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『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと

合同会社CCCと反転授業の研究のコラボ講座「全体性から生きるAuthentic Leadership基礎特別篇」でNVC(非暴力コミュニケーション)を学んでから、感情というものに関心が強まっている。

NVCでは、生命エネルギーの源の存在を仮定し、源が何かを満たそうとして行動を起こし、行動が達成されれば快感情を感じ、達成されないときは深い感情を感じるというように説明している。

nvc

このように感情を捉えると、そのときの感情の快、不快に振り回されるのではなく、「この感情は、どんなニーズから来ているんだろうか?」と自らに問いかけていくことで、自分の源と繋がる道を見つけやすくなる。

コミュニケーションを取っているときでも、感情レベルとニーズレベルという二段構えで考えていると、相手の感情に対して、一時的に自分の感情が反応するものの、一呼吸おいて、その状況を俯瞰して、「お互いの感情は、どんなニーズから来ているのか?」と考え、お互いがニーズを満たし合う関係について考える余裕が生まれてくる。

実際の生活の場にNVCの考え方を取り入れ、自分の心に湧いてくる様々な感情や、コミュニケーションの中で相手が表現する感情について、感情レベルで反応するのではなく、ニーズを探求していくことで、自分や身近な人に対する理解が深まり、コミュニケーションの在り方が変化してきた。

感情に対する探究の中で、ニーズに繋がりにくい感情があることに気づいた。

他の感情が、比較的スムーズにニーズと結び付けられるのに、ある感情については、ニーズとうまく結びつかない。

それは、例えば、「自分は義務を果たしていないという罪悪感」

もしかしたら、この感情は、自分の源から来ているのではなく、別の部分から来ているのではないだろうか?

感情について探求する中で、このような問いが生まれた。

魂の植民地化

自分の源から来ていないとすれば、それは、支配や暴力のメカニズムによって外から埋め込まれたものなのではないだろうか?

そのような仮説を立て、思考を巡らせていたときに、『魂の脱植民地化とは何か』という本を紹介してもらった。

この本の著者である深尾葉子氏は、冒頭で次の次のように述べる。

人間の魂は本来何者にも束縛されずにその生をまっとうしうる力をもっている。にもかかわらず、生きる過程において、人間は様々な呪縛を身にまとい、囚われ、自らのありようを制約する。

そして、親子関係、集団的な価値規範、様々な文化的装置によって呪縛が発生し、正当化されていくメカニズムを解明していく。

「呪縛は、罪悪感と隣り合わせで、呪縛を脱しようとする試みは罪悪感とのせめぎ合いになり「葛藤」を生み出す」という個所を読んだときに、この本は、まさに自分の問いに対するヒントをくれるものだと確信した。

深尾氏は、魂の植民地化を次のように定義する。

人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。

また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。

他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。

深尾氏は、「蓋」は、コミュニケーションを通した学習プロセスの中で形成されると言う。

人に傷つけられたくない、大切な問を失いたくないといいった自己防御的な仕組みがはたらいたり、周りによく思われたり、社会に適合した人間として成功を収めたいといった能動的、努力獲得的なものもあり、それらは、秩序形成装置として積極的に評価されてきたいうのだ。

さらに、蓋によって魂と切断された自己は、魂への裏切り行為から自己憎悪へと向かい、それらは、暴力的な発露を引き出す原因となると述べる。

これは、私たちが「反転授業の研究」の中で、外発的動機づけ(アメとムチ)によって、欲と怖れのサイクルを回して学習させる危険性について考えてきたこととシンクロする。

教室は、長い間、「しつけ」の場として機能してきた。

逃げ場のない状況で、学力テストによって序列化したり、規則に従わない者を罰したりすると、その環境に適応するために、子どもは魂に蓋をし、蓋の上に適応のためのインターフェースを構築するのではないか。

しかし、そのことに気づいた教師たちは、外発的動機づけを可能な限り弱め、教室に安心安全の場を創りはじめている。

安心安全の場を創ると、生徒たちの蓋が開きはじめ、魂と繋がった行動が漏れ出てくる。

その行動を受容し、励まし、共有することで、場に魂と繋がった行動が循環するようになると、生命エネルギーが場に溢れてくる。

これが、僕の考える反転授業であり、アクティブラーニングだ。

憑依の危険性

深尾氏は、魂の脱植民地化に有害な精神の働きとして「憑依」という概念を唱える。

ここでいう「憑依」とは、シャーマニズムのように、他者や死者、他の生命や神の精神を宿すという概念とは異なり、コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシミュレートすることをいう。これがうまくなると瞬時に他人の考えていることが手に取るようにわかるようになり、それによって即座に、どのような対応をすればよいかが割り出され、相手の心を理解した対応ができるかのように見える。

(中略)

しかし、この作業は、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではなく、自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心をなぞろうとするもので、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。

これを読んで思ったのは、日本では、「思いやり」が非常に重要視されるが、自分の魂に蓋をして、お互いが「憑依」によって、他人の感情をお互いにシミュレートし合うと、魂と切り離されたバーチャルな感情共同体が生まれるのではないかということ。

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そのバーチャルな感情共同体は、各人に内面化され、お互いを見張る「目」の役割を果たすのではないだろうか。

私が、自分の感情について探求する中で出会った罪悪感の正体は、この「バーチャル感情共同体」の規範に背く罪悪感だったのかもしれない。

蓋と箱の構造

深尾氏は、魂と蓋、蓋の上に形成されるインターフェースを、次のように図式化する。

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この図を見たときに、「これは、若いころの自分だ」という気がした。

私の母は、本人はどのくらい自覚しているか分からないが、自己実現の道具として子供を利用している部分があった。

「文武両道の息子」という理想像を達成するために、「感じる」という部分に侵入されて操作された結果、しだいに自分の感覚が分からなくなっていったのだ。

ものごとを決めるときに「母はこのように望むだろう」ということが、自分の感情のように感じられ、その一方で、自分の感情は分からないという状態になった。

「他人の期待に応える」という行為を繰り返す結果、他人の期待と自分の欲求を分離するのが難しくなり、生きることに不自由さを感じるようになった。

その中で生まれた適応行動が、他者の自分に対するイメージを操作することだったり、いろんなことをやって「よく分からない人」を演じることだったりした。

この図では、インターフェースに多くの箱が書いてある。

箱は、様々な役割を表していて、役割を移動することで、疑似的な「自由」を味わうのだ。

これは、20代の私が、やっていたことそのものだ。

蓋の上に多くの知識が乗り、それを生きるための手段として利用すればするほど、それを手放すことが難しくなる。

インターフェースが機能すればするほど、漬物石のように蓋を押さえつけ、蓋を開けることが難しくなる。

言語化できないストレスによって、毎日、咳き込むようになった。

体の不調を感じながら、大学院に進学し、多細胞生物の自己組織化の研究を行った。

昼間は私立高校で数学を教え、野球部のコーチをし、さらに、大学院で博士号を取るために研究する生活は、母の望む「文武両道の息子」そのものであった。

その一方で、箱の数は増えていき、いろんな役割を担うことで生活は多忙を極めていった。

その生活に終止符を打つきっかけになったのは学生結婚だった。

自分には直視できない部分を指摘する妻の存在は、隠蔽されていた真実を暴き出し、様々な軋轢を生むこととなった。

そこから、妻の病気、大学院中退、両親との絶縁・・・・と人生は激変し、私は自分と向き合わざるを得なくなった。

親が敷いてきた人生のレールを大きく外れたことで蓋の上に乗っていた様々な箱は無価値になり、徐々にそれらを捨てることができた。

蓋の上に乗っているものが軽くなったとはいえ、それらは自分の生存を守ってきたものであるため、すべてを捨て去ることには恐怖が伴った。

また、様々な罪悪感や、以前の生活に対する未練が立ち上がり、妻に多大な迷惑をかけた末に、5年ほどかけて、ようやく蓋を開けることができた。

変化に対して最後まで抵抗したが、最後の最後であきらめて向こう側に身をゆだねたら、世界がくるくると回転して新しい世界が生まれたような感覚があった。

その後、少しずつ、等身大の自分自身を認められるようになり、自分の感情を徐々に感じられるようになってきた。

夫婦で会社を設立し、それから10年以上、なんとか暮らしていくことができているのは、あのとき、蓋を開けることができたからだと思う。

植民地化された魂が、脱植民地化されるプロセスは、大きな痛みを伴うものかもしれない。

しかし、今は、自分の人生を生きているという実感がある。これは、かつては、感じられなかったものだ。

蓋を開けるプロセス

コーチングやファシリテーションの分野では、蓋を開ける様々なプロセスを開発している。

それらが語るプロセスは、どこか共通したところがあり、自分の体験と重なる部分がある。

オットー・シャーマー著『U理論』を読んだとき、そこで語られている変容のプロセスは、自分の体験そのものだと思った。

自分のメンタルモデルが徐々に揺らいでいき、異なる価値観を部分的に受け入れていくが、その間に、何度も揺り戻しが来て元の状態に戻ろうとし、でも、どうにもならなくなって先の見えない未来に身を投じたときに、自分が創り出していた世界が大きく変化するという体験を、U理論は整理して示してくれる。

そのプロセスは、上記の自分の体験と驚くほど一致している。

日本には、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬こそあれ」という言葉があるが、昔も今も、世界中のあちこちで、Uプロセスのようなものは体験されてきたのだと思う。

U理論のプレゼンシングの瞬間は、深尾氏のモデルの「蓋が開く」に相当するように思う。

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自己組織化との関係

「反転授業の研究」を主宰するようになり、10年以上を隔ててかつての研究テーマ「自己組織化」と再会した。

教師が「壇上の賢人」として生徒に知識をインストールすることを止め、「傍らのガイド役」として学習者の学びを支援するのであれば、それを目指す教師たちの集まりであるオンラインコミュニティの運営もフラットな関係を土台にして、様々な活動がコミュニケーションの中から創発するようにしたいと思ったからだ。

約4000人が集うコミュニティにおいて、何度も運営チームと受講者とが混然一体となって学ぶオンライン講座をやっているうちに、かつて学んだレーザーや対流の散逸構造の自己組織化と、コミュニティにおける自己組織化とはだいぶ異なることに気がついた。

オンラインコミュニティに起こる自己組織化は、次のようなステップで進んでいく。

(1)多くの人が場に情熱を注いでくれる。

(2)運営者は、それらを可視化して増幅していく。

(3)予想できない形で即興ドラマが展開しはじめる。

(4)その中でメンバーが多様な役割を演じ、生き生きとし始める。

(5)あたかも予定されていたかのような納得感のあるエンディングを迎える。

このような体験を通して自分の中に降りて来た言葉は「ドラマが起これば、未来がやってくる」というものだった。

ドラマに巻き込まれていくうちに、メンタルモデルの変容がおきる。深尾氏の表現を借りれば、魂が呼吸できる状態になってくる。

このような自己組織化のプロセスについて考えていたときに、清水博著『<いのち>の自己組織』を読んだ。

清水氏は、物質的な自己組織化と、<いのち>の自己組織化とを区別しており、自分がなんとなく感じていた違和感が明確になった。

物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。

<いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。

清水氏は、サッカー場のウェーブなどにおこる自己組織を「イベントの場」における自己組織と呼び、そこでは、人々はボーズ粒子的に振る舞っていると述べる。

一方、家族、組織、コミュニティなどで、居場所を舞台として、お互いの関係性の中から<いのち>の即興ドラマが生まれることを<いのち>の自己組織と呼んでいる。

<いのち>の自己組織が起こるためには、各メンバーが自分の<いのち>を居場所に与贈する必要がある。その結果、ドラマが起これば、居場所に<いのち>が創発し、それが、各自の<活き>を引き出すという与贈循環が起こる。これは、私たちのコミュニティに生じているものそのものだと思う。

inochi

この2種類の自己組織を、深尾氏のモデルと結び付けてみると、興味深い結論が得られた。

魂に蓋がされた状態で、集団内を「憑依」のメカニズムによって感情パターンが共有されると、まさに、ボーズ粒子的な集団が生まれる。

このような集団に外部から欲や怖れによって外発的動機づけを行うと、集団には秩序だった動きが生まれ、レーザーや対流のような散逸構造的な自己組織化が起こるのではないか。

このメカニズムは、大衆を戦争などに誘導したりするときに利用されている可能性がある。

一方で、魂が呼吸できる状態の人たちが集まり、魂と繋がった行動を居場所に投じていくと、魂と場が共振共鳴し、居場所の<いのち>が創発するのではないか。

そして、そのような共振共鳴の場は、癒しの空間となり、そこに参加する人たちすべての魂が活力を取り戻すのではないかと思う。

jiko

多く人の言語化の努力のおかげで、自分の進む方向がだいぶ明確になってきた。

また、このレビューでは触れられなかったが、311後に福島で起こったことについて、この本には、これまでに読んだどの本よりも納得のいく説明が書いてあった。5年間、自分が感じていることと、流れてくる情報との乖離の大きさに孤独感を感じて苦しんだ私にとって、この本は大きな癒しになった。

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