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  • 粘菌を通して考える生命論的パラダイム

    20年前に粘菌と出会ってから、粘菌は、自然の摂理について考えるときのプロトタイプとして僕の頭の中にずっと存在し続けています。

    粘菌にはたくさんの種類がありますが、単細胞アメーバが合体して移動体を形成する細胞性粘菌と、多核単細胞の巨大アメーバを形成する真正粘菌が有名です。

    細胞性粘菌は、もともと生物の形態形成や分化比率制御のプロトタイプとして多くの研究者によって研究されてきた生き物ですが、粘菌の生態には、もっと広い意味での生きることの様々な側面が凝縮されていて、たくさんのことを教えてくれます。

    真正粘菌は、ネットワークを形成し情報処理をしたり学習をしたりすることができ、思考の原形を見せてくれます。

    生命論的パラダイムについて考えていく上で、粘菌というプロトタイプを頭に置きながら思考することは、たいへん有効なのではないかと思います。

    場との相互作用で生まれる渦

    大学院時代に僕が取り組んでいたのは、細胞性粘菌アメーバの集合のメカニズムでした。

    細胞性粘菌アメーバは、バクテリアを食べ尽くすと飢餓状態に陥り、cAMPという情報伝達物質を分泌するようになります。このアメーバ細胞は、cAMPに対する受容体を持っていて、自分や他のアメーバが分泌するcAMPの量が一定の閾値を超えると発火して、cAMPをドバッと分泌する性質を持っています。

    これは、ニューロン細胞とよく似た性質で、非線形振動子としてモデル化することができます。

    非線形振動子は、パラメーターによって、外から刺激を与えたときに発火する興奮性を示す状態と、外から刺激を与えなくても自律振動する状態とを取ることができます。

    僕が研究していた20年前は、ペースメーカーと呼ばれる自律振動するアメーバ細胞がいて、その周りに興奮性を示すアメーバ細胞がシグナルをリレーしながら集まってくるという説明がされていました。

    僕は、どうしてもこの説明に納得がいきませんでした。

    生物の発生の根本には、最初は同じ細胞であるにも関わらず、相互作用によって自発的に対称性が破れ、役割が分化していくという性質があると考えていたので、「じゃあ、ペースメーカーは、どうやって誕生したんだ?」と思ったのです。

    それで、「すべての細胞が同じであるにもかかわらず、自律振動する細胞と、興奮性を示す細胞が現れるメカニズムとは何か」ということを考えました。

    それで見つけたのが、興奮性を示す細胞の密度を大きくしていくと、あるところで、みんなで自律振動するようになるということでした。

    タイミングがそろって、ドバッとcAMPを出すようになると、場に溢れだしたcAMPの瞬間的な量が大きくなり、閾値を超えてそこにいるアメーバ細胞が発火できるようになるのです。そして、再びcAMPをドバッと出す・・・というのが繰り返されていきます。

    1つのアメーバ細胞では自律振動できなくても、周りにアメーバ細胞がいて、お互いに引き込みながら同時に振動しているからこそ、自律振動できるというメカニズム。

    僕は、これこそが生き物の本質を表しているのではないかと思いました。

    今年になってから、清水博さんの『<いのち>の自己組織』を読みました。

    清水さんは、物質が示す対流のような自己組織と、<いのち>の自己組織とを区別して論じています。

    清水さんが言う<いのち>の自己組織とは、個体が自分の<いのち>を場に投げ込んでいった結果、場に<いのち>のドラマが起こり、そのドラマから個体が「活き」を受け取っていくというもので、清水さんは、それを、与贈循環と呼んでいます。

    与贈循環については、こちらをご覧ください。

    この本を読んだときに、細胞性粘菌のcAMPの分泌によるパターン形成と集合のプロセスは、まさに、与贈循環を表しているものだと思いました。

    細胞性粘菌の集合メカにズムを知っていたおかげで、与贈循環という概念を深く理解することができたのです。

    粘菌アメーバが集まってくると、密度が高い領域が生まれ、そこから外側へ広がるcAMPの渦が生まれます。

    粘菌アメーバは、コミュニケーションと移動を通してシグナルを増幅していき、渦を生み出し、渦の中心へと集まって合体するのです。

    その壮大なドラマをこちらの動画で見ることができます。

    胞子から発芽して、アメーバになり、集合して他細胞体である移動体になり、子実体を形成するまでの動画

    集まっている様子を上から見た動画

    集合期に発生するcAMPのらせん波の渦

    細胞性粘菌からは、多くのことを学ぶことができます。

    インターネットが発達し、オンラインでコミュニケーションを簡単に取れるようになったことで、人と人との間を情報が飛び交うようになってきました。

    粘菌アメーバが、飢餓状態になることでスイッチが入るように、僕たちも東日本大震災の後の危機感によりスイッチが入り、想いがシンクロし始めているのではないかと思います。

    ただし、僕たちは、粘菌アメーバの1つのような視点で社会を捉えており、自分たちを取り巻く状況を俯瞰することはできません。

    時代の変革期の中で、局所的で限定された情報しかない中で渦を起こしたり、渦に巻き込まれたりするような存在なのです。

    その位置から感じ取れる限られた情報の中で、重要な意味を持つのが、シンクロが起こる頻度です。

    頻繁にシンクロが起こる方向へ進むことで、より大きな渦を起こしたり、巻き込まれたりしていきます。

    シンクロを頼りに、右往左往しながら、徐々に形成される渦によって生まれる動きは、プロパガンダによって外部から誘導される動きとは全く異なるもので、自然の摂理に基づいた<いのち>の自己組織化現象です。

    私たちの身体も自然の摂理に従っており、それを発動させることで、大きな渦が起こっていくのではないでしょうか。

    粘菌アメーバが合体し、多細胞体を形成して長距離を移動していく様子は、まさにパラダイムシフトをイメージ化したものではないかと思います。パラダイムシフトを目指す僕の活動は、細胞性粘菌に導かれるように進んでいるような気がします。

    外発的動機付けによる線型化のプロセス

    真正粘菌は、多核単細胞でありながら、脳と似た構造を持ち、学習や記憶などの知的能力を示すことができます。

    自然に近い状態では、真正粘菌はフラクタル的な複雑な形態をしており、探索行動と選択のバランスを取っています。

    各部分は、非線形振動子と見なせる構造を持ち脈動し、脈動に応じて細胞質流動が起こります。そのメカニズムが統合されることで、複雑な情報処理と変形や移動、学習を可能としているのです。

    その仕組みは、おおざっぱに言うと、次の通りです。

    真正粘菌の一部に餌を接触させると、その部分の非線形振動の振動数が大きくなり、その部分から他の部分へ波が伝わっていき、その波動のパターンが細胞質流動を生み出し、餌を取り囲むように全体が移動してきます。

    一方、青い光などを一部に当てると、その部分の非線形振動の振動数が小さくなるため、波は、光を当てた側と遠い側から伝わるようになり、青い光から逃げるように移動し始めます。

    このように細胞に与えられた外部刺激を非線形振動のネットワークがパターンとして統合し、そこから変形や移動を起こして、意味のある行動を、その時々で創りだしていくのです。

    これを社会のメタファーと捉えると、各個人が学習回路を正しく作動させ、それらが有機的に繋がることで、社会全体として複雑な情報処理をすることができ、自然と調和状態に到達するというように考えることができます。

    これは、論語の「学習に基づいた社会秩序」の考えと非常に近いイメージだと思います。

    粘菌の知的能力を実験するために、しばしば粘菌に迷路を解かせる実験というものを行います。

    迷路の2カ所に餌を置くと、その2カ所を結ぶ最短距離に粘菌は線上に分布するようになります。

    この迷路実験は、見方を変えると、複雑で豊かな活動をしている生命に対して、強烈な外発的動機付けを施し線形化していくプロセスを表していると捉えることができます。

    文字通り「線形化」されてしまった粘菌は、自由度を減らし、刺激に対して決まった応答を返してくる理解可能な単純な系へと縮約されてしまいます。

    これは、外発的動機付けによって生命を制御可能なものにしようとしてきた工業主義的農業や畜産業を思い起こさせるものです。

    学力テストを用いたアメとムチによる条件付けにより、子どもを線形化していく教育とも通じるものです。

    真正粘菌もまた、様々な示唆を与えてくれる存在です。

    (追記)

    2016年に実施した「生きるための物理~真性粘菌に学ぶ生命論的パラダイム」の後、手続き的計算と創発的計算について考えていたところ、ソフトウェア工学の専門家である山崎進さんが、次のような問題提起をしてくれました。

    記述や計算の限界を考える上で興味深い問題提起なので、これについて、引き続き考えていきたいと思います。

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  • 奇跡が余白に舞い込む理由

    反転授業に関わるようになり、主体的な学びとは何かというテーマについて考え始めて3年が経過しました。

    生徒の主体的な学びを引き出すためには、教師と生徒の関係性を変えていかなければなりません。

    関係性とは、両者の在り方だから、生徒にだけ一方的に変化を求めるのではなく、教師も同時に変化することで、関係性の変化が起こるのです。

    主体的な行動が起こるためには、余白が必要です。

    余白があると、様々な想定外のことが起こります。

    工業化社会における教育システムでは、学校も工場のように決められた予定に沿って秩序正しく動くことが求められ、「想定外のこと=エラー」と見なし、余白を徹底的に排除してきました。

    教師の仕事の多くは、余白を与えないことに使われてきました。

    だから、余白を与えるという行為は、これまでの在り方を大きく変えることになり、教師にとってはある種の恐怖を伴う行為なのだと思います。

    僕自身も、かつては、教室で授業をするときに余白を排除してきました。自分が思ったとおりに授業が進むことを目指し、そして、その通りに10年以上、授業をやってきました。

    5年前から反転授業を始め、授業の中に余白を作り始めるとすぐに気づいたことがありました。

    それは、「余白には、奇跡が舞い込む」ということです。

    つまり、想定外というのは、悪いことばかりではなく、よいこともあるわけです。

    想定外のよいこと=奇跡は、余白を作ったからこそ起こりえることです。

    しかし、余白を作ったからといって、いつも奇跡が舞い込むわけではない。カオス状態になり、そのまま崩壊してしまうこともあります。

    余白に奇跡が舞い込むための条件は、いったい何なのでしょうか?

    いろいろな実験の末、私が気づいたことを書いてみたいと思います。

    条件1 奇跡は、縁をたどってやってくる

    なぜ余白を作ると、想定外のことが起こりえるのかというと、そもそも自分が想定できる範囲範囲というものは、常に限定されているからですね。

    すべての範囲を想定できる知性は存在せず、それぞれが、限定された想定範囲のもとで考えて行動しているのです。

    しかし、幸運なことに、私たちは、それぞれ異なる考えや経験を持っているので、複数の人たちの考えを重ね合わせて和集合を作ると、1人では想定できない広い範囲をカバーできるようになります。

    余白を作ることで、複数の人たちの考えを重ね合わせることが可能になったとき、その中の誰もが思いもよらないやり方で、目標が達成される可能性があるのです。

    だから、自分の状況をオープンにしていくことで、よい方法を知っている人が入ってきて助けてくれたり、新しいアイディアを持ち込んでくれるスペースを作ることが大切になってくるのです。

    でも、どうやったら、そのスペースに人が入ってきてくれるのでしょうか?

    それには、普段から作り上げている信頼関係のネットワークが大切になってきます。

    僕は、信頼関係でつながった人たちが、繋がりをたどってやってきて、助けてくれることを何度も体験しました。

    フィズヨビでは、受講生のみなさんに、何度も助けてもらいました。

    想いの部分が共通してたり、協力し合って目標達成をしたり・・・さまざまなきっかけで縁を紡いできた人たちが、利害関係を超えて動いてくれたときに、余白に奇跡が舞い込むのです。

    それならば、余裕があるときには、積極的に、他人の余白に自らを投じて奇跡を起こしていこうという考えが生まれました。

    そのようにして、普段から縁を大切に紡いでいけば、自分の想定を超えた様々なことが周りで起こっていくような奇跡に満ちあふれた人生になるのではないかと思ったのです。

    条件2 在り方を発信する

    「余裕があるときに縁を紡いでいくと、余白に奇跡が舞い込むようになる」という仮説に基づき、5月からペイフォワード予算10万円を、毎月使うことを始めました。

    見返りを求めずに、自分が本当に応援したい人、縁を大切にしたい人に対して、感謝と応援の気持ちを表現するために、5万円、10万円というお金を寄付していくのです。

    5ヶ月間やってみて、気づいたことがあります。

    それは、特定の人にお金を払うことで応援しているということに留まらない結果をもたらしているということです。

    一つは、お互いの持つ信頼関係のネットワークを繋いでいくことができるということです。

    少なくない金額を応援のために払うことができる相手は、僕が信頼している相手だけです。

    ペイフォワードをするという行為は、「僕は、この人を信頼しているんですよ!」ということを、周りに示す行為です。それは、「田原が信用しているのなら、信用できる人なんだろうな」ということで、信頼関係のネットワークをつなぎ合わせていく効果をもたらします。

    もう一つは、自分の在り方を発信しているのだということです。

    「みなさん~ 田原は本気でペイフォワードをしていくような人間ですよー」という在り方を発信し続けると、いろんな人が安心して声をかけてくれるようになってきたのです。

    すごい頻度で、いろんな人たちと繋がり始めたので、いったい何が起こっているのかなと思ったのですが、おそらくこういうことではないかと思います。

    誰かと一緒に仕事をしたり、プロジェクトをしたりするときには、みなさんも、相手が「奪う人」なのか「与える人」なのかを見極めようとするのではないでしょうか?

    両者が「奪う人」同士なら、お互いに引っ張り合って、どこかで均衡します。

    相手が、「奪う人」で、こちらが「与える人」の場合は、こちらのリソースをどんどん奪われて疲弊してしまいます。

    両者が「与える人」の場合は、場に循環が起こり、創造のサイクルが回っていきます。

    ペイフォワード予算についての発信を続けていくことは、「私は与える人です」ということを表明していることになり、たくさんの「与える人」が、僕のところにアクセスしてきてくれるようになってきたのです。

    その結果、創造のサイクルが回りやすい状況が、次々に生まれています。

    5ヶ月間続けてきて、ようやく自分のやっていることの意味が分かり、言語化することができました。

    クラウドファンディングは、縁を紡ぐと同時に、自分の在り方を発信する機会

    僕は、クラウドファンディングを応援することが多いのですが、そのときに、ただお金を払うだけでなく、縁を紡げる相手なのかどうかを見極めます。

    そして、単にお金を払って応援するだけでなく、その人の活動にコミットして、一緒に達成を喜び合えるように応援していきます。

    さらに、クラウドファンディングが終わった後も、その関係を大切にしていきます。

    そのような在り方が、また、周りに伝わり、様々な縁をもたらしてくれます。

    今月、ペイフォワード予算の50%である5万円をつぎ込み、一緒にZoomイベントを行い、全力で応援しているのが、映画監督の古新舜さんです。

    僕が巣鴨学園で数学の非常勤講師をやっていたときに、古新さんは生徒として同じ学校に通っていたというところから始まり、ともに、早稲田大学理工学部応用物理学科へ進み、ともに、その後、予備校講師になり、今は、映像と教育とを結びつけた活動をしているという2人なので、強い縁を感じざるを得ません。

    そして、古新さんもまた、縁を大切にしながら、与え合って創造を起こしていく「与える人」です。

    クラウドファンディングは、本日(9月29日)が最終日で、達成まであと少しです。

    古新さんの活動を応援している僕は、のクラウドファンディングを応援してくださる人に心から感謝し、応援してくださる人と縁を大切にしていきたいと思っていますので、支援した後に、ぜひ、田原までご連絡ください。

    クラウドファンディングは、まさに、不確定な未来へ自分を投げ出していく挑戦です。

    古新さんが作った余白に、一緒に奇跡を舞い込ませてみませんか?

    古新舜が贈る!長編映画「あまのがわ」〜分身ロボットOriHimeと自分探しの旅〜

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  • 生命論的パラダイムを非線形的に語っていく

    2ヶ月前に深尾葉子さんの『魂の脱植民地化とは何か』と出会い、仲間と集まってダイアログをしたり、オンラインのイベントをやったりし始めた。安冨歩さんとも繋がり、『生きるための論語』や『神秘的な合理主義』を読み、高知大学の集中講義をZoom配信した。

    そうしているうちに、自分の中の扉のいくつかが開き、眠っていたものが動き始めた。

    その中の一つが、「非線形現象」である。

    線形(=直線的)に対して、非線形は、「直線的ではないもの」を意味する。

    線形システムでは、入力値を連続的に変化させると、出力値もそれに比例して連続的に変化するが、非線形システムでは、入力値を連続的に変化させているのにもかかわらず、ある閾値を超えると出力値が不連続に変化する。

    その身近な例が相転移である。水の温度を連続的に上げていくと、ある温度で突然、対流が起こり始め、温度を更に上げていくと、対流は乱流へと変化し、100℃で沸騰する。このように、入力である温度変化を連続的に変化させているのにもかかわらず、出力が不連続に変化するのが非線形現象の特徴である。

    また、カオスを含む非線形システムでは、入力値のわずかな差異が、時間発展と共に指数関数的に拡大していくため、現実的に未来を予想不可能になる。

    線形振動(サインカーブで表せる振動)が、重ね合わせの原理に従うのに対し、非線形振動は、お互いに引き込み合って同期する。

    このように、線形現象と非線形現象には、大きな違いがある。私たちの身の回りは、非線形現象に満ちあふれており、その一部を切り取れば、線形現象として見なせるということに過ぎない。

    非線形現象との出会い

    大学3年生のとき、J・クリックの『カオス~新しい科学を作る』を読み、自分はこの分野に進もうと決意した。

    カオスが決定論的世界観の限界を示していることを知り、そこにパラダイムシフトの種を感じてワクワクしたのだ。

    そして、生命現象を、非線形現象として理解しようとする研究を始めた。

    魂の脱植民地化シリーズを先導している安冨歩さんとは、20年前に京都で行われた複雑系の研究会で一緒だった。当時、私は、物理学科の大学院生で、細胞性粘菌の数理モデルの研究をしていた。研究のヒントを得るために、東大や京大で行われる研究会に足繁く通っていた。安冨さんの研究発表を聞いたのは、京大で行われた研究会だった。東京から夜行バスで行ったため、寝不足の頭で必死に理解しようとしていたことを覚えている。

    安冨さんは、物々交換のプロセスの中から対称性の破れが起こって貨幣が形成されるという研究発表をしていた。経済学をこのような手法で研究することが可能だということがとても新鮮で面白く感じたことをよく覚えている。

    人生は非線形現象である

    その後、私は大学院を中退して物理の予備校講師になり、オンラインの予備校を作ったり、反転授業の研究というオンラインコミュニティを作ったりと、非線形現象や複雑系とは、直接関係のない活動をしてきたが、その間、自分自身の思考の枠組みが大きく変化し、それに伴って世界の見え方が劇的に変化するということを2度体験した。

    最初の大きな変化は、学生結婚した妻が病気になったことをきっかけに大学院を中退したときに起こり、2回目の変化は、東日本大震災をきっかけに起こった。

    思考の枠組みの変化が起こる過程では、一時的に混乱状態に陥るが、その状態を自分自身で把握するのに非線形現象に対する理解が役立った。恩師の「カオスには世界をサーチする力がある」という言葉は、最初の大変容のプロセスのときに心の支えとなった。

    大学院で研究のための知識として学んだ非線形現象の知識は、いつの間にか変化に満ちた人生を言語化するためのツールへと役割を変えた。

    20年ぶりに安冨さんと巡り会い、安冨さんが書いた「合理的な神秘主義」を読み、その中に「非線形哲学」という言葉を見つけたときに、今自分がやろうとしている生命論的パラダイムの構築に、非線形現象の知識を生かせることに気づいた。

    それは、あたかも使われるのを待っていたかのように自分の中に存在していて、そのことに感動してしまった。

    生命論的パラダイム

    反転授業に取り組むようになり、それが、教育システムのパラダイムシフトに関わるムーブメントであることに気づいた。

    産業化社会は、線形的思考によって作られている。線形現象というものは、本来は非線形現象に満ちあふれた世界を、線形近似したにすぎない。実験室では、単純理想化した環境を作り、線形的に理解できる状況を人工的に作り出す。

    線形的に単純な因果律で理解したいという精神が、実験室という人工的な世界を作りだし、その中で起こった現象を線形的に理解しているのだ。

    非線形現象を線形的に理解するためのは、外部との相互作用を断ち切って空間的に隔離した密室を作り、循環的な時間の一部を切り出して直線的な時間と見なし、その時間の前後に因果律を見いだす。

    そして、その因果律が、実験室内で再現可能であることをもって「科学的である」と主張し、実験室内の結果に基づいて得られた結果を、適用範囲外の実験室の外の世界へ当てはめていく。

    線型的に理解したいという精神が、非線形な世界を線型に理解可能な形に歪めた上で、「理解した」と宣言するという倒錯がここにはある。

    この構造は、学校の教室にもそのまま当てはまる。

    非線形現象の塊である子どもを、外部の相互作用と遮断した教室という密室に隔離し、入力に対して決まった応答を返す線形システムとして扱えるように管理していく。

    子どもの非線形性に寄り添うのではなく、子どもを「線型化」していくことは、暴力的なのであるが、それが、あまりに蔓延してしまっているので、その暴力性には気づきにくい。

    暴力性の度合いを強め、子どもに対する管理を強めていくほど、子どもは均質化し、決まった応答を返すようになる。その入力ー出力関係の再現可能性を根拠に、「科学的に」教育システムが成功していることを主張するのが、工業社会における教育システムではないだろうか。

     

    非線形的な語り

    先日、私の扉を開いてくれた深尾葉子さんと安冨歩さんの2人とZoomで話をする機会があった。

    深尾さんが現在執筆中の論文について議論相手としてお役に立てればということで参加した。

    fukao04

    その中で、安冨さんが語っていた言葉

    非線形性にこだわって、非線形な語りをしていく。

    が、とても印象に残った。

    生命論的パラダイムは、非線形現象である生命に寄り添っていくものになる。

    そこでは、線型的な理解をするために現実を歪めるのを止め、非線形現象を非線形なまま語っていくことになるはずだ。

    人間の頭に理解しやすくするために世界を歪めていく暴力が、地球環境と人間の魂を傷つけている。

    線型的な思考からは、地球と魂を癒やす知恵は産まれてこないだろう。

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  • 生きるためのx、自分と繋がるy

    生き物は、生まれた瞬間から学び始める。

    学ぶことは、生きることと不可分なのだ。

    外から情報を取り入れ、自分の中で統合し、身体知へと変えていくことで、外部を内部に取り込んでいく。

    このときに大事なのは、入ってきた情報に対してフィードバックループを回し、自分で取捨選択して統合していくというプロセスだ。

    何かしらの理由でフィードバックループが切断され、統合化のプロセスが回らないと、魂は呪縛される危険にさらされる。

    人間も自然の一部であるのにも関わらず、デカルトは人間の理性を自然と切り離し、理性によって切り離した記述空間を作り出した。

    その自然と分断された空間の中で科学は誕生し、科学は機械文明を生み出した。

    機械文明における規範は、すべてが予定通りに動くことである。不確定要素は排除すべきものであり、予定通りに動かない部品は不良品である。

    自然は、人間の居住空間から追い出され、コンクリートで固められた都市空間が誕生した。ここでは、すべてが予定通りに動くのだ。

    追い出されたのは、外部の自然だけではない。

    人間の内部に存在する自然も、不確定要素を生み出すものとして排除されてきた。

    社会秩序を構築するために、人間は内なる自然から沸き上がってくる感情を抑え、社会における役割を正確にこなしていくことを求められるようになってきたのだ。

    このような機械文明的な社会秩序を構築するために、学校教育が利用されてきた。

    一方的に大量の情報を流し込み、各自が自分の中でフィードバックループを回して統合する時間を与えないようにすると、子どもたちの魂は呪縛されていき、魂の上に蓋を創り、蓋の上に機械文明への適応のためのインターフェースを構築する。

    このようにして、機械文明を支える人間が大量生産される。

    機械文明がもたらした恩恵もある。機械文明が生まれなければ、私は、日本のどこかの田舎で、農業をして一生を送る以外の選択肢を持つことができなかっただろう。このようにインターネットによって様々な情報にアクセスし、ブログに記事を書いて多くの人たちに発信することができるのは、まさに機械文明のおかげだ。

    しかし、だからといって機械文明のもたらした闇を肯定することにはならない。

    きちんとフィードバックループを回し、主体的に機械文明の中で取り入れる部分を残し、捨てるべき部分を捨てる判断をしていくことが重要なのだと思う。
     
    機械文明は、自然のすべてを記述空間の中に写し取り、思い通りに管理できるはずだという証明されていない前提に基づいて突き進んできた。
     
    しかし、1970年に見つかった「カオス」により、非線形システムの挙動は予想不可能であることが記述空間の内部で証明された。生命は、まさに非線形システムであり、その振る舞いを予想し、制御することは原理的に不可能なのだ。
     
    「自然を完全にコントロールする」という機械文明の思い描いた夢は、すでに実現不可能であることが確定しているのだ。

    現在、機械文明がもたらしている深刻な問題は、2つの自然破壊だと思う。

    1つ目の自然は地球だ。自然を克服するという旗を掲げて突き進んできた機械文明は、毎年、地球の生産量の1.5倍を消費するようになるまで膨張してしまった。自分の乗っている宇宙船地球号を食いつぶしていった先には、当然ながら未来は存在しない。

    もう1つの自然は人間の魂だ。蓋によって封じ込められた魂は、暴力的に発露する。それは、自分自身に対する暴力(=病気や自殺)という形を取ったり、他人に対する暴力(=ハラスメント、差別、戦争)といったものが起こりやすくなる状況を生み出す。

    この状況をどのように変えていけば良いのだろうか?

    一番最初に戻って考えてみよう。

    機械文明は、デカルトが内なる自然である魂と外部世界とを切断し、分断を生み出したことから始まった。

    デカルトは、『方法序説』において、複雑な現象を理解するために、十分に簡単だと思われる要素に分割して理解した後、それらを総合して全体を理解する分析と総合の手法の有効性を説いた。

    これは、機械論を支える要素還元主義を生み出した。

    しかし、自然は、分析と総合の手法によって理解できない存在だ。

    魚を切り分けてしまったら、「生きた魚」という存在は失われてしまう。

    非線形システムは、要素の集合体以上の全体性を持っていて、その全体性は分割によって失われてしまうのだ。

    今、私たちがやらなくてはならないのは、分断されてしまった世界を統合していくことだと思う。

    まずは、人間の魂と外部社会とを隔てる蓋を溶かし、人間の内部に生まれている分断を統合するところから始めよう。

    それが、生きるためのx、自分と繋がるyという学びを立ち上げようと思った理由だ。

    xやyには、各自が好きなものを入れて、好き勝手に初めて欲しい。
     
    まずは自分が先頭を切り、xに物理を代入し、「生きるための物理」をやってみる。

    9月18日に、そのコンセプトについて語る予定だ。

    「生きるための物理」とは何か

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