協同現象として理解するのではなく、創発を起こしていく

生きるためのXというプロジェクトを立ち上げてから、生命論的パラダイムについて、毎日考え続けている。

私が立ち上げている「生きるための物理」は、安冨歩さんの「生きるための経済学」をフレームワークとして使いながら、自分の人生の学びを語っていくものだ。

そして、それをプロトタイプとして、「みんなも、それぞれの人生の学びを語ってみようよ!」と呼びかけていくムーブメントが、生きるためのXである。

安冨さんは、「生きるための経済学」を次のように定義する。

「生きるための経済学」とは、ネクロ経済学の論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、ビオ経済を活発にするための経済学である。

ネクロ経済学とは、安冨さんの造語である。

自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

という思考連鎖による経済学を、「ネクロフィリア・エコノミックス」(略してネクロ経済学)と呼んでいる。

一方で、ビオフィリア・エコノミクス(略してビオ経済学)は、

自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

という思考連鎖による経済学であり、これも安冨さんの造語である。

それを、物理学に当てはめるとどのようになるだろうか?

この文脈で物理学のことを考えたときに思い浮かぶのは、物理学から生まれた機械論的パラダイムによる魂の植民地化プロセスである。

生き物は、最適化モードと探索モードとを持ち、それらを自由に行き来しながら魂を躍動させる。

しかし、機械論的世界観は、魂の躍動を封殺することで、すべてが予定通りに動く世界を作りだしてきた。

そこで封殺されてきたものは、外部の自然であり、私たち内部の自然である。

そこで、私は、「生きるための物理」を次のように定義したい。

「生きるための物理」とは、機械論的パラダイムの論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、生命の躍動を活発にしていくための物理学である。

物理学=機械論ではない。機械論的パラダイムを乗り越え得る様々な知を内部に蓄えてきた。今、私が、機械論的パラダイムの破壊的側面に対して思考を巡らせることができるのは、機械論的パラダイムを通過し、非線形物理や、複雑系、生物物理、量子力学などを学んだからである。

生命の躍動を活発にするための鍵になるのが、「創発」という概念を理解することである。

今日のブログでは、「創発」に対する私の考えを書いてみたい。

協同現象と創発の違い

Wikipediaを見ると、創発について、以下のように書いてある。

創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。

私が、大学院で細胞性粘菌の形態形成について研究していたときも、実は、上記のようなイメージで創発を捉えていた。

多数の粘菌アメーバが合体し、多細胞の移動体という部分の総和に留まらない組織が「創発」すると考え、アメーバ細胞の数理モデルを相互作用させ、多細胞体の境界が「創発」されるメカニズムを抽出しようとしていたのだ。

 

しかし、安冨歩さん、深尾葉子さんとの対話から、私がシミュレーションによって見いだそうとしていたのは「創発」ではなく、「協同現象」に過ぎないことに気づいた。

協同現象というのは、対流や化学反応のパターン形成のように、物質間の相互作用からマクロな構造が生まれる現象のことだ。

サブユニットに単純なルールを与えて、相互作用させることによって対流のようなマクロなパターンが生じるのは、まさに「協同現象」である。このとき、各サブユニットは、基本的に交換可能な「同質なもの」であり、プログラムなどに記述可能である。

では、創発とは何だろうか?

清水博さんは、『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化現象を次の2つに分類している。

※詳しくは、『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと を参照。

物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。

<いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。

物質的な自己組織とは、協同現象に相当し、<いのち>の自己組織が、創発が起っている現象に相当する。

機械論的パラダイムの中で行われた工業化モデルの教育システムでは、人間の自由な探索モードを抑制し、最適化モードのみを発動させて条件付けるので、人間の行動が同質化され、単純なルールで記述可能なサブユニットと見なせる状況が生まれる。そのとき、人間社会には、協同現象が自己組織化しやすくなる。

人間の自由な探索モードを強く抑制する課程で作動するのが、

自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

という思考連鎖である。

条件付きの愛情などにより探索モードの発動を抑え込まれると、「才能のある子ども」として、自己嫌悪を抱えながら用意されたレールの上を走るようになる。そして、用意された「選択の自由」の中で虚栄心を得られるように行動を最適化する。

このように外部から行動を最適化された人間は、機械論的組織の中で、上から下りてくる指令を正確にこなす「機能的人間」としての役割を果たすことを期待される。

私は、それこそが、機械論的パラダイムの破壊的側面だと思う。

一方で、人間の自由な探索モードを正常に発現させると、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようになり、コミュニケーションのPathの柔軟なつなぎ替えにより、マクロな循環構造が予想不可能な形によって生まれる。それは、人間同士の間だけでなく、個人の思考のネットワークの中でも起るだろう。

私は、このようなプロセスで起る現象を「創発」と読んで、「協同現象」と区別したい。

では、サブユニットにランダムネスを与え、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようなシミュレーションを行ったら、「創発」を再現できるのだろうか?

私は、そうは思わない。

自由な探索モードによる行動には、各個人の歴史性、身体性が伴っており、無意識レベル、身体レベルに蓄えられた膨大な情報から浮かび上がってくるプロセスが本質的に重要なのだと思う。それを、ランダムネスで近似してしまったら「創発」には、きっとならない。

私たちは、理由は分からないけど、なんとなく行動を始めることがあり、しばらくしてから、なぜ自分がそれをしたかったのかを理解することがある。

<いのち>を持った存在は、身体知レベル、無意識レベルでは価値判断をしており、創発的計算の末に直感的に行動を選んでいるのだ。

それは、おそらく原理的に記述不可能な領域であり、強引にランダムネスで置き換えると、単に協同現象を観察することになる。
 
協同現象は、外部に条件つけられ「最適解」や「安定状態」へ移行する現象である。一方、「創発」は、枠組みを脱出し、意味をずらしていく現象である

だから、創発は、記述の世界に落とし込んで知的に理解するものではなく、各自が、自らの身体を使って作動させ、体感によって納得するものだと思う。

自然界は、創発に満ちている。自分の身体を使って創発を起こす体験は、自然との繋がりを取り戻すことを意味する。

創発的な場を、数多く創っていこう。

そして、体験を共有する人たちと語り合っていこう。

生命論的なパラダイムとは、創発を共通体験として持つ人たちによって広がっていくものだと思う。

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