世界は、自分たちの意識が生み出したもの
『二子渉&由佐美加子しゃべくり対談』のワークショップ動画を視聴した。「世界」「社会」「怖れ」「秩序」「調和」などについて、自分が考えていることとシンクロする部分が多く、また、考えてこなかったことを数多く補填してもらい、思考を先へ進めることができた。
二人のお話をうかがったことをきかっけに、自分がこのテーマについて考えてきたことを整理してみた。
物理学科では、優秀な学生は素粒子理論や宇宙論を目指す傾向がある。
物理学科に進む学生は、「より根源的なもの」を好むことが多いため、物質を分割していった極地である素粒子や、世界全体を含む宇宙というものが「根源的なもの」であるように感じるからだろう。
僕も、物理学を学んだものの一人として素粒子論や宇宙論に一通りの興味はあったが、あるとき、物理学というものは、人間が世界を理解するために作り出したフレームの1つだということに気がついた。
客観的な世界の中に自分が存在しているというのは幻想で、社会から受け取った情報をもとに自分が創りだした世界観の中に自分は住んでいるのではないかと思った。
そのように考えたら、素粒子論や宇宙論よりも、自己というものを生み出すメカニズムのほうが、より根源的なものに思えてきた。
カオス理論、複雑系、非線形振動、散逸構造、カオスの縁、生物進化、形態形成、自己組織化・・・・。
闇雲に関係ありそうなものを勉強しているうちに、「個」というものがどのようにして形成されるのかというところから切り込んでいくのがよさそうな気がしてきた。
ライフサイクルの中で単細胞アメーバと多細胞体との2つの状態を取る細胞性粘菌は、「個」の形成を考えるためのプロトタイプとしてぴったりの対象だった。
アメーバ―がcAMPというシグナル伝達物質を分泌しながら、お互いにコミュニケーションを取りあって集合し、移動体と呼ばれる多細胞体になるときに、どのようにしてアメーバとしての「個」は消え去り、どのようにして移動体としての「個」は生まれるのか。
「個」が自律的であるというのは、どのような条件によって決まるのか。
そこに、個人とチーム、個人と社会との関係を理解するヒントがあるのではないかと思ったのだ。
2種類のシンクロ
細胞性粘菌のアメーバは、cAMPというシグナル伝達物質でコミュニケーションを取る。cAMPを受け取ったアメーバ―は、cAMPを分泌するという仕組みがある。また、アメーバは、cAMPの濃度が高いほうへ移動するという走化性という性質を持っている。
僕が研究していた20年前は、アメーバ細胞の集合は、次のように説明されていた。
アメーバ細胞の性質にばらつきがあり、自律的に振動しながらcAMPを出すものと、自律的にはcAMPを出さないが、cAMPを受け取ったら出す興奮性を示すものとがあり、自律的にcAMPを出すアメーバからcAMP波が広がっていき、その周りにアメーバが集合してくる。
僕は、この説明に大きな違和感を感じた。その理由は2つあった。
1つ目は、なぜ2種類の細胞が生まれるのかという説明がされていないことだ。
生物の発生の不思議は、すべてが同じDNAを持つ細胞なのにも関わらず、相互作用により分化が起こり、機能が生まれるということだ。これは、全体が一様であるという状態が不安定化して、システム全体に対称性の破れが起こり、分化した状態へ「解が分岐する」と考えるTuringの説明がしっくりくる。
自律振動するアメーバと、興奮性を示すアメーバとが現れるのは、アメーバの違いが原因ではなく、システム全体の安定性の問題なのではないか。
仮にすべてのアメーバが全く同じものだとしても、相互作用によって均一な状態が破れ、2種類のアメーバが出てくるのではないか。
そのように考えた。
2つ目は、自然は、そんな風になっているわけないという感情的な反発がもとになっていた。
アメーバ細胞のcAMPの分泌のリズムは、だんだんシンクロ(synchronize)していき、全体で1つの大きな時空間パターンを作り出す。
シンクロには、強制引き込みと相互引き込みの2種類がある。
強制引き込みとは、振動のリズムが固定されて変化しないものがあり、そこに他のものの振動が引き込まれて同調していくもの。
相互引き込みとは、お互いにリズムを変化させて同調するもの。
細胞性粘菌を人間社会のメタファーとして捉えていた僕は、強制引き込みによって他のアメーバを同調させていくものの見方が、プロパガンダによって国民を洗脳していくものと同じようなものに見えたのだ。
調べてみると、僕と同じような違和感を感じた女性研究者が過去にいて、彼女は、その後、社会学へ移り、フェミニズム運動へ身を投じていた。
自然界の原理はプロパガンダではなく、ボトムアップの自己組織化であるはずだという信念が、研究を進めていくモチベーションになった。
一人じゃ振動できなくても、集まれば振動できるようになる
もし、すべてのアメーバが同じであるのにも関わらず、自律振動するものとしないものとが現れるとしたら、それは、何の違いだろうか。
それを決めているのは、「場」に関する量なのではないかと考えた。
そこで、アメーバ細胞の密度を変えて、自律振動が起こるのかどうかを調べていった。
その結果、アメーバ細胞を非線形振動子でモデル化したものを等間隔に並べ、その間隔を少しずつ狭めていくと、あるところを境にして細胞集団が同時に振動し始め、さらに間隔を狭めていくと、振動数が大きくなっていくことを発見した。
アメーバ細胞1つでは自律振動できなくても、複数集まれば振動できるようになり、さらにたくさん集まれば振動数が大きくなり、周りを引き込んでいく能力が増していくのだ。
この段階では仮説だったが、それから10年以上経った後、研究室の後輩だった澤井哲さんが、実験によってこの見方の正しさを実証してくれた。
澤井さんが実証したように、自然界には、周りを強制的に同調させていくような権威者は存在しない。
お互いにシンクロしながら、相互に調整し合い、一人じゃできないことを協力して生み出しているのだ。
「個」の自律性を定義する試み
学生時代に読んだ論文の中で、印象に残っているものがある。
当時、東北大の教授だった澤田康次さんの書いたもので、
A scaling theory of living state
というタイトルだった。
澤田さんは、多細胞生物であるヒドラを遠心分離器にかけて細胞レベルにまでバラバラにし、そこから多細胞体であるヒドラが再生していく様子を観察するという実験をしていた。その問題意識は、僕が細胞性粘菌に対して抱いているものと同じだったため、論文をむさぼるように読んだ記憶がある。
この論文で面白かったのは、この自律性を定義しようとしていたところだ。
詳細は忘れたが、
A=個が内部で生成する情報量
B=個が外部から受け取る情報量
F=個の自律性の度合い
としたときに、
F=A-B
というようなもので定義していたように思う。
この定義から、外部から受け取る情報に従うだけで、自分で情報を生み出していかなければ、自分の自律性はどんどん低くなり、社会システムの部品として機械のように動くだけになってしまうというイメージを受け取って、納得した記憶がある。
視点を変えて、他の人を支配したい場合、どのようにしたらよいのだろうか?
Aを減らして、Bを大きくすればいいことになる。
子どもが自分で考えることを抑制し、大量の情報を与えて暗記させたり、大量の娯楽を与えて消費させたりすればよいことになる。
社会階層の上を目指して競争させたり、社会へ適応できないと生きていけないと脅したりして勉強させ、不自然な行動から生まれるストレスを娯楽の消費で発散させると、自律性が抑えられた個が大量に生み出される。
そこに取り込まれないようにするためには、プロパガンダ的な情報から距離を取りつつ、信頼できるネットワークでのやり取りを通して集合知へアクセスし、自分の意識のキャパシティを大きくして、情報生成力を高めていくことが大事なのではないだろうか。
「私たちの社会」は自己組織化する
僕が生まれたときには、すでに強力な社会システムが出来上がっていて、そこから「常識」を叩きこまれてきた。
エントリーした覚えのないレースにいつの間にか参加していて、「勝った喜び」とか「負けた悔しさ」に一喜一憂しているうちに、自分の生き物としての根っこの部分から遠ざかり、孤立感を感じるようになり、ストレスで咳き込むようになっていった。
でも、この社会システムは人間が作り上げた人工的なものであり、自然の摂理とは異なるものだ。
自然は、もっと相互作用的なものであり、お互いに影響を及ぼしあいながら、創造していくものだ。
自然の内部にいる僕たちは、全体像を見渡すことはできないが、身の回りに起こる小さなゆらぎである「いい感じ」を応援して増幅していくと、その動きが大きくなっていく。
自分の想いを大量に発信していくと、その言葉のいくつかが広がっていく。
自分が共鳴した他の人の言葉が、自分の中に取り込まれ、他の言葉と組み合わさって再び発信されていく。
その中で、「パワフルな表現」が場の中に生まれてきて、それが多くの人たちを引き込むようになり、想いがシンクロしていく。
これは、相互引き込みの世界だ。
シンクロのうねりは、どんどん大きくなり、共通のビジョンを生み出し、ボトムアップのプロセスで「私たちの社会」を作っていく。
「私たちの社会」は、私たちの想いと連動して変化し、必要に応じて生成と消滅を繰り返す。
社会に適応して、社会を維持するために私たちがいるのではない。
私たちの主体的な動きから、「私たちの社会」が自己組織化するのだ。



