朝起きたら、一通のメールが届いていた。

それは、僕が尊敬する人の一人、明峯哲夫さんが食道ガンで亡くなったというお知らせだった。

僕は、明峯さんから、たくさんの大切なものを受け取っているので、それをここに書いておかなければならないと思って、この記事を書いている。

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僕が明峯さんと出会ったのは、28歳のとき。

大学院を中退して、茨城県の水戸市にある智森学舎予備校で物理を教え始めたときだ。

そのときの僕は、それまで目指していたアカデミックな世界から離脱したばかりで、どうやって生きていったらいいのか分からない状況だった。

そんなときに、講師室で話しかけてくれたのが生物講師をやっていた明峯さんだった。

 

明峯さんは全共闘世代。北海道大学で博士課程の学生だったときに学生運動に加わり、その結果として大学院を中退し、在野の研究者となったことを知った。

「在野」という道があるということを知ったことが、僕にとって生きていく希望となり、明峯さんは、そのロールモデルだった。

 

毎週月曜日、講師室で明峯さんと話をするのが、その頃の一番の楽しみだった。

明峯さんは、在野の農学者として様々な活動をしていて、あちこちに書いた記事のコピーを僕にくれた。

僕は、そのコピーを読むことで、明峯さんの活動や思想を理解した。

明峯さんは僕に、

「自分で勉強していけば、あっという間に大学の先生よりもいろんなことに詳しくなりますよ。」

と言っていた。そして、自分自身が、まさにそれを体現していた。

 

しばらくして明峯さんの言っていることの意味が分かってきた。

論文を書かなければならないという制約が外れたおかげで、純粋に好奇心から学べるようになったのだ。

生物物理の分野で自己組織化を研究していた僕の興味は、進化論に移った。

生物が自己組織化の産物として存在しているのであれば、環境から遺伝子へ向かう情報の流れが存在しなければならない。

しかし、それは、当時の生物学では「獲得形質の遺伝」として、完全に否定されてたものだった。

獲得形質遺伝について取り組むことは、アカデミックな世界の研究者にとっては学者として大きなリスクを伴う。

しかし、それが、「在野」の僕にとっては、大きなチャンスに思えた。

ネオ・ダーウィニズムから生まれてきた「生存競争」という概念は、資本主義経済を「自然のもの」として肯定する役割を果たしたが、ネオ・ダーウィニズムの論理を崩すことができれば、新しい社会のあり方も見えてくるのではないかという思いもあった。

体の中から力が湧いてきた。

 

このテーマは、実は、明峯さんが学生時代に取り組もうとしたテーマでもあった。明峯さんは、自宅の蔵書の中から『二つの遺伝学』(徳田御稔著)という本を貸してくれた。これは、ソビエトのルイセンコという生物学者が唱えたルイセンコ生物学について書かれたものだった。

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明峯さんを通して、ミチューリンやルイセンコといったロシアの生物学者の存在を知った。

彼らの生物学は、ヘーゼル哲学における止揚を生物進化に適用したものだった。それが、ルイセンコに置いて共産主義のイデオロギーと結びつき、メンデル・モルガン生物学を唱える資本主義イデオロギーと、ルイセンコ生物学を唱える共産主義イデオロギーの対立へと発展した。ルイセンコの政治的失脚とワトソン・クリックによるDNAの二重らせん構造の発見、セントラルドグマの提唱によって、ルイセンコ生物学はスキャンダルとして歴史の闇へと消えていった。
 

セントラルドグマを崩すためのヒントを探していた僕は、ミチューリンやルイセンコにヒントを求めて、手に入る限りの文献を集めて読んだ。
そして、考えたことを、月曜日に予備校の講師室で明峯さんにぶつけるのが楽しみだった。珍しい文献を見つけるとコピーして明峯さんに渡していた。

大学院を辞めてから10年間、僕の生物学の先生は明峯さん一人だった。
自分の父親と年齢が変わらない明峯さんは、いつも対等な立場で、僕と話してくれた。
学ぶ意欲を失わずにいられたのは、明峯さんのおかげだった。

明峯さんのことを思い出すとき、いつも頭に浮かぶ光景がある。
息子さんが新荻窪で経営している「のらぼう」というお店に連れて行ってもらったときのことだ。
そこで、地鶏の卵を食べながら、なぜ、地鶏の卵は美味しいのかという話になった。

僕は、「食べたものの違いが卵の黄身の組成に反映するということは、外部環境の情報が、遺伝子の環境である黄身へ反映しているのだから、それが遺伝子の発生時のふるまいへ影響する可能性があるのではないか」と主張したが、明峯さんは、「生殖細胞と体細胞の間の情報のやり取りは切れている」と主張して譲らず、ご飯を食べながら険悪な状況になった。明峯さんは、気を静めるように立ち上がって、水を飲みにいった。僕は、そんな風にいつも真剣に対峙してくれる明峯さんが好きだった。

その後、エピジェネティクスが見つかり、環境からの情報がDNAメチル化などの遺伝子修飾のパターンを変化させ、それが子孫へ伝達されるということが明らかになった。獲得形質が遺伝することが分かったのだ。

これを知ったとき、明峯さんと僕は興奮した。こんな日が来るとは思わなかったと言い合った。

春期講習のとき、満面の笑みを浮かべた明峯さんが、手を後ろに回して近づいてきた。

「ジャーン」と言いながら出したのは、『サンバガエルの謎』という本だった。

その子供っぽい振る舞いが、なんだかうれしかった。

サンバガエルを使って獲得形質遺伝の実験をしたオーストリアの生物学者カンメラーは、標本にインクを注入して偽造したという疑いをかけられピストル自殺したが、この本は、カンメラーに対して好意的に書いてある本だった。

カンメラーについて調べているうちに、チリの生物学者が、カンメラーの実験を最新の遺伝学の視点から再検討していることを知り、論文のコピーを明峯さんに渡した。この分野を研究しているチリの生物学者や香港の生物学者にメールを書いて、意見交換を求めたりした。

調べていくうちに、イギリスの発生学者のWaddingtonのエピジェネティック・ランドスケープという概念と出会った。これは、非線形物理を学んでいた僕にとっては、分岐理論の生物バージョン。10年たってたどり着くべきところにたどり着いたという気がした。

有機農法や自然農についての関心も、明峯さんがきっかけだった。在野の農学者として「都市を耕せ!」と呼びかけていた明峯さんの思想にも影響を受けた。

生きるということはどういうことか。食べるということはどういうことか。

思想と行動を一致させている明峯さんの生き方は素敵だと思った。

生物学における異端だった獲得形質遺伝は、いつの間にか、最新のトピックになっていた。明峯さんといっしょに13年間議論してきたことをもとに、もう一度、論文書いてみようかなと思って、東北大のある研究室を訪ね、研究生として籍を置かせてもらい、13年ぶりに研究を再開することにした。

誰も研究していなかったことを13年間も考え続けてきたんだから、何かインパクトの大きいことが出来そうな気がして興奮した。

そんなとき、東日本大震災が起こり、それまでに考えてきたものは、すべて吹っ飛んだ。

有機農法の活動家でもあり、反原発の活動家でもあった明峯さんに、福島の原発事故が与えたダメージは大きかった。

科学が外から人間を判断していくことに反発して、人間は自分の価値観に基づいて生き物として生きていくことを選択すべきだと主張していた明峯さんにとって、福島の農業をどうするのかという問題は、究極の選択を迫られるものだったからだ。

池袋の居酒屋で明峯さんと会って話をした。

福島で野菜を作るべきかどうかという話については、意見が異なったが、明峯さんの気持ちはとてもよく分かった。

そのとき、明峯さんから1冊の本をプレゼントされた。

僕の意見は小出さんとほとんど同じだったが、明峯さんの意見は、農民の生き方に寄り添ったものだった。

本を読んで、次のような投稿をFBに書いた。

【決断の違いからくる断絶を乗り越える方法】

古い友人の明峯哲夫さんと、久しぶりに会ってお話しする機会がありました。

明峯さんは、有機農業に関する活動を長年続けてこられた方で、僕とは親子ほどの年の差があります。

かつて、同じ予備校で講師をしていました。

予備校講師という仕事は、講師同士に縦の関係がないので、生物の講師と物理の講師という立場で、10年以上前から親しくさせていただいています。

明峯さんは、全共闘世代で、博士課程のときに学生運動に身を投じてアカデミックな世界を去り、その後は、在野の研究者として農業に関わってきた方です。

僕が博士課程を中退して、予備校講師になったときに、明峯さんと知り合うことが出来たのは、今思えば本当に幸運でした。

大学院を中退して人生の方向性を見失っていたときに、「在野の研究者という生き方もあるんだ」と、その存在にたいへん励まされました。

毎週月曜日に講師室で、いろいろな話をするのは、本当に楽しみでした。

現在、僕のライフワークになっている獲得形質遺伝の理論モデルというテーマに出会ったのも、明峯さんから聞いた話がきっかけでした。

生命科学を自己組織化の観点から再構築しなくてはならないという僕に対して、

「ロシアのミチューリンとかルイセンコって知っている?」

と言って、古い書籍を貸してくれました。

生物学の様々な文献を読んで明峯さんとディスカッションすることで、だんだんと生命科学や進化論についての思考が深まっていきました。

その後、明峯さんの影響もあり、有機農業や自然農法に関心を持つようになり、マンションのベランダにコンポストを置いて、拾ってきたありとあらゆる種をそこに撒いて自然農法のまねごとをしてみたり、有機野菜農家と個人契約をして食べるようになったりと、今から考えるとさまざまな点で影響を受けていたと思います。

2年前に、獲得形質遺伝の理論的なモデルを構築するためのアイディアが沸いて、13年ぶりに研究を再開しようと思えたのは、研究の場でプロとして13年間過ごしてきた人に負けないほどの濃密な時間を過ごしてきたという自信があったからです。普通の研究者が読まないような書籍や文献を読み、独自に思索を重ねてきた日々の充実が、僕に自信を与えてくれました。それは、明峯さんとの出会い無しでは得られなかったものです。

僕は、震災後、長年契約していた有機栽培農家の契約を打ち切り、東北を離れる決断をしました。それは、明峯さんの主張に真っ向から反することであることでした。

もう以前のような関係性には戻れないと思いました。

明峯さんの文章を読むと、それが、自分を批判しているように感じられるようになりました。

震災と原発事故によって、僕たちは暴力的に決断を迫られて、決断の違いによって関係性に亀裂が入り、断絶させられ、孤独を感じるようになりました。

この断絶は、

「違いを認めよう」
「お互いの価値観を尊重しよう」

などと言った、使い古された陳腐な言葉ではとうてい埋まらないほどの深く絶望的なものに感じられました。

2年経っても、正直言って、この断絶はほとんど埋まっていないように感じていました。

今回、明峯さんと会って、今度、新しく出る本をいただきました。

『原発事故と農の復興』

という本で、有機農業を行っているNPOが、京都大学の小出裕章さんを招いて行った公開討論会を元に作られた本です。

明峯さんも、パネラーとして参加して発言し、論考を投稿しています。

本の中では、2年間の調査の結果、福島の土壌に粘土が多く含まれることと、土が肥沃だったことから、セシウムの農産物への移行がチェルノブイリとは違って極めて低く抑えられ、「福島の奇跡」と呼ばれているということなど、ほとんど知られていないことなどがたくさん書いてありました。

同時に、農作業をする際に土壌に固定されたセシウムから放出される放射線による外部被爆は避けられず、被爆リスクを覚悟した上で農作業をしているとも書いてありました。

「放射線が強い地域では、コミュニティごと避難すべき」という小出さんに対して、明峯さんの意見は、「人間は安全性だけで生きているわけではありません。場合によっては、危険であると分かっていても、それを覚悟して生きていく、それが人間です。むちゃくちゃ危険なことをして早死にしても、それがその人の人生だったということにもなるし、ただただ長生きするだけの人生を潔しとしないという考え方もあります。」といって、避難に対しては、真っ向対立の立場です。

その後、

「大事にしているファクターがいくつもあって人生は複雑です。」

「それぞれが、自分の人生設計の中でいくつかのファクターを考えた上で決められればよい。そのような決められる自由が重要です。」

と発言していました。

これを読んだときに、断絶を乗り越えるための希望が、少し見えました。

各人は、それぞれの生まれた場所、育ち方、環境、子どもの有無などの違いがあって、その多くは選択できないものです。

そして、それまで生きてきた歴史があって、その結果として生まれてきたファクターの分布に従って決断を下していくことになります。

どのファクターを優先するかは、まさにその人の行き方そのもので、その人のファクターの分布を反映するものです。

自分は、自分の人生設計のためのファクター分布があり、それに忠実にしたがって結論を下しています。

ベクトルの「向き」が同じであるということに基づいた共感ではなく、自分の人生に忠実に行動し、自分のあり方を表現しているというベクトルの「大きさ」に共感することが可能なんだと思うことができました。

ファクターの分布に忠実にしたがって下した結論が他人と違ったものになっても、それは、必ずとも断絶を意味しないということが、これを読んでいて心で納得できました。

そして、ベクトルの「向き」が違うことで断絶と見えたものを乗り越えるためには、自分自身も自分の人生に忠実にベクトルの「大きさ」を大きくしていけばよい。そうすれば、違ったレベルで共感して、つながっていけるんじゃないかと思えたのです。

僕には僕の背景と歴史があり、人生設計のファクターがあり、その結果、下した決断は他の人と違ってくるけれど、自分自身に忠実に、迷わずに進んでいこうという前向きな気持ちがうまれました。

僕の人生の節目節目に、重要な示唆を与えてくれる明峯さんには、本当に感謝しています。

明峯さんは、この文章を喜んでくれて、編集者に送りたいと言ってくれた。

明峯さんは、この本で書いていた。

「人間は安全性だけで生きているわけではありません。場合によっては、危険であると分かっていても、それを覚悟して生きていく、それが人間です。むちゃくちゃ危険なことをして早死にしても、それがその人の人生だったということにもなるし、ただただ長生きするだけの人生を潔しとしないという考え方もあります。」

そして、実際に被爆しながら、福島の土壌汚染と作物への放射性物質の転移率を測り、福島で農民が誇りを持って生きていくための道を模索していた。

今回の死がそのことと関係しているかどうかは、誰にもわからないが、明峯さんが、相応の覚悟を持って取り組んでいたのは間違いない。

最後まで思想と行動を一致させていた。

明峯さんは、たくさんの種を撒いたが、その一つが僕の心の中にまいた種だ。

今こうやって、教育の未来を創ろうと活動しているのは、間違いなく明峯さんの影響だと思う。

もっといろいろなことを話したかった。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

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