生き物は、生まれた瞬間から学び始める。

学ぶことは、生きることと不可分なのだ。

外から情報を取り入れ、自分の中で統合し、身体知へと変えていくことで、外部を内部に取り込んでいく。

このときに大事なのは、入ってきた情報に対してフィードバックループを回し、自分で取捨選択して統合していくというプロセスだ。

何かしらの理由でフィードバックループが切断され、統合化のプロセスが回らないと、魂は呪縛される危険にさらされる。

人間も自然の一部であるのにも関わらず、デカルトは人間の理性を自然と切り離し、理性によって切り離した記述空間を作り出した。

その自然と分断された空間の中で科学は誕生し、科学は機械文明を生み出した。

機械文明における規範は、すべてが予定通りに動くことである。不確定要素は排除すべきものであり、予定通りに動かない部品は不良品である。

自然は、人間の居住空間から追い出され、コンクリートで固められた都市空間が誕生した。ここでは、すべてが予定通りに動くのだ。

追い出されたのは、外部の自然だけではない。

人間の内部に存在する自然も、不確定要素を生み出すものとして排除されてきた。

社会秩序を構築するために、人間は内なる自然から沸き上がってくる感情を抑え、社会における役割を正確にこなしていくことを求められるようになってきたのだ。

このような機械文明的な社会秩序を構築するために、学校教育が利用されてきた。

一方的に大量の情報を流し込み、各自が自分の中でフィードバックループを回して統合する時間を与えないようにすると、子どもたちの魂は呪縛されていき、魂の上に蓋を創り、蓋の上に機械文明への適応のためのインターフェースを構築する。

このようにして、機械文明を支える人間が大量生産される。

機械文明がもたらした恩恵もある。機械文明が生まれなければ、私は、日本のどこかの田舎で、農業をして一生を送る以外の選択肢を持つことができなかっただろう。このようにインターネットによって様々な情報にアクセスし、ブログに記事を書いて多くの人たちに発信することができるのは、まさに機械文明のおかげだ。

しかし、だからといって機械文明のもたらした闇を肯定することにはならない。

きちんとフィードバックループを回し、主体的に機械文明の中で取り入れる部分を残し、捨てるべき部分を捨てる判断をしていくことが重要なのだと思う。
 
機械文明は、自然のすべてを記述空間の中に写し取り、思い通りに管理できるはずだという証明されていない前提に基づいて突き進んできた。
 
しかし、1970年に見つかった「カオス」により、非線形システムの挙動は予想不可能であることが記述空間の内部で証明された。生命は、まさに非線形システムであり、その振る舞いを予想し、制御することは原理的に不可能なのだ。
 
「自然を完全にコントロールする」という機械文明の思い描いた夢は、すでに実現不可能であることが確定しているのだ。

現在、機械文明がもたらしている深刻な問題は、2つの自然破壊だと思う。

1つ目の自然は地球だ。自然を克服するという旗を掲げて突き進んできた機械文明は、毎年、地球の生産量の1.5倍を消費するようになるまで膨張してしまった。自分の乗っている宇宙船地球号を食いつぶしていった先には、当然ながら未来は存在しない。

もう1つの自然は人間の魂だ。蓋によって封じ込められた魂は、暴力的に発露する。それは、自分自身に対する暴力(=病気や自殺)という形を取ったり、他人に対する暴力(=ハラスメント、差別、戦争)といったものが起こりやすくなる状況を生み出す。

この状況をどのように変えていけば良いのだろうか?

一番最初に戻って考えてみよう。

機械文明は、デカルトが内なる自然である魂と外部世界とを切断し、分断を生み出したことから始まった。

デカルトは、『方法序説』において、複雑な現象を理解するために、十分に簡単だと思われる要素に分割して理解した後、それらを総合して全体を理解する分析と総合の手法の有効性を説いた。

これは、機械論を支える要素還元主義を生み出した。

しかし、自然は、分析と総合の手法によって理解できない存在だ。

魚を切り分けてしまったら、「生きた魚」という存在は失われてしまう。

非線形システムは、要素の集合体以上の全体性を持っていて、その全体性は分割によって失われてしまうのだ。

今、私たちがやらなくてはならないのは、分断されてしまった世界を統合していくことだと思う。

まずは、人間の魂と外部社会とを隔てる蓋を溶かし、人間の内部に生まれている分断を統合するところから始めよう。

それが、生きるためのx、自分と繋がるyという学びを立ち上げようと思った理由だ。

xやyには、各自が好きなものを入れて、好き勝手に初めて欲しい。
 
まずは自分が先頭を切り、xに物理を代入し、「生きるための物理」をやってみる。

9月18日に、そのコンセプトについて語る予定だ。

「生きるための物理」とは何か

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