自由に生きるということは、どういうことだろう?

この問いは、私が中学生の頃から、ずっと持ち続けているものです。

例えば、毎日、好きなことをやって、好きな場所に旅行に行って、好きなものを食べて・・・というのが自由なのでしょうか?

世間では、このように、「誰からも強制されないで、好きなように行動できる」という状態を「自由」と呼んでいると思いますし、私も、かつては、このような「自由」を追い求めていたころがありましたが、あるとき、気がつきました。

強制されることが当たり前になっているから、「誰からも強制されないどこか=理想郷」に逃れることが自由だと感じてしまう。

というメカニズム。

そして、理想郷に行くための道として、社会には、なんとなく、次の2つが用意されている気がします。

(1)偉くなって、強制する側に回れば、強制されなくなって自由になれる。

(2)お金を稼げば、強制されて我慢して働く必要がなくなって自由になれる。

このようにして、「自由」を得るために、強制されることを我慢して受け入れる仕組みというのが、私たちの社会にはできあがっているように思います。

しかし、そもそも、強制されることが当たり前になっているということが異常です。そういう空間は、いわゆる「パワハラ空間」です。

(1)と(2)は、パワハラ空間を前提として、パワハラ空間内部で定義される自由なので、「パワハラ空間内の自由」と呼ぶことにします。

ここでは、パワハラ空間において定義されている言葉や論理から抜け出して、改めて、自由とは何かを考えてみたいと思います。

順応型パラダイムにおける「大人になること」

『ティール組織』では、組織の発達段階を、次のように分類しています。

(1)無色

血縁関係中心の小集団。10数人程度。自分と他人、自分と環境といった区別がない。

(2)神秘的(マゼンダ)

数百人の人々で構成される種族へ拡大。自己と他者の区別が始まるが世界の中心は自分。物事の因果関係への理解が不十分で神秘的

(3)衝動型(レッド)

組織生活の最初の形態、数百人から数万人の規模へ。力、恐怖による支配。マフィア、ギャングなど。自他の区分、単純な因果関係の理解により分業が成立。

(4)順応型(アンバー)

部族社会から農業、国家、文明、官僚制の時代へ。時間の流れによる因果関係を理解。計画が可能に。規則、規律、規範による階層構造の誕生。教会や軍隊。

(5)達成型(オレンジ)

科学的、イノベーション、起業家精神の時代へ。「命令と統制」から「予測と統制」。実力主義の誕生。効率的で複雑な階層組織。多国籍企業。

(6)多元型(グリーン)

物質主義の反動としてのコミュニティ型組織の時代へ。平等と多様性を重視、ボトムアップの意志決定。文化重視の組織。多数のステークホルダー。CSR。

(7)進化型(ティール)

変化の激しい時代における生命型組織の時代へ。自主経営(セルフ・マネジメント)、全体性(ホールネス)、存在目的を重視する独自の慣行。

社会や組織のパラダイムは、システムと、それを内面化した人々のマインドセットによって支えられています。現在の日本は、順応型(アンバー)に重心があり、順応型パラダイムに適応するように教育システムが設計され、順応型で定められた指標によって序列化されて選抜されたエリート層が達成型(オレンジ)へ進んだり、そのアンチテーゼである多元型(グリーン)に進んだりしているのではないかと思います。

教育システムが順応型(アンバー)に重心があるため、人々のマインドセットの重心が順応型になっているというのが、日本の現状ではないかと思います。

順応型(アンバー)の特徴は、社会的な仮面をかぶることで、秩序形成を行うというところです。『ティール組織』には、以下のように書かれています。

社会的な安定は、仮面をつけ、個人的な性格や欲望や感情から自己を切り離し、社会に受け入れられる自己を獲得することで達成されるのだ。

順応型(アンバー)パラダイムを支える学校は、順応型のやり方で社会的な安定をもたらすための装置です。そこでは、子どもに仮面をかぶせ、子どもが持つ多様な性格や、欲望や、感情を抑圧して切り離していくことで、社会に役立つ役割を果たせる「人材」を育成してきました。(もちろん、多くの例外はありますが、全体としては、このような言い方が可能だと思います。)

そこで、具体的に、どのようなやり方で、「仮面をかぶせる」ことがなされるかというのは、次のブログ記事で書いたので、そちらをご覧ください。

フォアグラ型教育から対話型教育へのシフト

順応型(アンバー)では、思考フレームの規格化をするのが特徴です。同じ思考フレームを持っている人たちだからこそ、コミュニケーションが円滑に進み、命令がトップダウンでスムーズに行き渡ります。組織のメンバーは、与えられた役割を忠実にこなすことで、安定収入を得ます。そして、それと引き換えに、仮面をかぶることを受け入れるのです。

順応型(アンバー)パラダイムは、仮面をかぶることが強制されているという意味で、本質的にパワハラ的な側面を持ちます。だから、それを内面化してしまうと、最初に書いた「パワハラ空間内の自由」を追い求めることになります。その「自由」を追い求めることは、現状のパワハラ的な状態を受け入れることであり、その「自由」を達成することは、「パワハラ空間内の自由」のロールモデルとして、パワハラ空間の維持に貢献することになります。

学習回路が固定化されると、外部をコントロールしたくなる

順応型(アンバー)では、メンバーの思考フレームを固定します。これは、言い換えれば、入力と出力の関係を固定化し、反応速度を上げるように訓練していくということです。

このような訓練をされた結果、

・その場で求められていることを、しなくてはいけない気持ちになる。

・その場で求められていることを、適切にできればできるほど、優れていると感じる。

・その場で求められていることを、適切にできなければ、その場に参加する資格がないと感じる。

というような反応が起こりやすくなります。

その場で求められていること(入力)に対して、適切な行動(出力)をするという訓練がされたことで、そのような反応が起こるのです。

訓練の過程で強制されたことで、抑圧者の視点を内面化すると、その場で行動を監視して強制している人がいなくても、自分が取り入れた抑圧者の視点から、自分で自分に強制してしまうので、行動の自由が制限されます。心の中には、

誰かが自分に役割を期待している場では、その役割を適切にこなさなければならない

という思いがよぎり、不自由さが募ってくるのです。その不自由さから逃れるためには、

・様々な役割をこなすために、複数のキャラクターを自分の中に用意して使い分け、片っ端から適切にこなす。

・自分がやりやすい役割が割り振られるように、「自分はこんな人アピール」をして、印象を操作する。

・自分の無能ぶりを示して、役割が与えられないようにする。

というように、役割に適応する術を複雑化して適応力を高めたり、相手の印象を操作することによって、入力側を操作したりするようになります。これらは、かつて、不自由さを感じていた自分自身に覚えがあるものです。

学習回路の柔軟性を取り戻す

強制によって、いのちが抑え込まれると、思考といのちとがずれてきて、自己不一致を起こしてきます。

自分を十全に生きられていないことから、イライラして怒りっぽくなったり、悲しくなったり、絶望感が生まれたり、といったサインが現れてきます。

それらの感情は、その場で何かを求められること(入力)をきっかけにして引き起こされるので、原因が入力にあるように感じられます。入力と出力の間の関係は固定的であるという常識の中で生きてきたからです。

自分にとって不快な感情を引き起こされる入力が起こるたびに、原因は、入力のせいになり、それを止めるために労力を使うことになります。

しかし、私たちの学習回路は、本来は、とても大きな柔軟性を持っています。

いったんスローダウンして、自分自身の入力ー出力のパターンを見直し、入力された情報に対して、生まれた反応を手がかりにして、自分が満たしたかった願い(ニーズ)を確認したうえで、どのような意味づけをし、どのように行動するのかを改めて選択することができます。その柔軟性こそが、創造的な自由です。

私たちの自由は、入力と出力とを結びつけ方の柔軟性の中にあるのです。

閉じた空間で、一方的に知識を流し込み、同じ入力に対して、同じ出力(正解)を素早く出すトレーニングをすると思考の規格化が進みます。

一方で、開かれた空間で、常に多様な考えが外から入ってくるようにし、同じ入力に対して、様々な考え方があることに触れると、学習回路が柔軟性を持つようになります。ひとたび自己不一致の状態になっても、多様な考えをヒントにしながら、自分の内側を観察し、自己一致の状態へと戻っていきやすくなります。

自己一致とは、自分のいのちの求めるものと思考や行動とが一致している状態です。

仮面をかぶっているときは、自分のいのちの求めるものに耳を傾けにくいです。耳を傾けて、その声を聴いても、矛盾が大きくなるだけだと思うからです。しかし、いったん耳を傾けはじめると、その場で求められている役割をサーチする代わりに、自分のいのちが求めるものが何か気づけるようになってきます。自分のいのちの求めるものは何かに耳を傾けることで、自分自身を生きるためのよりどころが生まれるのです。

外部から情報を受け取っても、自分自身に行動のオーナーシップがあると感じられると、多様な選択を自分が創り出していけるのだという自信が生まれ、安心感を感じます。

そうすると、他の人の印象操作をする必要がなくなり、流動的な自分の内なる声を聴いて、この瞬間に訪れる洞察に意識を向け、自分らしい選択をしようと考えるようになります。

その感覚があると、権力の座につかなくても、大金をつかまなくても、取り入れてしまった抑圧者の視点を追い出し、自分の学習回路を柔軟にすることで、自由を得ることができるのだと気づきます。

自分のいのちの流動性を感じながら、この流動性を大切にすることが自由なのだと気づくのです。

単純な、入力ー出力関係に陥らない柔軟な環境応答能力こそが、いのちが持つ性質なのです。

私たちの内発のエネルギーは、「その場に自分が存在する意味」から生まれます。

役割を演じている自分が行った行動は、本当の自分ではないので、その行動の結果、何かがうまくいっても、それを自分は受け取れないのです。むしろ、役割を演じ続けなくてはならないと感じられて、苦しくなる場合もあります。

しかし、自分のいのちの流動性を感じながら、創造的な自由を発揮して行動するようになると、自分でもよく分からないまま行動するようになります。しかし、その行動が引き起こす物語は、間違いなく、本当の自分が引き起こしたものです。本当の自分が引き起こした出来事が、周りとの関係性の中で意味づけられると、それは、自分が生きる意味になります。そのダイナミクスから、生きがいが生まれてくるのです。

私は、コミュニケーションを対話的にしていくことに、世界を変える力があると信じています。

対話を通して創造的な自由が生まれ、対話を通した関係性から、自分がその場に存在する意味、生きがいが生まれてくるからです。

内側に創造的な自由を生み出した人は、パワハラ空間を無力化し、外側に創造的な自由を出現させていくでしょう。システムとマインドセットによって支えられているパラダイムが、マインドセットの変容によってシフトしていく道が、ここから始まるのではないでしょうか。

 

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