを見てほしい。

     

    彼女が動画の中で発しているメッセージは、次の通り。
    BEFORE WE ARE BORN WE ARE FREE TO BE CURIOUS TO LEARN
    THEN WE ARE CAGED IN THE SOCIAL STRUCTURE
    WE START TO SEE ONLY WHAT WE ARE ALLOWED TO SEE
    LIMITED BY WALLS EVERYWHARE
    WE ARE ALWAYS TIED FROM GOING ON ADVENTURES
    But let’s Break free
    An adventure TO LEARN
    To see The rest of the world
    To feel new ideas
    To see The possibilities
    To create Your own
    Even the smallest of ideas can have the biggest impacts TO CHANGE THE WORLD
    Lean. Learn to create
    Creation is free
    HAVE AN ADVENTURE
    WE ARE LIMITED BY EXISTENCE
    EXISTENCE STARTS AND ENDS
    But ideas Can change existence
    Create something For the world to see
    Create something For the future
    An idea for the Next generations
    Learn to be INSPIRED
    &then,Inspire the rest of the world
    learn to see a whole new world
    Create a new possibility

    彼女の自由な心は、物事の本質に向かって一直線に進む。

    それ故、多くの摩擦を引き起こすが、彼女はそれでも進んでいく。

     

    彼女は言う。

    「Societyは人間が作ったものだよ。たいしたものじゃない。それよりも、宇宙について考えたほうがいいよ。」

    「このおじさんが、どうして私よりもえらいと思っているのか不思議だよね。」

     

     

    エインと話しているうちに、気がつくと、自分の中の「幻の壁」が壊れ、行動が自由になっていく。

    「幻の壁」が壊れる直前、今まで見えなかったそれが姿を現し、その存在に気づく。

    そして、それが、どのようにして生まれたのかについて、考えるようになる。

     

    教育システムや、社会システムの中でインプリンティングされた「幻の壁」は、その内部にいる限り、存在に気がつくことが難しい。

    生まれたときから当たり前になっているものは、なかなか知覚できないのだ。

    「外側」に出たときにはじめて、内側と外側とを隔てていた壁の存在に気づき、その壁が自分に与えていた影響に気がつく。

     

    では、どうやって「外側」に出ればいいのか?

    それは、とても簡単なことだ。

    僕たちの目の前にあるPCは、「幻の壁」の外側につながっている。

    自分が、その外側を冒険しようと思えば、今すぐにでも出発することができる。

     

    エインと僕とが創ろうとしているKnowCloudは、それぞれを閉じ込めている「幻の壁」の外側を探検するための入り口。

    ここから冒険が始まる。

     

    この2年間、僕は、おもいっきり冒険してきた。

    冒険を通して、「幻の壁」は次々に壊れ、自分のマインドセットは、どんどん変化していった。

    これからも変化していくだろう。

     

    こんな冒険に、みんなが出かけたら、どうなるだろうか?

     

    インターネット後の世界は、世界を隔てる壁がなくなった。

    これは、本当だ。

    僕は、その世界をすでに体験している。

    隔てているのは、僕たちが作り出している「幻の壁」だけ。

    それを壊すために、みんなで外側を冒険しよう。

    KnowCloudが、その入り口になる。

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  • 自己組織化の原理を使って世界をもっと自由にする

    自己組織化の原理を使って世界をもっと自由にする

    2年前、当時18歳だったエインにスカイプで自己組織化(Self-Organization)のことを、説明した。

    今ではエインが日本語ペラペラになってしまったので、コミュニケーションは日本語で行っているが、当時は、英語でコミュニケーションしていた。

    稚拙な英語を駆使しつつ、必死になって自己組織化の魅力を伝え、その中で登場するカオスの縁(Edge of Chaos)の概念を説明した。

    エインは、”Masato, So Exciting!!”と叫び、それから自分でChaos theoryや、Self-Organizationについて調べ始めた。

    エインのような人に何かを教えるときには、”Exciting!”と思わせてしまうだけでよい。あとは、勝手に自分で学んでいく。

    こう書くと、僕がエインに何かを教えていたように見えるが、実際には教えてもらうことのほうが多かった。

    仕事のことで、何か知りたいことがあれば、まず最初にエインに聞いてみることにしていて、そこで解決してしまうことが多かった。

     

    自己組織化の概念は、エインと僕の間ではとても大切なものになった。

    エインは、KnowCloudを、Self-Organized Learning Systemと呼ぶ。 並行してやっている個人やスモールビジネスをブランディングするサービス、Noovoでやっていることも、小さな動きに正のフィードバックをかけて動きを増幅して大きくしていくもの。これも、Self-Organized Systemだ。

    僕たちは、Self-Organizationの原理を使えば、世界をもっと自由にできるんじゃないかと思っている。

     

    反応拡散系は、様々な時空間パターンを作る

    自己組織化によって生じる様々なパターンを調べるためによく使われるのが、Belousov-Zhabotinsky反応(BZ反応)である。

    自己組織化が起こるためには、「わずかな動きに正のフィードバックがかかって増幅される仕組み」が必要である。

    BZ反応には、化学反応によって生成された物質が、その化学反応の触媒として働く。この「自己触媒的な性質」があるがゆえに自己組織化が起こるのだ。

    BZ反応は、反応物の濃度比などのパラメータの値によって、さまざまなパターンを産み出す。濃度が均質になるように混ぜると、ペトリ皿のちょっとしたキズやゴミなどをトリガーにして、そこを中心とした同心円状のパターンやスパイラルパターンが生成される。

    では、こうしたキズやゴミの存在がパターン形成に不可欠なのかというとそういうわけではない。「均一である」という状態が不安定になり、対称性を破って構造が立ち上がろうとしているときには、ちょっとしたゆらぎがあればそれが増幅されていく。

    キズやゴミはゆらぎとして存在しているだけで、それがなくても、ちょっとした濃度のばらつきなどを増幅してパターンは形成されていく。

    当たり前だが、キズやゴミには、「ゆらぎ」としての意味以上のものはない。

     

    細胞性粘菌はフラットなコミュニケーションによって自己組織化する

    細胞性粘菌という生物を知っているだろうか?

    一般的には有名ではないが、生物をやっている人、特に形態形成とか自己組織化をやっている人の間ではとても有名な生き物だ。

    もっともシンプルな形で自己組織化を示すので、自己組織化を理解するためのプロトタイプとして利用されているのだ。

    細胞性粘菌は、動物と植物との中間に位置する生物であり、単細胞アメーバと多細胞の移動体との2つの状態を繰り返すライフサイクルを持っている。

    Dictyosteliu_lifecycle

    胞子から孵ったアメーバは、動物細胞のように動き回り、バクテリアを食べて分裂して増えていく。

    あたりのバクテリアを食べつくして飢餓状態になると、遺伝子のスイッチが入り、cAMPを分泌するようになる。

    細胞の中には自律的にcAMPを分泌するものもあれば、興奮性を示し、cAMPのシグナルを受け取ると、自分もcAMPを分泌してシグナルをリレーするものもいる。

    これらのアメーバ細胞が作り出すcAMPのパターンは、BZ反応のものとそっくりである。

    その後、cAMPパターンの中心に向かってアメーバ細胞は集合し、移動体という多細胞体を作って動き回る。

    自由闊達に動き回っていたアメーバ細胞の「個」はどこかに消失し、巨大な移動体という「個」が新たに生まれる。

    「個」とは何によって決定されるのかという問題を考えるのに、細胞性粘菌はピッタリの生き物なのだ。

    さて、僕がこの生き物を見ながら、「個とは何か?」「自由とは何か?」ということを考えていたとき、当時のこの分野の権威たちは、細胞群を、

    ・自律的に振動するペースメーカー細胞

    ・自分では振動できずに興奮性だけを示す細胞

    の2種類に分け、細胞群の中にリーダー役のペースメーカー細胞が現れ、そこに向かって集まると説明していた。

    僕には、この説明がどうしても納得がいかなかった。

     

    生物の形態形成は、自己組織化の原理を用いているはずで、「わずかな揺らぎを増幅させる仕組み」が均一な状態という対称性を破って構造化するはずだと思ったのだ。

    もし、リーダー役がいるのなら、そのリーダーはどのようにして生まれたのだろうか?

    ちなみに、彼らは、それを「遺伝子のばらつき」によって説明していた。

     

    細胞性粘菌のようなSocial Amoebaは、社会構造のメタファーとして捉えられることが多い。

    社会システムが、生命系と同じ原理によって構築されているということで、その社会システムの正当性を主張する傾向があるのだ。

    僕には、少数のアメーバがその他多数のアメーバに命令を下しているような捉え方は、少数の人間が多数の人間をコントロールしている社会構造を当たり前と捉えている人間が、そのような眼鏡で見た結果のように思えた。

     

    たとえすべての細胞が均一でも、BZ反応のようにわずかな揺らぎを増幅してパターンは形成されるはずであり、その際、パターンの中心にある細胞には、特別な意味付けは存在しないはずなのだ。どの細胞も中心になり得るし、中心になった細胞は、たまたまそこにいたから中心になったのだ。

    僕は、生命はフラットな関係で結ばれていて、場の状況が変化したことで、すべての細胞がいっしょに次の相へ移行していくというストーリーを可能にするメカニズムを探した。

    すべての細胞が均一である場合、存在するのは密度ゆらぎなのではないかと思い、細胞の密度変化によって、振動が生まれるのかどうか、振動数が変化するのかどうかを調べた。

    その結果、細胞の密度を上げていくことで、興奮系から振動系への移行が起こり得ることが分かった。

    局所的な密度が高いところが興奮系から振動系へ分岐し、そこから波が広がっていく。波が広がることによって周りからアメーバ細胞が集まってきて、さらに局所的な密度が高くなり、振動数が大きくなっていく。

    このようにして、密度に対して正のフィードバックがかかっていく仕組みがあればよいのだということが分かった。

    そして、「ペースメーカー細胞なしで集合するメカニズム」というタイトルで論文を書いた。

    この論文を投稿する前に、研究の場を去ることになってしまったが、それから13年後、日経サイエンスを読んでいたら、細胞性粘菌のパターン形成の記事が載っていて、僕のストーリーの正しさが実験によって確かめられたことが分かった。

    自分だけの確信だったものが、科学的なプロセスによって証明されたことで、声を大にして言えるようになった。

    「生命系は、フラットな関係によって結ばれ、自己組織化するシステムなんです。」

     

    自己組織化が起こる場の創り方

    「反転授業の研究」は、自己組織化の原理を用いて運営している。

    グランドルールによって関係性をフラットにして、お互いを「●●さん」と呼び合うようにしている。

    これによって、

    「一歩踏み出せば、誰でも何かを引き起こせる」

    「何かを引き起こすのに、肩書きや資格なんか必要ない」

    という状況を作り出そうとしている。

     

    つまり、最初から中心になる人(ペースメーカー)と、そこに集まる人(その他の細胞)みたいな構造を作りたくないのだ。

    そのような構造は、ヒエラルキーを産み出し、個人の自由な動きを抑圧するようになるからだ。

     

    でも、フラットな関係だけでは、自己組織化は起こらない。

    揺らぎを増幅していく仕組みが必要だ。

     

    おそるおそる手を挙げた人にポジティブなフィードバックを送って励まして、みんなで引き上げていく仕組み。

    活動が正当に評価され、認められる仕組み。

     

    手を挙げれば、誰かが続いてくれるという確信が、手を挙げやすくしていく。

    それが文化として定着していき、次々と手を挙げ、一歩踏み出す人が増えると閾値を超え、自己組織化が起こる。

     

    それは、自由な心を持った人たちのグループに起こる現象。

    その現象が起これば、心がもっと自由になる。

    僕たちが、生き物らしさを最大限発揮することが出来れば、場の温度はどんどん上がっていく。

    「反転授業の研究」では、すでに、それが起こりつつある。

     

    「反転授業の研究」で起こり始めているような自己組織化を、もっと広い範囲で、国境を超えて起こしていく。

    そのためのプラットフォームがKnowCloudだ。

    KnowCloudには、自己組織化の原理が埋め込まれる。

    そこに参加する人は、どんどん生き物らしさを取り戻していくことになるだろう。

     

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  • サイバースペースに生態系が自己組織化するためのプラットフォーム

    サイバースペースに生態系が自己組織化するためのプラットフォーム

    エイン・アネと僕は、2年前から、Learningのスタイルを変えるための方法について、いろいろなアイディアを交換してきた。

    エインにとってLearningは、CreationとかAdventureと結びついていたし、僕にとっては、Self-Organizationと結びついていたから、これらを融合したら面白いことができるんじゃないかと思った。

    断片的なアイディアを交換し合っているうちに、あるとき、Big Pictureが見えた。それに、KnowCloudという名前を付けた。

    KnowCloudは、まだ、エインと僕の頭の中、そして、アイディアと思いを共有してくれた福田美誉さんと内藤(榊原)涼子さんの頭の中にしかない。そして、その頭の中にあるものも日々成長している。

    ある日、エインは、「KnowCloudの作り方が、突然分かった」と言い、すごい勢いでプロトタイプを創りはじめた。

    エインの仕事の仕方は、いつもそうだ。

    いつも突然始まる。

    だから、僕も、それと歩みを合わせるように、自分の頭の中にあるKnowCloudの姿を言葉で表現することにした。

    カオスと平均場による結合とのバランス

    大学院でカオスについて学んでいるときに、Coupled Map Lattice(CML)というものに出会った。 (Wikipediaの説明はこちら)

    CMLにはいろんな種類があるが、僕が出会ったのはたくさんのカオス振動子を平均場で結合したもので、カオスの強さ(Aとする)と、結合の強さ(Bとする)の2つの値を変えることで、様々な時空間パターンが表れるというものだった。

    僕は、このモデルが表す様々なパターンに惹かれて、自分でもプログラミングを組んで、研究室のパソコンでずっと画面を眺めていた。


    カオスが弱く、結合が強いときは、すべてのカオス振動子は一体となって振動する。

    まるで1つの振動子しか存在していないみたいな均一な動きだ。

     

    一方、結合を弱くしてカオスを強くすると、すべての振動子は、てんでバラバラに動き回る。

    まさにカオス状態になる。

     

    パラメーターを調整していくと、カオスの強さと結合の強さがバランスする領域が見つかってくる。

    カオス結合子は、あるときは一緒に動き、あるときはカオス的になり、というように固定化されたパターンに落ち着かずに魅力的な振る舞いを見せる。そのパターンは、生き物を思わせるものだ。

     

    僕が、カオスの強さと、均質化する力とのバランスで物事を捉えるようになったのは、このような経験が背景にある。

    個人が平均値から逸脱していくのを抑える力が強まると、集団の振る舞いは、どんどん均質化していく。

    それは、あたかもカオスを弱め、結合を強くしていったときの振動子の振る舞いのよう。

    当時の僕は、自分自身は集団から逸脱していくこともせず、ただ、画面の中でパラメータをいじっていた。

     

    自己組織化とは何か

    外部から与えたパラメータによって、様々な秩序状態が変わるというアイディアは、僕にとってとても魅力的だった。

    自然界のあらゆる構造物は、そのようにしてできあがっているのではないかと思った。

    一様な状態、または、カオス的な状態からスタートして、外部のパラメータが少しずつ変化するにしたがって、様々な秩序が自発的に生まれていく。

    そのようにして生まれた秩序は、外部環境とバランスしていて、外部環境が変化すると、秩序状態もそれを反映して変化する。

    このような現象を自己組織化(self-organization)という。

    自己組織化を端的に表しているものがベナール対流(Benard convection)だ。

    液体の上面と下面の温度差と、液体の粘性がパラメータとなり、様々な対流パターンが生まれる。

    温度差が大きくなると、対流パターンはどんどん乱流(カオス)に近づいていき、

    粘性が大きいと、分子同士の結合が強く乱流になりにくくなる。

    温度差という外部環境を変えていくと、それに応じて、最適な対流パターンが選ばれていく。

     

    自己組織化する生命

    このような自己組織化は、2つの異なる層が接するインターフェースで生じる。

    ベナール対流は、高温の物体と低温の物体との間に挟まれた液体が、高温側から低温側へ熱を輸送するために最適な形態を取ろうとしてパターンを産み出す。

    恩師の相澤洋二教授が、かつて、このような図を見せてくれたことがある。

    maku

     

    これを見て、はっとした。

    太陽光が地表を温め、高温の地表から、冷たい宇宙空間へエネルギーが移動て対流が生まれる。

    地球と宇宙を繋げるインターフェース(=大気層)の部分に自己組織化した様々な構造物の1つとして生命が存在しているのだということに心の底から納得できた。

    このときに得た確信が、今の自分の生命観の土台になっている。

     

    そして、それ以降、「木」と「対流」とが同じものに見えるようになった。

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    外部の環境が決まれば、それに対応して一定の秩序が自己組織化される物体系に対して、生命は内部状態を持ち、外部の条件が同じでも様々な存在形態を表出させる。

    これが、物質と生命とを区別する最も大きな要素ではないだろうか。

    生命は、融通無碍な存在なのだ。

     

    生命系はカオスの縁へと向かう

    物質系と生命系の違いは、これだけではない。

    生命系は、自ら環境をつくり変えていくのだ。

    火山灰に覆われた土地に草が生え、草原が生まれ、少しずつ土壌が蓄積し、ついには森林が生まれる。

    豊かな森林は、多くの植物や動物が共生し、炭素や窒素が循環している。

    ネットワークは、自発的に複雑化していき、フラクタル的な構造を持つカオスの縁の周辺をゆらぐ。

    自由に成長する生命系は、カオスの縁を目指して成長していくように見えるのだ。

    動物や植物の自由な生き方は、生態系として様々な可能性を探ることになり、必然的にメタな構造が生み出されていく。

    これが、僕が生命に対して抱いているイメージだ。

    学ぶこと、成長すること、衰退すること、これらはすべてライフサイクルの一部。それぞれが、自分の生命を賭けて実験し続ける。

     

    今、世界には、人間が作り出した多くのシステムがあり、人間は、そのシステムの中で生活している。

    システムの中で生活していると、だんだんと自分が「生命」であることを忘れ、システムの一部として、一定のインプットに対して一定のアウトプットを返していくようになる。

    つまり、生命系から物質系へと近づいていくのだ。

    もう一度、自分たちの「生命らしさ」を取り戻したい。

    そのための方法は、いくらでもあると思うが、エインと僕は、サイバースペースに自発的に複雑化していき、カオスの縁に向かうような生態系を作ろうと考えた。

    そのためのプラットフォームがKnowCloudだ。

    KnowCloudは、みんなが自由に種を撒くためのプラットフォーム。

     

    かつて、研究室でパソコンの画面を眺めながらパラメータをいじっていた僕は、研究室を離れ、自分自身が生きている社会システムのパラメータ調整をしている誰かの思う通りにはならずに、生き物らしさを発揮して融通無碍に生きる道を体当たりで探し続ける。

    最初は何もない荒れ地でも、みんなが種を撒き続ければ、少しずつ土壌が生まれ、必ず森林へと育つ。生命とは、命を繋ぎながらそうやって自分たちで未来を創っていく存在なのだ。

    KnowCloudは、自分たちが生命であることを確かめ、自信を取り戻すためのプラットフォームになる。

     

     

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  • 農業生物学者から教わったこと(5)

    農業生物学者から教わったこと(5)

    2104年9月に急逝した農業生物学者の明峯哲夫さんから教わったことを書き留めておきたいと思って連載している。これが最終回になります。

    明峯さんが亡くなられた後、遺稿をまとめて出版された『有機農業・自然農法の技術』を読み、明峯さんがどんなことを考えていたのかを振り返ってみた。

    融通無碍な生き方とは何か

    明峯さんは、この本の中で何度も「植物は、融通無碍である」ということを書いている。

    融通無碍(ゆうずうむげ)とは、考え方や行動にとらわれるところがなく、自由であること。

    僕は、明峯さんが、自分の生き方を植物に重ねていたように思える。

    生き物というのは、環境によってすべてコントロールできるものではない。

    環境要因は無視できないがすべてではない。

    環境要因では決まらない部分に、その生き物の「生命らしさ」がある。

    考え方や行動は、本来自由なのだ。

    その自由な「生命らしさ」が、多様性を生み出していく。

     

    工業化された農業は、農作物の「生命らしさ」をゼロにし、環境要因だけですべてをコントロールしようとする。

    農作物を、光と二酸化炭素と窒素化合物を与え、炭水化物とタンパク質を作らせる物質系として捉えて単純化する。

    「生命らしさ」を奪われた農作物は、多様性を失い、均質化していく。

    明峯さんは、農作物に植物としての生き物らしさを発揮させる道を模索する。農作物を自然から隔離せず、自然と一体となった生態系の一部として捉える。そして、それを育てて食べる自分も生態系の一部だと捉えていたと思う。

     

    この考えは、工場モデルの学校にも適用されるのではないか。

    同じ情報をインプットし、同じ情報をアウトプットするように訓練された結果、生徒の「生き物らしさ」が消え、多様性が失われていく。

    そして、同じ状況になると同じ反応をする人々を生み出していく。

    「反転授業の研究」でやっていることは、生徒が生き物らしさを発揮できるようになるための方法を模索すること。生き物らしさを発揮する自由な人たちは生態系のようなコミュニティを作る。自由な心を持った人たちが増えれば、多様な生き方が可能になる。

     

    自分の人生を、すべて自分で決めることはできない。

    生まれた場所も、親の経済状況も、性別も、自分で選択できるものではない。

    でも、すべてが外部から決められるわけではない。

    自分の価値観を自分で決め、それなりに限定された中ではあるけれど自分で選択したり、選択肢にはない行動を自分で創り出したりすることができる。

    どのように生きて、どのように死ぬのかを自分で決められる。

    均一化しようとする力に対して、そこから逃れていくことができる。

    それが、融通無碍に生きるということなんじゃないだろうか。

     

    東日本大震災が起こった後、農作物は「放射線量」という数値と結び付けられた。

    僕自身も、それらの数値を気にしたし、経験したことのない状況に対して、とても不安になった。

    池袋で明峯さんと会ったとき、明峯さんは、鬱のような症状が出て、ずっと眠れないと言っていた。

    そのときは、よく分からなかったが、本を読んで、明峯さんの思想を辿ってきた今は、当時の明峯さんの気持ちが少し分かるような気がする。

    放射線によって健康被害が出ることは自明だし、それを恐れるのは当たり前だけど、科学的数値というものに管理され、すべての人が同じように行動しなければならないというような状況が、明峯さんには我慢できなかったのではないか。

    明峯さんは、その状況でも、融通無碍を貫きたかったのだろう。

    京都大学の小出さんとの対談で、明峯さんが語った言葉に、それが表れている。

    「人間は安全性だけで生きているわけではありません。場合によっては、危険であると分かっていても、それを覚悟して生きていく、それが人間です。むちゃくちゃ危険なことをして早死にしても、それがその人の人生だったということにもなるし、ただただ長生きするだけの人生を潔しとしないという考え方もあります。」

     

    社会のヒエラルキーに従属するのではなく、生態系の一部としての確信を持って生きる

    明峯さんは、「都市」と「故郷」とを対比させて語ることが多い。

    「都市」は、産業革命以後、急激に発達した。都市は、化石燃料やウランから取り出したエネルギーによって維持されている。

    明峯さんは、都市で生きる人の心の荒廃の原因が、生態系と切り離されていることだと考えていたのではないか。

    生態系と切り離されて、自然の恵みを感じられなくなると、お金がなくては生きられない暮らしになり、お金に支配される。

    所持金によって序列化された人工的なピラミッド構造という環境で生きているうちに、「生産」から切り離されて、ピラミッドへの従属によって得られるお金と、その消費によって生活が回るようになる。

     

    一方で、種を撒けば、植物が育ち、土が育つ。

    それらは、お互いになじみ合いながら、ゆっくりと循環系を作っていく。

    環境の変化に対しても融通無碍な性質を発揮し、多様な生態系を創り出していく。

    その中で生きることで、自分自身の「生命らしさ」に気づき、自分も生命としての確信を持つことができる。

    環境によってすべてを決められるのではなく、自分で自分の生き方を決めていけるようになる。

    明峯さんは、そんな風に考えていたんじゃないだろうか。

     

    僕が引っ越しをするたびに、明峯さんは、

    「新しい家には庭がありますか?」

    と聞いてきた。そして、庭があれば、少しでもいいから種を撒いてみてくださいと言っていた。

    種を撒くこと、植物の成長を見守ることは、自分自身も同じ生命であるということに気づくこと。

    植物の融通無碍な生き方に触れ、自分も融通無碍な存在であることに気づくこと。

    あのとき、そんなことを伝えたかったんじゃなかろうか。

     

    21世紀の故郷

    明峯さんの書いたものを辿っていくうちに、「21世紀の故郷」という言葉と出会った。

    明峯哲夫&永田まさゆき「自給的くらしの意義~震災後の社会再構築に当たって」という記事から、明峯さんについての箇所を引用する。(引用元

    明峯先生の講演タイトルは「天国はいらない、故郷を与えよ」、ロシアの農民詩人エセーニンの言葉です。近代化の過程で農村を追われ、仕事を都市に求めた人びとは土着性をなくし、地方は疲弊しました。人びとが「天国」と憧れた都市生活は、便利で快適で、賑わいに溢れていますが、自らが必要とする食糧を農村に依存し、大量生産、大量消費の仕組みと膨大なエネルギーに支えられてきました。原発のニーズもこの延長に生まれています。 このパラダイムは実に前世紀100年をかけて成り立っており、すでに維持不能な状態にありました。
    「3・11」は、このシステムの現実的な終焉であり、「天国」を求め続けてきた時代の終わりだと明峯先生は語ります。これからの社会の再構築にはエネルギーの問題だけでなく、医療や福祉や教育や産業などさまざまな分野の知恵を統合し、小さな地域単位で自給、自立していく発想が必要だ。そして、天国を失った人びとの行先は故郷、すなわち自然と共生する自給的な暮らしに他ならないと。

    先生がここで言われる21世紀の故郷は、伝統的な地縁社会のことではなく、個人が自由な意思で決定する新しいイメージでの「我が故郷」です。「一所懸命に生きる」場所が故郷になるという先生の言葉を聞いて、私はエコビレッジを思い浮かべました。故郷に生きる人びとにとって生きるとは、土地に依拠し自然の恵みを受けながら暮らすことです。だから農山漁村の人びとは土地に対する強烈な思いがあり、今回の震災の打撃は大きかったのです。それでもすべてを受け入れ、いつか復興させようと留まって農業を続ける人びとを先生は希望と呼んでいます。自然と共に生きる人びとは確信があるとも。溢れるほどの物質と情報に囲まれても、現代人が常に不安なのは、そういう確信がないからでしょう。

    すべてを受け入れるという意味で、先生は、すでに大量の放射性物質が放出されてしまったこの期に及んで数値を前提にリスクゼロを追求するのは幻想で、放射能に汚染された自然とも共生していくリスクシェアの考え方が必要だと言われました。たとえば食べ物であれば、数値で示せる安全よりも、誰がどのように作ったかがわることで生まれる安心のほうが重要だと強調されています。

     都市に象徴される20世紀型の大量生産、大量消費システムに取り込まれて生きているうちに、個人は生産と切り離されて弱くなり、システムへの依存性を高めていく。

    でも、システム自体が限界が来ている今、明峯さんは、都市と対比して「故郷」という言葉を使っている。

    その故郷とは、伝統的な地縁社会ではなく、人々が自然との共生を感じられて、生産の喜びを味わうことができ、自分自身の融通無碍な性質を思い出し、自分の意志で周りと生態系のように繋がり、一生懸命生きていく場所ということだろう。

     

    未来を創るために種を撒く

    僕の住んでいるマンションには庭がない。

    だから、コンポストを買ってきて、そこに空き地から引っこ抜いてきたオジギソウを植えた。

    強引に植え替えられたオジギソウは、葉をすべて落として瀕死の状況になった。

    しかし、ほとんど枯れそうになったそのとき、小さな芽を出して、小さな葉を作った。

    そのとき、「こいつは、新しい環境になじむために、一度、葉をすべて落としたんだな」と気づいた。

    そして、そこから、葉を次々に茂らせていった。

     

    植物を見ていると、毎日、次々と姿を変えていく。

    僕たちも、実は、毎日、次々と姿を変えている。

    やらねばならないと思っていることのほとんどは、やらなくてもよいこと。

    限界のほとんどは、思考が決めている。

    僕たちの思考は自由だし、行動も自由だ。

     

    この世にまかれた種から発芽したという点では、オジギソウも僕も同じだ。

    従属と消費に絡めとられるのを拒否し、生き物として、自分で種を撒いていくことができる。

    不安を埋めるためにシステムに保証を求めない。

    ひたすらに種を撒く。

    多様性と自由こそが、一番の保証だということを知っているから。

     

    明峯さんが撒いたたくさんの種の中の1つは、僕の中で発芽し、この文章を書いている。

    僕が撒いているたくさんの種も、あちこちで発芽して育っている。

    その確信があるから、僕は、さらにたくさんの種を撒く。

    自由に生きる人たちの「生態系」は広がり、自分たちがそれを創っているという確信が、僕たちに自信を取り戻させる。

    僕は、自由に生きる人たちの「生態系」を豊かにしていくことに力を尽くす。

    この「生態系」も、なじみ合いながら、信頼のネットワークがどんどん強くなり、どんどん豊かになっていく。

    誰もが自分で種を撒き、常に未来に対する新しい可能性を探っている。

    みんなでたくさんの種を撒けば、その中の種のどれかが現状を突き破る。

    それを撒いたのが自分じゃなくてもいい。

    誰がまいた種でもいい。

    自分を手放して、「種がたくさん撒かれる状況=マインドセット」を創り出すことに力を注ぐ。

    誰かが現状を突き破れば、それを手掛かりに未来を創っていく。

    「生態系」が豊かになれば、みんながそこで生きていけるようになる。

    そういう生き方が、生き物としての生き方だ。

    自分たちも「生き物」だということを思い出すだけで、それを実現できるだろう。

     

    自分の「生」に意味を持たせるためにはどうしたらよいだろうか。

    大量生産された商品を購入しても、それは、「自分」というかけがえのない個を意味づけてくれない。

    自分が何かを産み出し、その影響が、世代を超えて受け継がれていくという確信こそが、自分の「生」に意味を持たせるのではないだろうか。

    明峯さんは、たくさんの種を撒いた。

    土の中にも、心の中にも。

    それらは、確かに発芽し、なじみ合いをしながら、根や葉を茂らせている。

    明峯さんは、きっと、そのことに確信を抱いて永眠されたはずだ。

     

    僕は、主に、教育というフィールドで心の中に種を撒き続ける。

    当たり前のことだが、僕にも死ぬときが来る。

    たくさんの種を撒き、「生態系」を育んでいき、自分が、その一部として、そこに貢献できたという確信があれば、自分は安らかに生き物としての「生」を終えられる気がする。

    自由な人たちの命は、繋がっていく。

    明峯さん、心より、ご冥福をお祈りします。

     

    ※タイトルの絵は、明峯さんのスケッチ。こちらからお借りしました。

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