「反転授業 動画一本の革命」~オセロをひっくり返していく

 

「農業生物学者から教わったこと」という連載を書いているうちに、反転授業と自然農法とのアナロジーに気づいた。

 

周りの自然環境から切り離した人工的な環境を作って、生き物である植物の環境応答能力を制限し、大量生産のプロダクトとしての「農作物」を作っていく20世紀型の農業のアンチテーゼとして、植物の生きていく力を信じて、それを最大限に引き出すことを目指す自然農法。

 

教室を周りの世界から隔離し、生き物である生徒の自由に伸びていく力を制限し、我慢強さと従順さを備えてテキパキと働く均質な労働者を作り出していく20世紀型の教育のアンチテーゼとして、生徒の生きていく力を信じて、それを最大限に引き出していくことを目指す反転授業。

 

これらは、きれいに対応する。

 

そんなことを考えているうちに、自然農法家、福岡正信さんの『わら1本の革命』のことを思い出した。

福岡さんは、農薬を使わず、肥料も使わず、耕すこともせず、何十種類もの種を混ぜ込んだ粘土団子を撒く独特の自然農法を実践した方だ。そのやり方は、荒れ地を緑化していく方法にも利用され、海外から高く評価されている。

福岡さんの自然農法には、「植える」という考えはない。たくさんの種の中から、そのとき、その環境に適したものが発芽していくと考えるのだ。人間が考えるのではなく、自然の営みに任せる。ただし、自然の営みがよりよく促進されるように粘土団子を撒いていく。

管理でなく、放置でなく、支援をしていくのだ。

 

福岡さんは、次のように述べる。

健全な作物を作れば、人間が農薬を使わねばならないほどの病気や害虫は発生しない。耕作法や施肥の不自然から病体作物ができ、自然がバランスを取り戻すための病害虫が発生し、消毒剤が必要になる。

肥料も農薬も機械も、わざわざ人間がそれらを必要とする条件を作ってきた。余計なことをするから、さらにしなければならないことが増えて、雪だるま式に膨れ上がったのが近代農業であり、近代化の全てである。何もせんのが一番いい。
「自然」というのは、余計なことをしないこと。だから、自然農業や自然食というのは、最低の労力と費用でできるはずだ。

 

福岡さんの本には、5年ほど前に出会った。行きつけのインドカレー屋の本棚にあるのを見つけ、それから、手に入る限りの福岡さんの本を読んだ。

そのときは、「ふーん、そんなものか」と思い、自分でも何かやってみたいということで、ホームセンターにある一番大きなコンポストを買い、公園や草むらから手当たり次第に種を取ってきてコンポストに撒いたりしていた。

そのときはよく分からなかったことが、「農業生物学者から教わったこと」の連載を経て、もう一度読み直すと、すっと頭に入ってくる。明峯さんが、理解の橋渡しをしてくれたようだ。

 

5年前に福岡さんの本を読んだときは、「文明以前に戻れ」という主張として理解していた。しかし、もう一度、読み直すと、違う印象を受けた。福岡さんは、「放任」と「自然」とを明確に区別している。

 

終戦後に一度ミカン山へ入って、自然農法を標榜したときに、私(福岡正信)は無剪定ということをやって、放任した。私ははじめ、「放任」ということと、「自然」ということを、ごっちゃにしていたんですね。ところが、枝は混乱する、病虫害にはやられるで、70アールばかりのミカン山を無茶苦茶にしてしまった。私は、その時から、自然型とは何ぞや、ということが、常に問題として頭にあって、これだということを確信するまでに、永い間模索してきました。そして、やっと自然型とは、これだな、という確信を持てるようになった。

自然型というものを作るようになってくると、病虫害の防除も必要なくなって、農薬がいらなくなった。剪定というような技術も必要なくなった。自然というものがわかれば、人間の知恵なんて必要ないんです。(p21)

 

福岡さんの言う「自然」とは、何なのだろうか?

僕なりの言い方で言うと、「個が生き物らしさを発揮して、自己組織化が起こるような状況」なのではないかと思う。

 

地球上に「手つかずの自然」など既に存在しない。

様々に手を入れられて、バランスが大きく崩れた状況の中で「放任」すると、生き物は、生き物らしさを正しく発揮することができずに混乱する。不自然なものに取り囲まれた中で放置しても「自然」にはならないのである。

 

だから、福岡さんは、植物が「自然」な状態を取り戻せるように介入していく。何が「自然」なのかを模索した結果、生き物が環境応答能力を最大限発揮できる状態、生き物としての力を最大限発揮できる状態というものを把握できるようになったのではないだろうか。彼は、それを「自然型」という言葉で表しているように思う。

「自然型」の植物たちは、活発にコミュニケーションを取りながら、ホメオスタシスが強く効く生態系を自己組織化していく。そして、そのような生態系が出来上がってしまえば、人間が介入しなくても、植物たちだけで立派にやっていけるようになる。

福岡さんの知恵は、不自然な環境の中で、植物たちが本来の環境応答能力を取り戻し、自律的に生態系を自己組織化させるための条件を理解し、環境を整え、その動きを支援していくところに使われている。

不自然な環境を前提とし、その中で、植物たちに「自然な生き方」をさせるためにどうしたらよいかと考えたからこそ、粘土団子を撒くという考えが生まれたのだ。

 

 

僕は、福岡正信さんと教育工学者のスガタ・ミトラ氏との間に、共通点を見出す。

スガタ・ミトラ氏は、「子どもたちは、自分たちで学ぶ力を持った存在である」という学習者像に基づき、その本来の力が発揮できる条件を探す。

彼を一躍有名にしたのは、スラム街の壁にインターネットに接続されたPCを埋め込み放置する「壁の穴プロジェクト」

このプロジェクトは、テクノロジーが子どもたちの好奇心を刺激し、自分たちで使い方を発見し、仲間同士で教えあってどんどん学んでいくことができるという可能性を示した。

 

彼は、この考えをさらに進め、インターネットに接続されたPCがある小さな部屋を用意し、そこにイギリス人のおばあちゃんボランティアをスカイプで繋いだ学習環境を作った。SOLE(Sefl Organized Learning Environment)と呼ばれるこの学習環境は、子どもたちが本来持っている学習能力を呼び起こすためのものだ。

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スガタミトラ氏は、学校の起源を「大英帝国を動かす部品としての人間を作り出すためのもの」だと語る。巨大なヒエラルキー構造を維持するために必要な知識を広めるために巨額な資金が投入されている。

しかし、それらは、本来、必要なものなのだろうか?

人間には、もともと好奇心によって自ら学んでいく力が備わっている。人工的な社会という不自然な環境の中で放置されると、自ら学んでいく力は必ずしも発揮されないが、注意深く作られた学習環境と少しの支援があれば、子どもは備わった力を発揮し、「自然型」として伸びていく。

福岡正信さんが、自分の考えの正しさを証明するために自然農法を始めたように、スガタミトラ氏は、適切な環境と支援があれば、人間が自己成長できることを示すためにSOLEを作っている。

 

教師は2つの役割を果たすことを求められている。

 

1つは、現存するシステムを維持するための人材を育てること。

もう1つは、生徒に生きていく力をつけること。

 

しかし、今の日本社会では、これらは、相反する概念なのではないだろうか。

ヒエラルキー構造の中では、トップダウンに命令が伝わっていく。その中に適応できるのは、無批判に命令を受け取り、素早く処理することができる人材である。また、ストレスが多い環境でも不平を言わずに我慢し、規則正しく行動する人材である。教師は、巨大な管理システムと生徒との接点に位置し、社会システムの価値観を生徒に押し付け、生徒を管理することを求められる。

だが、ヒエラルキー構造への従属は、もはや、その人の生活の安定を保証しない。21世紀型の社会構造へ世界が構造変化する中で、ヒエラルキー構造へ忠誠を誓っても報酬は得られなくなっている。ヒエラルキー構造への適応は、生きていく知恵どころか、自分で考えて道を切り開いていく力を弱め、生きていく力を弱めていくことになる。

 

一方で、生徒の自主的な学びを支援する教師もいる。生徒が有能な学習者であることを信じ、それらが発揮される環境を整えていく。上から降りてくるプレッシャーを受け止め、管理の連鎖を断ち切って、生徒の自主性を育んでいく。生徒たちは、自分たちで枝を伸ばして学習コミュニティという生態系を作っていく。

 

前者の役割を果たしていた教師が、後者の役割を果たすように変わっていったら、どんなことが起こるだろうか?

ヒエラルキー構造の特徴は、少数の人間が多くの権限を持っていること。言い換えれば、頂点よりも末端のほうが人数が多いということだ。

最前線にいる教師の人数が、教育行政を取り仕切っている人たちよりも圧倒的に多い。

その教師たちの間にシンクロが起こり、マインドセットが代わり、オセロが黒から白に次々にひっくり返っていったら、どんなことを起こるだろうか?

また、社会システムの中で「上」へ行くために子供を駆り立てていた親が、子どもが生命力を発揮できるように支援するように変わっていったら、どんなことが起こるだろうか?

 

僕は、人間は変わることができると思っている。

実際、僕のマインドセットも、この数年間で大きく変化した。

僕が、長年やってきたことは予備校講師である。

ヒエラルキー構造を維持するための受験システムを、下から支える受験産業の中で働いてきた。

つまり、教師の2つの役割のうち、前者の役割をおもいっきり果たしてきた。

しかし、この数年間で、マインドセットが変化し、後者の役割を強く意識するようになった。

そのきっかけとなったのは、「動画」を作ったことだ。

動画を作ったときに、自分が今までやってきたことの多くは、動画で置き換えることが可能だということに気づいたのだ。

そして、動画では置き換えられない人間らしい活動とは何かということを考え始めたのだ。

その結果、反転授業に興味が湧き、主体的な学びが起こるための条件や環境について学ぶための学習コミュニティを作ることになった。

 

これは、サルマン・カーン氏に起こったことと同じことだ。

動画を作ったことで、彼は、学校教育の多くの部分を動画によって置き換えることが可能であることに気づいたのだ。そして、彼は、カーン・アカデミーという誰もがマイペースで自学自習できるシステムを作った。彼は、それによって、教師が、「教えること」から解放されて、生徒が自分で学ぶことを支援する役割を果たすようになると考えている。彼も、オセロを黒から白へとひっくり返そうとしているのだ。

 

 

また、子どもに動画を見せたことも大きな転機になった。

子どもが自分で学べるように、親がYoutubeなどで動画を子どものために動画を探してきて、学習環境を整えてやれば、仕事をしながらでも子どもの学習を支援することが可能だということに気がついた。

子どもは、動画を使って学ぶ環境と、適切な見守りがあれば、自分でどんどん学んでいくことができるのだ。

学校任せにせずに、親が自分の子どもと一緒に学んでいくことができるという気づきは、育児に対する考えを劇的に変えた。

 

動画を学びに利用することは、意識を変革するきっかけになる。

教師が動画を1本でいいから作ってみる。

親が子どものために動画を1本でいいから探してみる。

これが、意識変革のトリガーになる。

 

福岡正信さんが、『わら1本の革命』に込めた思いを、僕は『動画1本の革命』という言葉に込めたい。

 

福島さんやスガタミトラ氏が、自分の考えを実証するために自然農法の農園を作り、SOLEを作ったように、僕は、サイバースペース上の生態系であるKnowCloudを作る。

 

不自然な世界に生きる僕たちは、単に放置しても、僕たちの中の内なる「自然」は呼び起こされない。

僕たち、そして、子どもたちの「自然」が呼び起こされる条件を見つけ、テクノロジーを使って低コストでその条件を満たす仕組みを作っていく。

かつての自然には戻れないが、らせんを描いて異なる「自然」へと進んでいくことはできるだろう。

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