今までのように、やるべきことが決まっていて、特定の刺激に対して、特定の行動をするように強化していく訓練の場では、教師ー生徒、上司ー部下のような縦の二項関係が効果的です。
このような縦の二項関係は、グーとパーしかないジャンケンのようなものです。
このような状況では、指示をする側と、指示をされる側とが固定され、いつしかその環境に双方が適合し、役割にはまっていきやすくなります。
社会状況が複雑化、流動化して、分かりやすい正解が見いだせない現在、主体的な学び、自律的な行動が求められています。
もし、学習者が主体的に学ぶことを願ったり、部下が自分で考えて自律的に動くことを願ったりするならば、縦の力を弱めて、相互に学びあう横の力を強めていく必要があるでしょう。
そのためには、縦の力が働いている環境の下で身につけたパターンに両者が気づき、それを手放していく必要があります。
その気づきが起こりやすくなるための仕掛けが、「媒介としての第3者」の存在です。
グーとパーしかなかったジャンケンに、「媒介としての第3者」としてチョキが加わることで、関係性が流動的になるのです。
一方的に情報が流れる「縦の関係」は、相手からのフィードバックループがないので振り返りによる経験学習が起こりにくくなりますが、「媒介としての第3者」の存在によってフィードバックループができるので、両者に経験学習が起こりやすくなり、内省を通した学びと気づきが生まれやすくなります。
フィードバックループが生まれ、両者が振り返りによって気づきを深めていくことで、固定化されていた役割が緩み、主体的な行動が生まれやすい環境が整っていきます。
筒井洋一さんが、京都精華大学時代に行ったグループワーク概論では、CT(Creative Team)と呼ばれるボランティアが教員の代わりに前に立って授業を行い、教員ーCT-学生ー見学者が、授業後に振り返りを行うという形をとっていました。
その様子は、筒井洋一さんらの著書
の中で解説されています。
グループワークは、学生の主体的な学びによって成り立ちますが、多くの学生は、これまで育ってくる中で「受動的な学びの態度」を身につけていることが多いです。
その枠組みをゆらがしていくのがCTの存在です。
学生と年齢のあまり変わらない若いCTが、目の前で、失敗を繰り返しながら授業創りを行い、学生や見学者、教員からのフィードバックを受けて学び、成長していく様子に触発されて、学生の主体的な活動が引き出されていき、学生もまた、CTや見学者、教員からのフィードバックを受けて学ぶようになっていきます。
グループワーク概論では、CTという媒介者、さらには、見学者も媒介者となり、複雑な関係性が教室内に生まれて、学生は適合すべき枠がないことに戸惑いながらも、主体的に動き始めることを促されていく仕組みになっています。
2012年12月にスタートした「反転授業の研究」では、2014年から学習者中心のオンライン講座を、主に教員向けに実施するようになりました。
主体的な学びが起こるための場の作り方として、筒井洋一さんたちの取り組みを参考にし、
講師+運営 - 運営ボランティア - 受講者
という3者関係を作り、運営ボランティアには、運営の顔と受講者の顔の両義性を持たせることで、媒介者の役割を果たしてもらうことにしました。
講座が継続する中で、受講者を体験した人が、その次には運営ボランティアの役をしたり、運営や講師の役割をしたり、というように役割を変えていくことで、関係性がフラットになりやすい状況が生まれていきました。
ママの起業家(=ママプレナーズ®)向けのオンライン講座を実施しました。このときは、運営のリソースが足りなかったため、受講者の中から「運営盛り上げ隊」を募集するという方法をとりました。
講師+運営 - 運営盛り上げ隊 - 受講者
という3者関係を作り、運営盛り上げ隊は、もともと受講生であり、かつ、運営としても関わるという両義性を持つ媒介者の役割を持つことになりました。
その結果、受講生が主体となったスピンアウト対話が1カ月で30回以上も実施されることになり、過去最高レベルの活性化した場となりました。
コミュニティの自己組織化をテーマにした2ヶ月間のワークショップを実施しました。コンテンツはすべて動画で、オンラインの対話を中心とした構成で、0期と1期は、運営ボランティア10数名が、運営と受講者とを繋ぐ形となりました。
0期のときは、反転授業の研究のメンバーが運営ボランティアに入り、1期のときは、0期の受講者の中から運営ボランティアを募りました。
講師+運営 - 運営ボランティア - 受講者
という3者関係を作ると、運営ボランティアが、運営と受講者の両義性を持つため、受講者の主体的な動きが引き出されやすい形となりました。
2期では、運営ボランティアを媒介ではなく、運営サポートという形にして、
講師+運営+運営サポート - 受講者
という2項関係にしたところ、「講座感」が生まれて、受講者の主体的な動きが、前の2回よりも少なくなったと感じました。
改めて、媒介者の存在が重要であることに気づくきっかけにもなりました。
学習者中心のオンラインの学びの場の作り方を伝えるオンライン講座を1カ月で実施しています。講師が一方的に伝える時間を減らすために、コンテンツはすべて動画にして、学習者がMoodleやスクールタクトといったプラットフォームに課題を提出し、お互いの違いから学びあう協働学習の場創りをしています。
受講者が教育関係者が多いこともあり、旧来の講座の枠組とは違うことを認識してもらうための媒介者の役割が、他の講座にもまして重要になります。
この講座では、共創カタリストという役を、元受講生の中からお願いしています。
講師+運営 - 共創カタリスト - 受講者
という3者関係の中で、受講者が受講者としても関わっている共創カタリストに触発されて活動しやすくなります。また、共創カタリストは、受講者に近い立場から運営と講師にフィードバックを与え、それを参考にして講師と運営は、講座を柔軟に調整しながら進めていくことができます。
自己組織化する学校プロジェクトでは、子どもが興味関心に従って、自由に選択したり、決断したりできるオンラインの学びの場創りをしています。
ここでは、子どもが教え役になり、大人が聞き役になり、ファシリテーターが媒介者となります。
教え役(子ども)-ファシリテーター(大人)-聞き役(大人)
という3者関係の中で、それぞれが、日常の役割を抜け出して、いきいきと学んでいます。特に子どもたちが、この学びをとても楽しんでいます。
西條剛央さんの本質行動学を学ぶためのスクールです。100人100通りの学びということで、学習者中心の学びが設計されました。
ここでは、
講師+運営 - FA(Facilitative Assistant) ー 学習者
という3者関係が取り入れられ、私はFAとして関わりました。
FAや学習者が多様な部活動を立ち上げるなど、学習者主体の活発な動きが生まれました。
媒介者を加えて、主体的な活動を促進するオンラインの場を体験してみませんか?
「Zoomを使ったオンライン講座の開き方」は、定期的に開催しています。
私たちは、主体的な学びや自律的な組織に関する情報を発信しています。
興味のある方は、メルマガ登録をお勧めします。
Zoom革命通信 ← Zoomでこんなことができる!
与贈工房通信 ← 生命型リモート組織が目指す世界
by ]]>それは、
集合知的特異点
という言葉。
これは、世間に広まっている言葉じゃなくて、僕が創った言葉。
特権を持っている場所で価値が作られ、パッケージ化されて、価格がついて、それを手に入れるためにお金が必要だから、お金のために我慢して働くというサイクルから抜けていくための方法について、ずっと考えていて、ある日、この言葉が降りてきた。
AIが人間の知性を超える日が、「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼ばれて、多くの人に認知されているという状況について考えていて、
「そんなことよりも、価値創造の源泉が転換するほうが大きいやん!」
と思ったのがきっかけ。
秘匿的な情報にアクセスできる特権が価値創造の源になっている状況は、インターネットによるフラット化が進むにつれて崩壊してきた。情報格差を元にしたビジネスは、次々に価格破壊が起こっている。
変わって出てきたのはビッグデータとAIを価値創造の源にしようとする状況で、GoogleやFacebookに代表されるグローバル企業が、新たな特権を手に入れつつある。多くのプラットフォームが、血眼になってデータをかき集め、そこから価値を生み出そうとしている。
でも、僕は、その先の世界を見たい。
特権を持たない「普通の人」が、繋がりあったコミュニティにおいて、共創や自己組織化によって集合知による価値創造が起こっていき、その価値が、特権を持っているところが生み出す価値を超えるとき、人々の世界観と行動原理が、根本から転換するだろう。
世界の中で生きている物語が転換するだろう。
それは、真の民主主義がやってくる日とも、言えるかもしれない。
それは、自分たちで生きる意味を創り出し、自分たちでそれを実現することができる世界だ。
僕は、その日がやってくることを願っているので、そのお祝いの日を、「集合知的特異点」と名付けて、みんなの意識をそこに向けて、プロセスを促進したいと思っている。
「集合知的特異点」という言葉が広まっていくほど、人々の意識は世界観の転換へと向かい、そのお祝いの日が加速度的に近づいてくるだろう。
生命的なプロセスの進み方は、生成的であるがゆえに予想できない。ただ、自然の摂理に沿って進んでいくだけだ。
ただし、はっきりと分かることもある。
現在の現実を支えている世界観が機能不全になるほど、その世界観を離脱して新しい生き方を模索する人が増えてくるということ。
だから、現在の世界観の機能不全化をエネルギーにして、新しい世界観が生まれてくるとも言える。
絶望が源になって、希望が生まれてくるのだ。
現在の世界観が猛スピードで機能不全に陥っている様子を見ると、集合知的特異点の到来は、意外と早いのかもしれない。
集合知的特異点を迎えるために必要なものは、次の3つだ。
1)共創や自己組織化の原理への理解の深まりと実践(生命論の哲学、ティール組織、コミュニティの自己組織化など)
2)共創や自己組織化を、誰もが体験を通して学べる環境(対話型のオンラインワークショップ)
3)共創や自己組織化を支えるテクノロジーの進歩(オンラインコミュニケーション、ブロックチェーンなど)
僕は、与贈工房というリモート組織で、自己組織化を生きることを試しながら、原理を探求している。
また、自己組織化する学校という450人のオンラインコミュニティで、新しい学び方を生み出そうとしている。
Zoom革命というプロジェクトでは、オンラインコミュニケーションを地球の神経回路として使えるようにするために、使い方のアップデートを重ねている。
これらは、世界観を変えることで、世界を変容させていくための実験場。
与贈工房は、原理の探究に、自己組織化する学校は、学び方に、Zoom革命は、テクノロジーに、それぞれフォーカスしている。
これらを通して、世界の片隅(「ローカル」)で、世界のパラダイムシフトの普遍的なプロセスを追求している。
あらゆる場所から普遍性に繋がることができるが、世界の片隅(ローカル)ほど、現在の前提を問い直していきやすい。
そして、普遍性に繋がるほど、時代の精神でシンクロしたコミュニティと出会う。
お互いに学びあうことにより、よりプロセスの普遍性に気づいていく。
このようにして「ローカル」の活動が、世界のパラダイムシフトの普遍的なプロセスによって共振共鳴して繋がりあっていく「トランスローカル」こそが、集合知的特異点へ向かう道。
世界中で生まれた実践コミュニティ同士が時代の精神で同期して繋がりあって、うねりを生み出すためのコミュニケーションのテクノロジーは、Zoom革命で開発済みだ。
コミュニティにおける共創や自己組織化によって生成される新しい意味が、すでに、世界のナラティブを変え、世界観を変えつつある。
現在の世界観の機能不全化をエネルギーとして取り込み、新しい物語が生まれる速さが加速している。
時代の変化が加速すると、消滅と生成の速度が加速する。
旧構造は、すごい勢いで消滅していき、新しい構造があっという間に出現する。
今は存在していないものが、気がつかないうちに、次々に生まれてくる。
それらの多くは、今の現状の機能不全をキャッチして、生まれてくるのだ。
世界のこのような激的な変化は、僕たちの想像の域を超え、どんな特権的な位置にいる人にも予想できない。
だから、暗い未来しか想像できなくても心配ない。
その未来予想は、当たらない。
絶望は、希望に繋がっている。
by ]]>
生徒の主体的な学びを引き出すためには、教師と生徒の関係性を変えていかなければなりません。
関係性とは、両者の在り方だから、生徒にだけ一方的に変化を求めるのではなく、教師も同時に変化することで、関係性の変化が起こるのです。
主体的な行動が起こるためには、余白が必要です。
余白があると、様々な想定外のことが起こります。
工業化社会における教育システムでは、学校も工場のように決められた予定に沿って秩序正しく動くことが求められ、「想定外のこと=エラー」と見なし、余白を徹底的に排除してきました。
教師の仕事の多くは、余白を与えないことに使われてきました。
だから、余白を与えるという行為は、これまでの在り方を大きく変えることになり、教師にとってはある種の恐怖を伴う行為なのだと思います。
僕自身も、かつては、教室で授業をするときに余白を排除してきました。自分が思ったとおりに授業が進むことを目指し、そして、その通りに10年以上、授業をやってきました。
5年前から反転授業を始め、授業の中に余白を作り始めるとすぐに気づいたことがありました。
それは、「余白には、奇跡が舞い込む」ということです。
つまり、想定外というのは、悪いことばかりではなく、よいこともあるわけです。
想定外のよいこと=奇跡は、余白を作ったからこそ起こりえることです。
しかし、余白を作ったからといって、いつも奇跡が舞い込むわけではない。カオス状態になり、そのまま崩壊してしまうこともあります。
余白に奇跡が舞い込むための条件は、いったい何なのでしょうか?
いろいろな実験の末、私が気づいたことを書いてみたいと思います。
なぜ余白を作ると、想定外のことが起こりえるのかというと、そもそも自分が想定できる範囲範囲というものは、常に限定されているからですね。
すべての範囲を想定できる知性は存在せず、それぞれが、限定された想定範囲のもとで考えて行動しているのです。
しかし、幸運なことに、私たちは、それぞれ異なる考えや経験を持っているので、複数の人たちの考えを重ね合わせて和集合を作ると、1人では想定できない広い範囲をカバーできるようになります。
余白を作ることで、複数の人たちの考えを重ね合わせることが可能になったとき、その中の誰もが思いもよらないやり方で、目標が達成される可能性があるのです。
だから、自分の状況をオープンにしていくことで、よい方法を知っている人が入ってきて助けてくれたり、新しいアイディアを持ち込んでくれるスペースを作ることが大切になってくるのです。
でも、どうやったら、そのスペースに人が入ってきてくれるのでしょうか?
それには、普段から作り上げている信頼関係のネットワークが大切になってきます。
僕は、信頼関係でつながった人たちが、繋がりをたどってやってきて、助けてくれることを何度も体験しました。
フィズヨビでは、受講生のみなさんに、何度も助けてもらいました。
想いの部分が共通してたり、協力し合って目標達成をしたり・・・さまざまなきっかけで縁を紡いできた人たちが、利害関係を超えて動いてくれたときに、余白に奇跡が舞い込むのです。
それならば、余裕があるときには、積極的に、他人の余白に自らを投じて奇跡を起こしていこうという考えが生まれました。
そのようにして、普段から縁を大切に紡いでいけば、自分の想定を超えた様々なことが周りで起こっていくような奇跡に満ちあふれた人生になるのではないかと思ったのです。
「余裕があるときに縁を紡いでいくと、余白に奇跡が舞い込むようになる」という仮説に基づき、5月からペイフォワード予算10万円を、毎月使うことを始めました。
見返りを求めずに、自分が本当に応援したい人、縁を大切にしたい人に対して、感謝と応援の気持ちを表現するために、5万円、10万円というお金を寄付していくのです。
5ヶ月間やってみて、気づいたことがあります。
それは、特定の人にお金を払うことで応援しているということに留まらない結果をもたらしているということです。
一つは、お互いの持つ信頼関係のネットワークを繋いでいくことができるということです。
少なくない金額を応援のために払うことができる相手は、僕が信頼している相手だけです。
ペイフォワードをするという行為は、「僕は、この人を信頼しているんですよ!」ということを、周りに示す行為です。それは、「田原が信用しているのなら、信用できる人なんだろうな」ということで、信頼関係のネットワークをつなぎ合わせていく効果をもたらします。
もう一つは、自分の在り方を発信しているのだということです。
「みなさん~ 田原は本気でペイフォワードをしていくような人間ですよー」という在り方を発信し続けると、いろんな人が安心して声をかけてくれるようになってきたのです。
すごい頻度で、いろんな人たちと繋がり始めたので、いったい何が起こっているのかなと思ったのですが、おそらくこういうことではないかと思います。
誰かと一緒に仕事をしたり、プロジェクトをしたりするときには、みなさんも、相手が「奪う人」なのか「与える人」なのかを見極めようとするのではないでしょうか?
両者が「奪う人」同士なら、お互いに引っ張り合って、どこかで均衡します。
相手が、「奪う人」で、こちらが「与える人」の場合は、こちらのリソースをどんどん奪われて疲弊してしまいます。
両者が「与える人」の場合は、場に循環が起こり、創造のサイクルが回っていきます。
ペイフォワード予算についての発信を続けていくことは、「私は与える人です」ということを表明していることになり、たくさんの「与える人」が、僕のところにアクセスしてきてくれるようになってきたのです。
その結果、創造のサイクルが回りやすい状況が、次々に生まれています。
5ヶ月間続けてきて、ようやく自分のやっていることの意味が分かり、言語化することができました。
僕は、クラウドファンディングを応援することが多いのですが、そのときに、ただお金を払うだけでなく、縁を紡げる相手なのかどうかを見極めます。
そして、単にお金を払って応援するだけでなく、その人の活動にコミットして、一緒に達成を喜び合えるように応援していきます。
さらに、クラウドファンディングが終わった後も、その関係を大切にしていきます。
そのような在り方が、また、周りに伝わり、様々な縁をもたらしてくれます。
今月、ペイフォワード予算の50%である5万円をつぎ込み、一緒にZoomイベントを行い、全力で応援しているのが、映画監督の古新舜さんです。
僕が巣鴨学園で数学の非常勤講師をやっていたときに、古新さんは生徒として同じ学校に通っていたというところから始まり、ともに、早稲田大学理工学部応用物理学科へ進み、ともに、その後、予備校講師になり、今は、映像と教育とを結びつけた活動をしているという2人なので、強い縁を感じざるを得ません。
そして、古新さんもまた、縁を大切にしながら、与え合って創造を起こしていく「与える人」です。
クラウドファンディングは、本日(9月29日)が最終日で、達成まであと少しです。
古新さんの活動を応援している僕は、のクラウドファンディングを応援してくださる人に心から感謝し、応援してくださる人と縁を大切にしていきたいと思っていますので、支援した後に、ぜひ、田原までご連絡ください。
クラウドファンディングは、まさに、不確定な未来へ自分を投げ出していく挑戦です。
古新さんが作った余白に、一緒に奇跡を舞い込ませてみませんか?
古新舜が贈る!長編映画「あまのがわ」〜分身ロボットOriHimeと自分探しの旅〜
by ]]>NVCでは、生命エネルギーの源の存在を仮定し、源が何かを満たそうとして行動を起こし、行動が達成されれば快感情を感じ、達成されないときは深い感情を感じるというように説明している。
このように感情を捉えると、そのときの感情の快、不快に振り回されるのではなく、「この感情は、どんなニーズから来ているんだろうか?」と自らに問いかけていくことで、自分の源と繋がる道を見つけやすくなる。
コミュニケーションを取っているときでも、感情レベルとニーズレベルという二段構えで考えていると、相手の感情に対して、一時的に自分の感情が反応するものの、一呼吸おいて、その状況を俯瞰して、「お互いの感情は、どんなニーズから来ているのか?」と考え、お互いがニーズを満たし合う関係について考える余裕が生まれてくる。
実際の生活の場にNVCの考え方を取り入れ、自分の心に湧いてくる様々な感情や、コミュニケーションの中で相手が表現する感情について、感情レベルで反応するのではなく、ニーズを探求していくことで、自分や身近な人に対する理解が深まり、コミュニケーションの在り方が変化してきた。
感情に対する探究の中で、ニーズに繋がりにくい感情があることに気づいた。
他の感情が、比較的スムーズにニーズと結び付けられるのに、ある感情については、ニーズとうまく結びつかない。
それは、例えば、「自分は義務を果たしていないという罪悪感」。
もしかしたら、この感情は、自分の源から来ているのではなく、別の部分から来ているのではないだろうか?
感情について探求する中で、このような問いが生まれた。
自分の源から来ていないとすれば、それは、支配や暴力のメカニズムによって外から埋め込まれたものなのではないだろうか?
そのような仮説を立て、思考を巡らせていたときに、『魂の脱植民地化とは何か』という本を紹介してもらった。
この本の著者である深尾葉子氏は、冒頭で次の次のように述べる。
人間の魂は本来何者にも束縛されずにその生をまっとうしうる力をもっている。にもかかわらず、生きる過程において、人間は様々な呪縛を身にまとい、囚われ、自らのありようを制約する。
そして、親子関係、集団的な価値規範、様々な文化的装置によって呪縛が発生し、正当化されていくメカニズムを解明していく。
「呪縛は、罪悪感と隣り合わせで、呪縛を脱しようとする試みは罪悪感とのせめぎ合いになり「葛藤」を生み出す」という個所を読んだときに、この本は、まさに自分の問いに対するヒントをくれるものだと確信した。
深尾氏は、魂の植民地化を次のように定義する。
人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。
また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。
他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。
深尾氏は、「蓋」は、コミュニケーションを通した学習プロセスの中で形成されると言う。
人に傷つけられたくない、大切な問を失いたくないといいった自己防御的な仕組みがはたらいたり、周りによく思われたり、社会に適合した人間として成功を収めたいといった能動的、努力獲得的なものもあり、それらは、秩序形成装置として積極的に評価されてきたいうのだ。
さらに、蓋によって魂と切断された自己は、魂への裏切り行為から自己憎悪へと向かい、それらは、暴力的な発露を引き出す原因となると述べる。
これは、私たちが「反転授業の研究」の中で、外発的動機づけ(アメとムチ)によって、欲と怖れのサイクルを回して学習させる危険性について考えてきたこととシンクロする。
教室は、長い間、「しつけ」の場として機能してきた。
逃げ場のない状況で、学力テストによって序列化したり、規則に従わない者を罰したりすると、その環境に適応するために、子どもは魂に蓋をし、蓋の上に適応のためのインターフェースを構築するのではないか。
しかし、そのことに気づいた教師たちは、外発的動機づけを可能な限り弱め、教室に安心安全の場を創りはじめている。
安心安全の場を創ると、生徒たちの蓋が開きはじめ、魂と繋がった行動が漏れ出てくる。
その行動を受容し、励まし、共有することで、場に魂と繋がった行動が循環するようになると、生命エネルギーが場に溢れてくる。
これが、僕の考える反転授業であり、アクティブラーニングだ。
深尾氏は、魂の脱植民地化に有害な精神の働きとして「憑依」という概念を唱える。
ここでいう「憑依」とは、シャーマニズムのように、他者や死者、他の生命や神の精神を宿すという概念とは異なり、コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシミュレートすることをいう。これがうまくなると瞬時に他人の考えていることが手に取るようにわかるようになり、それによって即座に、どのような対応をすればよいかが割り出され、相手の心を理解した対応ができるかのように見える。
(中略)
しかし、この作業は、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではなく、自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心をなぞろうとするもので、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。
これを読んで思ったのは、日本では、「思いやり」が非常に重要視されるが、自分の魂に蓋をして、お互いが「憑依」によって、他人の感情をお互いにシミュレートし合うと、魂と切り離されたバーチャルな感情共同体が生まれるのではないかということ。
そのバーチャルな感情共同体は、各人に内面化され、お互いを見張る「目」の役割を果たすのではないだろうか。
私が、自分の感情について探求する中で出会った罪悪感の正体は、この「バーチャル感情共同体」の規範に背く罪悪感だったのかもしれない。
深尾氏は、魂と蓋、蓋の上に形成されるインターフェースを、次のように図式化する。
この図を見たときに、「これは、若いころの自分だ」という気がした。
私の母は、本人はどのくらい自覚しているか分からないが、自己実現の道具として子供を利用している部分があった。
「文武両道の息子」という理想像を達成するために、「感じる」という部分に侵入されて操作された結果、しだいに自分の感覚が分からなくなっていったのだ。
ものごとを決めるときに「母はこのように望むだろう」ということが、自分の感情のように感じられ、その一方で、自分の感情は分からないという状態になった。
「他人の期待に応える」という行為を繰り返す結果、他人の期待と自分の欲求を分離するのが難しくなり、生きることに不自由さを感じるようになった。
その中で生まれた適応行動が、他者の自分に対するイメージを操作することだったり、いろんなことをやって「よく分からない人」を演じることだったりした。
この図では、インターフェースに多くの箱が書いてある。
箱は、様々な役割を表していて、役割を移動することで、疑似的な「自由」を味わうのだ。
これは、20代の私が、やっていたことそのものだ。
蓋の上に多くの知識が乗り、それを生きるための手段として利用すればするほど、それを手放すことが難しくなる。
インターフェースが機能すればするほど、漬物石のように蓋を押さえつけ、蓋を開けることが難しくなる。
言語化できないストレスによって、毎日、咳き込むようになった。
体の不調を感じながら、大学院に進学し、多細胞生物の自己組織化の研究を行った。
昼間は私立高校で数学を教え、野球部のコーチをし、さらに、大学院で博士号を取るために研究する生活は、母の望む「文武両道の息子」そのものであった。
その一方で、箱の数は増えていき、いろんな役割を担うことで生活は多忙を極めていった。
その生活に終止符を打つきっかけになったのは学生結婚だった。
自分には直視できない部分を指摘する妻の存在は、隠蔽されていた真実を暴き出し、様々な軋轢を生むこととなった。
そこから、妻の病気、大学院中退、両親との絶縁・・・・と人生は激変し、私は自分と向き合わざるを得なくなった。
親が敷いてきた人生のレールを大きく外れたことで蓋の上に乗っていた様々な箱は無価値になり、徐々にそれらを捨てることができた。
蓋の上に乗っているものが軽くなったとはいえ、それらは自分の生存を守ってきたものであるため、すべてを捨て去ることには恐怖が伴った。
また、様々な罪悪感や、以前の生活に対する未練が立ち上がり、妻に多大な迷惑をかけた末に、5年ほどかけて、ようやく蓋を開けることができた。
変化に対して最後まで抵抗したが、最後の最後であきらめて向こう側に身をゆだねたら、世界がくるくると回転して新しい世界が生まれたような感覚があった。
その後、少しずつ、等身大の自分自身を認められるようになり、自分の感情を徐々に感じられるようになってきた。
夫婦で会社を設立し、それから10年以上、なんとか暮らしていくことができているのは、あのとき、蓋を開けることができたからだと思う。
植民地化された魂が、脱植民地化されるプロセスは、大きな痛みを伴うものかもしれない。
しかし、今は、自分の人生を生きているという実感がある。これは、かつては、感じられなかったものだ。
コーチングやファシリテーションの分野では、蓋を開ける様々なプロセスを開発している。
それらが語るプロセスは、どこか共通したところがあり、自分の体験と重なる部分がある。
オットー・シャーマー著『U理論』を読んだとき、そこで語られている変容のプロセスは、自分の体験そのものだと思った。
自分のメンタルモデルが徐々に揺らいでいき、異なる価値観を部分的に受け入れていくが、その間に、何度も揺り戻しが来て元の状態に戻ろうとし、でも、どうにもならなくなって先の見えない未来に身を投じたときに、自分が創り出していた世界が大きく変化するという体験を、U理論は整理して示してくれる。
そのプロセスは、上記の自分の体験と驚くほど一致している。
日本には、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬こそあれ」という言葉があるが、昔も今も、世界中のあちこちで、Uプロセスのようなものは体験されてきたのだと思う。
U理論のプレゼンシングの瞬間は、深尾氏のモデルの「蓋が開く」に相当するように思う。
「反転授業の研究」を主宰するようになり、10年以上を隔ててかつての研究テーマ「自己組織化」と再会した。
教師が「壇上の賢人」として生徒に知識をインストールすることを止め、「傍らのガイド役」として学習者の学びを支援するのであれば、それを目指す教師たちの集まりであるオンラインコミュニティの運営もフラットな関係を土台にして、様々な活動がコミュニケーションの中から創発するようにしたいと思ったからだ。
約4000人が集うコミュニティにおいて、何度も運営チームと受講者とが混然一体となって学ぶオンライン講座をやっているうちに、かつて学んだレーザーや対流の散逸構造の自己組織化と、コミュニティにおける自己組織化とはだいぶ異なることに気がついた。
オンラインコミュニティに起こる自己組織化は、次のようなステップで進んでいく。
(1)多くの人が場に情熱を注いでくれる。
(2)運営者は、それらを可視化して増幅していく。
(3)予想できない形で即興ドラマが展開しはじめる。
(4)その中でメンバーが多様な役割を演じ、生き生きとし始める。
(5)あたかも予定されていたかのような納得感のあるエンディングを迎える。
このような体験を通して自分の中に降りて来た言葉は「ドラマが起これば、未来がやってくる」というものだった。
ドラマに巻き込まれていくうちに、メンタルモデルの変容がおきる。深尾氏の表現を借りれば、魂が呼吸できる状態になってくる。
このような自己組織化のプロセスについて考えていたときに、清水博著『<いのち>の自己組織』を読んだ。
清水氏は、物質的な自己組織化と、<いのち>の自己組織化とを区別しており、自分がなんとなく感じていた違和感が明確になった。
物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。
<いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。
清水氏は、サッカー場のウェーブなどにおこる自己組織を「イベントの場」における自己組織と呼び、そこでは、人々はボーズ粒子的に振る舞っていると述べる。
一方、家族、組織、コミュニティなどで、居場所を舞台として、お互いの関係性の中から<いのち>の即興ドラマが生まれることを<いのち>の自己組織と呼んでいる。
<いのち>の自己組織が起こるためには、各メンバーが自分の<いのち>を居場所に与贈する必要がある。その結果、ドラマが起これば、居場所に<いのち>が創発し、それが、各自の<活き>を引き出すという与贈循環が起こる。これは、私たちのコミュニティに生じているものそのものだと思う。
この2種類の自己組織を、深尾氏のモデルと結び付けてみると、興味深い結論が得られた。
魂に蓋がされた状態で、集団内を「憑依」のメカニズムによって感情パターンが共有されると、まさに、ボーズ粒子的な集団が生まれる。
このような集団に外部から欲や怖れによって外発的動機づけを行うと、集団には秩序だった動きが生まれ、レーザーや対流のような散逸構造的な自己組織化が起こるのではないか。
このメカニズムは、大衆を戦争などに誘導したりするときに利用されている可能性がある。
一方で、魂が呼吸できる状態の人たちが集まり、魂と繋がった行動を居場所に投じていくと、魂と場が共振共鳴し、居場所の<いのち>が創発するのではないか。
そして、そのような共振共鳴の場は、癒しの空間となり、そこに参加する人たちすべての魂が活力を取り戻すのではないかと思う。
多く人の言語化の努力のおかげで、自分の進む方向がだいぶ明確になってきた。
また、このレビューでは触れられなかったが、311後に福島で起こったことについて、この本には、これまでに読んだどの本よりも納得のいく説明が書いてあった。5年間、自分が感じていることと、流れてくる情報との乖離の大きさに孤独感を感じて苦しんだ私にとって、この本は大きな癒しになった。
by ]]>この本とは、まさに巡り合うべきタイミングで巡り合ったと感じている。
感想を書くことを通して、自分がどこから現在地へたどり着き、これからどこへ行こうとしているのかを言語化したいと思っている。
第1回目の今回は、2年前から始まった学びの旅の途中で、どのようにしてこの本にたどり着いたのかについて書きたい。
学びの旅の物語は、僕が、この本を読む理由を説明してくれると思う。
2年間に渡り、縁を辿っていくうちに『アクティブ・ホープ』にたどり着いた。
これだけの縁のつながりが、たった2年間で起こったことだとは、今考えても信じられないほどだ。時代の変化と、それに伴う結晶化のプロセスが起こっていて、その中に自分が巻き込まれていることを感じる。
一番最初のきっかけは、関西で力強く教育を変え続けている杉山史哲さんとつながったことだったような気がする。
杉山さんは、「反転授業の研究」に早い段階から参加してくれて、オルタナティブな教育について豊富な知識を持つ杉山さんから、僕は、未来の教育についての様々なことを教えてもらった。
今、僕が使っている教育系の用語のほとんどは、杉山さんから聞いたものだったりする。
杉山さんが発する情報をフォローしていたら、杉山さんが「場つくりの師匠」と呼ぶ嘉村賢州さんのことを知った。
当時は、ファシリテーションの興味を持ち始めていた頃だったので、嘉村さんの話を聞いてみたいと思ってインタビューさせてもらった。
場とつながりラボhome’s viの代表理事、嘉村賢州さんにインタビュー
インタビューを通して、U理論のことや、コーチングを日本に持ち込んだ榎本英剛さんの存在を知った。
U理論の翻訳者である由佐美加子さんとは、ワークショップ動画への感想を送ったことから交流が始まり、2月には一緒にオンラインワークショップを開催することになった。由佐さんのワークショップ動画は、本当に素晴らしいのでぜひ見てほしい。
嘉村さんの発する情報もフォローするようになり、しばらくしたころ、嘉村さんの紹介で、『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』という本の存在を知った。
東日本大震災の後、社会変革ファシリテーターの著者のボブ・スティルガーさんは、東北を回り、コミュニティ再生を助けるためにフューチャーセッションや、アクティブ・ホープのワークなどをして回っていて、その様子を本に綴って出版したのだ。
この本を読んでいるうちに、自分の現在地とこれから進むべき方向が見えてきて、長いレビューを書いた。
Bob Stilger著『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』が社会的変容への地図となる
社会変革という言葉が、僕の中にずっしりとした重みを増してきて、同時に、自分が「反転授業の研究」でやってきたことが、どのようにして社会変革に繋がっていくのかがイメージできた。
この本を読むまでは、僕にとってファシリテーションとは、教室の中でするものに過ぎなかった。
しかし、この本の中に出てくるファシリテーターは、自分たちで立ち上がろうとしている人たちが集まるところに現れて、自己組織化のプロセスが回ることを助けていた。
今までオンラインコミュニティ運営を通して学んできたことを、もっと役立てられないかと思い始めた。
どうしても著者のボブさんと話をしたくなって、スカイプで話をした。
ボブさんと話しているうちに、周りを巻き込んで立ち上がっていこうとするときに、「パワフルな問い」がいかに重要なのかということに気づいた。
また、ボブさんから「あなたは、Amazing personだ。Natural connecterだよ。」と言われたことが、自分の強みを知るきっかけになった。
ボブさんとのミーティングは、多くの繋がりをもたらしてくれた。
このミーティングをきっかけに、多くのファシリテーターと繋がった。
僕をファシリテーションに導いてくれた恩人の一人、ワールドカフェホストのAmy Lenzoさんが、ボブさんと志を同じくする友人であることを知り、ちょうどワールドカフェ20周年イベントが日本で開催されるということもあり、Amyさんへスカイプインタビューをして応援することにした。
また、僕をファシリテーションの世界へ導いてくれたもう一人の恩人、香取一昭さんとも改めて繋がったことをきっかけに、エイミーさんが主催するオンラインワールドカフェに参加させてもらった。
それをきっかけに、荒金雅子さん、シュトウ直子さん、平井雅さん、宇佐見博志さんといったパワフルな人たちと次々とつながり、新しい世界が目の前に開けてきた。
ここからは、今後、いろいろなコラボレーションが生まれていくような気がしている。
ボブさんから、三田愛さんと話したほうがよいと勧められ、コクリ!ラボの三田さんをインタビューした。彼女から聞いたコクリのプロセスや、コクリとパーマカルチャーとの関係は、僕の中の新しい扉をさらに開いた。
コクリ(Co-Creation)で地域創生を進める三田愛さんインタビュー
ボブさんに自分の物語を話し終えたときに、ボブさんが、「榎本ヒデさんを知っている?」と聞いた。
榎本さんのことは、嘉村賢州さんから話を聞いて以来、ずっと心の中に残っていて、気になっていた。
ボブさんの中で、僕と榎本さんが重なる部分があるから、僕が自分の話をしたときに榎本さんのことを思い出して口に出したのではないかと思った。
榎本さんと話をすることで、道が開かれるんじゃないか
そんな直感があり、榎本さんに連絡を取ってスカイプでお話をさせてもらうことになった。
スカイプをする前に、榎本さんのことをよく知りたいと思い、「よく生きる研究所」のHPを隅から隅まで読んだ。
特に榎本さんのLife Journeyには引き込まれた
これを読んだとき、一言でいうと、榎本さんは、僕が今進んでいる道の数歩先を歩いている人だということが分かった。
榎本さんにお話をうかがったときに一番印象に残った言葉が、「エンパワー」という言葉だった。
榎本さんは、これまでやってきた3つの活動
・コーアクティブコーチング
・トランジションタウン
・チェンジ・ザ・ドリーム
のすべての根底にある共通点がエンパワーということなのだと語っていた。
それらを統合する形で「よく生きる研究所」を立ち上げたのだそうだ。
僕にとっての重要なキーワードである自己組織化は、増幅とシンクロによって引き起こされる。
これは、榎本さんが語っているエンパワーと同じものだと思った。
榎本さんが、フィンドホーンでパーマカルチャーを通して学んできたことと同種のことを、僕は、農業生物学者の故・明峯哲夫さんとの10年間の対話を通して学んできたのだと思った。
見ている世界がシンクロしていると思った。
ただ、僕と榎本さんの大きな違いは、何も持たずに素手で取り組んでいる僕に対して、榎本さんは、効果を上げるための様々な方法論やスキルを身に着けていることだった。
僕の場合は、この2年間、何かに突き動かされるようにして動いてきたが、変化のスピードが速すぎて、想いだけが先行していて、そこに知識やスキルが追い付いていないのだ。
そこで、榎本さんを手掛かりにして学んでいくことにした。
僕にとってのトランジションタウン活動は、「外国ルーツの子どもたちの学習支援」をきっかけに集まった支援者のオンラインコミュニティに自己組織化を起こして、持続可能な活動を生み出していくことだ。オンラインの対話を重ねながら、集合知によって現場の問題解決を支えていく方法を探っていく。
ここでの学びは、今後、次々と中央からの支援が打ち切られていくであろう「周辺部」の人たちが、外の人たちとどのように繋がり、助け合いながら立ち上がっていくのかを探るものになるはずだ。
外国にルーツを持つ子どもたちへの支援が未来の教育へのヒントになる
チェンジ・ザ・ドリームシンポジウムを運営しているNPO法人セブンジェネレーションズ代表の宇佐見博志さんと、ワールドカフェイベントで繋がり、僕たちのグループが持っているオンライン講座の運営ノウハウを生かしてコラボレーションするための可能性を模索している。
榎本さんを手掛かりにして学び始めた直後に、『アクティブ・ホープ』の出版のニュースが届いた。
榎本さんやボブさんが、ジョアンナ・メイシーのアクティブ・ホープのワークを受けていて、それを、様々な場面で使っていたのを知っていたので、まさに学びたいタイミングで、本が出版されたのがうれしかった。
この本との出会いは、僕の活動を、確実に一歩前へ進めてくれるものだと確信している。
『アクティブ・ホープ』が手元に届く直前に、榎本さんとボブさんが、東北ラーニングジャーニーという2泊3日の学びの旅を行った。
福島の現実に対峙し、その後、アクティブ・ホープのワークを通して力強い動きを生み出していくというものだ。
自分は参加できなかったので、何かの形で応援したいと思った。
支援金という形で寄付をしようかと思ったが、それよりも、この旅に参加することでエンパワーされる人を繋いでいったほうがよいのではないかと思った。
何人かの友人に声をかけたところ、反応してくれたのが仙台でSawa’s Cafeをやっている佐藤さわさんだった。
さわさんも、僕も、東日本大震災のとき、仙台に住んでいた。
そして、震災をきっかけに人生の方向性を大きく変化させた。
彼女は、今、力強い活動を生み出していて、東北ラーニングジャーニーに参加することで、その勢いが加速されていくのではないかという気がした。
そして、それは、現実のものになった。
さわさんから、アクティブ・ホープのワークの感想をスカイプで聞いたことと、旅から戻ってきたさわさんの力強い動きを見て、その効果を実感した。
さわさんは、ラーニングジャーニーで繋がった縁をきっかけに、1月30日にSawa’s Cafeでチェンジ・ザ・ドリームのワークショップをやるそうだ。
2月に行う予定の由佐美加子さんを講師としたオンライン講座にも、さわさんは、運営ボランティアとして参加してくれることになっている。
今後、新しいコラボレーションを進めていくときのキーパーソンになってくれるはずだ。
世界中で厳しい現実が現れているが、それと呼応するように、希望も生まれていることを感じている。
縁を大切にしながら、周りをエンパワーすることで、自分もパワーアップしていく。
今回は、僕がこの本にどのようにして辿りついたのかについて書いたけど、次からは、本の内容について感じたことを書いていきます。
この本が、多くの人の手に届き、多くの人が自分たちの力を信じて行動する助けになることを祈っています。
by ]]>僕は、長い間、日本は小さい国だって思っていた。
「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」
という交通標語が、頭の中に刷り込まれていて、それを無批判に信じていたからかもしれない。
でも、冷静に考えてみると、世界の国の中で、日本は、人口の面から見ても、国土面積の面から見ても決して小さくない。
国土面積は、約200国中で62番目と上位1/3のところに位置する。
ヨーロッパの国々と比べると、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーについで5番目の大きさで、ドイツ、フィンランド、ポーランドより大きい。
人口で比べると日本は世界10位。ヨーロッパで一番人口が多いのはドイツで約8千万人。
フランス人の友人が、
「日本が小さいって?そんなことないよ。人口が一億人を超えているでしょ。十分大きいよ。フランスは約6千万人だよ。」
と言っていた。
EUが誕生してから、ヨーロッパでは国境を越えて移動したり、移住したりすることがより簡単になり、母語+英語を使ってコミュニケーションを取るのが当たり前の状況だ。
日本人が英語を学ぶのに比べて、西欧諸国の言語は英語と近いこともあり、バイリンガル、トリリンガルの人がたくさんいて、その時々の状況に合わせてコミュニケーションに使う言語を使い分けている。
シンガポールやマレーシアの都市部では、誰もが普通に英語を話している。
中国系、マレー系、インド系が混じり合う多民族国家なので、母語+英語のバイリンガルは当たり前で、中国系なら、北京語+マレー語+英語、インド系ならタミル語+マレー語+英語など、3つ以上の言語を操る人もたくさんいる。
ルーツの違う人たちとコミュニケーションを取りながら共存していくのが当たり前になっている状況がある。
世界的に見ると、様々なルーツを持つ人が混じり合って暮らしている国のほうが多く、日本のように、多くの人が母語だけを話し、均質な「日本人」ばかりが住んでいる国は、珍しいのではないかと思う。
その理由は、人口が1億人以上いるため、国内市場が大きいからだと思う。
人口の小さい国では、英語でのコンテンツを翻訳してローカライズして商品化しても、ローカライズするコストに見合った収益が得られないのでビジネスとして成立しない。そのため、母語でのコンテンツが少なく、国民は英語で直接、情報を取りに行くようになる。
一方、日本では、国内で生産されるコンテンツや、翻訳コンテンツが溢れかえり、日本語コンテンツだけで十分楽しめてしまう。
それは、母語で高度な教育を受けられるというメリットもあるが、その一方で、様々なバイアスのかかった情報やコンテンツだけに触れることになったり、日本の特殊性に気づきにくくなるというデメリットがある。
異なる文化と触れて、自分の中の常識が崩壊する経験をしてはじめて、自分を取り巻いていた文化の特殊性に気づき、客観視することができるのだと思う。
世界中の人々が移動したり、移住したりするようになり、インターネットで繋がって交流するようになってきた。
異文化と共生していく社会は、すでに地球上の多くの地域では当たり前のことになっているし、日本でもいずれ、当たり前になるだろう。
今日、外国にルーツを持つ子どもたちの学習支援をしている田中宝紀さんにお話をうかがった。
田中さんは、現在、クラウドファンディングに挑戦中で、外国にルーツを持つ子どもたちが直面している状況を、とても詳しく説明してくれている。
田中さんのレポートを拝見して、一番強く感じたのが、外国にルーツを持つ子どもたちが自信を奪われているということだ。
どのような構造的な問題によって、外国にルーツを持つ子どもたちの自信が奪われてしまうのだろうか。
メンバーが均質であるということは、本来、不自然なことだ。
生き物は、放っておけば、ひとりでに多様化していくからだ。
均質な状態は、閉鎖的な環境に閉じ込めて管理することによって作られる。
外発的動機づけによって競争を引き起こすと、競争による序列化によってヒエラルキーが生まれてくる。
ヒエラルキーは、ほんの一部のメンバーだけに自信を与え、ほとんどのメンバーから自信を奪う。
管理されたメンバーは、管理する側の価値観を内面化し、均質な状態からはみ出し、秩序を乱すメンバーを攻撃するようになる。
日本全体が言語の壁によって閉鎖的な空間になっているのではないか?
お金や学歴によって外発的条件付けを与えられて競争すると、ほとんどの人は敗北感を抱き、自信を失っていく。
そして、管理者の価値観を内面化した人たちは、自分より「下位」の人たちに対する優越感によって「見せかけの自信」を得ようとするのだ。
そのような社会に、外国にルーツを持つ子どもたちが投げ込まれると、日本語にハンデキャップがあり、日本人らしさを身につけていない彼らは、当然のようにヒエラルキーの最下層に取り込まれ、自信を奪われていく。
僕は、そういう社会構造そのものを問題にしたい。
僕が反転授業に関心を持って取り組んでいるのは、社会や教室に見られるこのような構造を変えていく可能性があると感じているからだ。
AL型授業では、多様性を創造性に結び付けることを学ぶ。
メンバーに多様性があるからこそ、様々な意見が場に出てきて、自分だけでは考えることのできなかった様々な視点を得ることができ、協力して学ぶことができるようになるのだ。
ヒエラルキーの序列の上位にいることによって得られる「見せかけの自信」ではなく、チームに貢献することによって自己肯定感を得られるのだ。
AL型授業では、全員が自己肯定感を高めることができるのだ。
10年後の未来を思い浮かべよう。
多様なルーツを持つ子どもたちが教室に集うのは、見慣れた光景になるだろう。
一斉講義型で、知識のインストールを行う従来型の授業は、これまで以上に難しくなるだろう。
なぜなら、これは、均質な生徒集団を前提として成り立つやり方だからだ。
管理が効かなくなった原因を、外国にルーツを持つ子どもたちのせいにして排除していくような未来を僕は望まない。
AL型授業が当たり前の時代になれば、
多様なルーツを持った子どもたちは、多様なアウトプットをすることができ、子どもたちは違いから学ぶことで多面的な見方をすることができるようになる。
子どもたちの多様性が、豊かな学びを生み出すのだ。
その豊かな学びから得られる収穫を、チームで分かち合うことで、チーム全体が自己肯定感を持ち、それをもたらしたチームメートに感謝することができるだろう。
外国にルーツを持つ子どもたちが学べる環境を作ることに、未来へ繋がる教育とは何かを探るヒントがあるのではないか?
多くの人たちの良心と知恵、テクノロジーを使って、彼らが安心して、自信を持って学べる環境を作ることができたら、それは、未来の全員参加型共生・共創社会へ繋がる学び場を作れたことになるのではないか。
田中さんのクラウドファンディング挑戦は9月25日まで。
こちらの記事リストをぜひ、読んでみてください。
by ]]>
それはそれでよかったのだけど、ここから先に進むにあたって、自分の暗黙知の部分を言語化するための言葉や概念をもっと増やしたいという気持ちが生まれてきた。それで、毎日、インプットの時間を作って本を読んでいる。
読んでいる本のほとんどは、未来の創り方に関する本だ。
鈴木利和さんが勧めていた『全員経営』からは、多くの気づきを得た。
その中でも、目から鱗だったのは、知識創造理論SECIモデルの存在を知ったこと。
暗黙知(実践知)→形式知→集合知のサイクルを回していきながら、らせんを描くように知識を創造していくという話は、自分自身がモヤモヤと考えていたものにフレームを与えてくれた。知識創造理論についての書籍もすでに購入し、次に読むことになっている。
手探りでトライアルアンドエラーの実践を繰り返していくうちに、そこからパターンを見つけられるようになり、徐々に言語化できるようになってくる。言語化できると、他の人の知恵と結び付けられるようになり、お互いに影響し合う関係が生まれる。自分で自分を引っ張り上げることはできないが、他の人のことを引っ張り上げることはできるから、グループの中でお互いに引っ張り上げていくことによって共に伸びていけるようになる。集合知が生まれて一人じゃ到達できないようなところへチームで達してしまう。気がつくと、かつては自分の外側にあり、とりあえず試してみたものであったものが、自分の日常になり、当たり前のものになって意識しないでも行動できるものになっている。最後の無意識化のプロセスは、今まで意識してこなかったものだが、これがあることで「サイクル」になる。
その後、メンタルモデルの作り変えによる学びや、共創(Co-Creation)について、もっと考えたくて、『出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する』に進んだ。
U理論との出会いは、1年以上前なるが、僕にとっては、若いころに打ち込んできたカオス理論と、対話におけるカオスとが結びつき、過去に学んできたことを今の活動に生かせるようになったという点で、とても重要なものだった。
前作を読んでいたので、ふむふむとうなづきながら読んだのだけど、今回、インパクトが大きかったのは、経済進化のマトリックスの図
経済を3.0から4.0へ進めるきっかけになるものは、システムが「外部」として排除してきたものの存在が無視できなくなってくることだという。
このことを、僕たちは、どこか遠くの世界の抽象的な理論として理解しているのではなく、自分たちの体験として痛みを伴って心の底から体感している。
東京という大都市は、都市の外部から電気エネルギーと食物を吸い込み、地方は「外部」として東京へエネルギーや食物を供給する役割を担ってきた。農業県であり、原子力発電を持つ福島県は、まさに東京へ食物と電気エネルギーを供給していた地方の1つであり、それと引き換えに中央から補助金をもらうことでバランスを取ってきた。僕の故郷である茨城県も似たようなものだ。
大都市に人とお金が集中し、地方は価値を生み出すことが難しくなると、中央への従属度が高まっていき、その結果、中央集権のヒエラルキー構造が強まっていく。その結果、中央集権のシステムは自分たちのためにあるのではなく、自分たちが中央集権システムの維持のために存在しているということを多くの人が感じるようになる。矛盾が大きくなったことで、システムに利用されているだけだということに気がつくようになるのだ。
それでも、311が起こるまでは、そんなにひどいものだとは思っていなかった。311が起こった直後も、そうは言っても、誰かがちゃんとやってくれるんじゃないかと思っていた。しかし、いつまでたってもそんなことにはならなかった。自分たちは見捨てられていて、自分や家族を守るのは、自分たちしかいないのだということを嫌と言うほど思い知らされた。
自分たちがシステムの内部にいて守られているというのは幻想で、自分たちは「外部」にいて、自分で何とかしなければならないのだということに気づいて目が覚めた。僕と同じように考えている人は、身近なところにはあまりいないように思えて一時的に孤独が深まったのだけど、SNSなどを通して磁石が引き合うように集まり、自分だけではないのだと感じることができた。
「君たちは内部だよ」というお話を聞かされてきた「外部の人たち」が、311をきっかけとして、それが本当じゃなかったことに気づき、自分たちの力でサバイプするために動き始めているのではないかと思う。4.0への移行は、自分が旧システムの外部にいることに気づき、旧システムからは見捨てられていると感じている人たちが、自分たちの力で何とかするために動き始めたときに起こるものなのだろう。
これは、親に愛されていなかったことを認めるような痛みを伴う。甘い幻想を捨てるのは難しいことだが、それは、厳しい現実を嫌と言うほど突きつけられて目が覚めたところから始まるんじゃないか。少なくとも僕は、あの時、東北に住んでいたからこそ、飛び起きて、目を覚ましたのだと思う。
経済進化マトリックスを見ているうちに、「共創的教育」という言葉が頭の中に浮かび上がってきた。
もし、そういうものがあるとしたら、それは、どんなものだろうか?
チームでの学びに主体的に関わる学習者が、一人ではできなかった学びを実現し、協力すれば自分一人ではできないことができるようになるのだということを体験して、そこから自信を得て自分たちで価値創造するために立ち上がれるようになるのだとすれば、それは、まさに「共創的教育」というものなのではないだろうか。
次に読んだのは、ボブ・スティルガーさんの『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』。
この本は、僕が今やっていることと311との関係に気づかせてくれた。自分のことは、自分ではなかなか気づくことが難しいが、この本の中に繰り返し出てくる物語に振れているうちに、その中のメタな部分が抽出されて、自分の心とシンクロしてきて、自分の中にも同様の物語があるということに気づくことができた。
ボブさんは、3.0から4.0への変化が東北から始まると考えているようだ。
そこは、旧システムの機能不全が嫌と言うほど立ち現れているところだからだ。どうやっても以前のような形には戻ることができないという厳しい現実が、否が応でも新しい世界を創る必要性を生み出す。
これまで依存していた旧システムのヒエラルキーが自分を助けてくれないことを思い知らされたからこそ、ヒエラルキーを登っていく以外の価値とは何かということを考え始め、新しい人とのつながり方、新しいお金の使い方というものを模索し始める。311をきっかけに生き方を大きく転換した仙台の人たちと、昨年は次々に繋がった。
旧システムの片隅に居場所を確保して安住していた僕は、311によってすべてが分からなくなり混乱に陥った。そこが安住できる場でないことは分かったが、代わりの居場所は存在していなかったからだ。40歳を過ぎて、もう一度、自分というものをゼロから考え直さなければならなかった。
その中で、自分と同じように生き方が分からなくなってしまった人たちと出会って、とにかく動き回って、動いたときに感じたことをアウトプットしていくうちに、少しずつ何をすればいいのかが分かってきた。
旧システムを復旧するのではなく、新しい未来を創りたいと思っている人たちと次々と繋がり始めた。「反転授業の研究」が、311の後に生まれたのは偶然ではなく、未来について語りたいと思っている人たちがたくさんいたからこそ、ちょっとしたことをきっかけに大きな流れが生まれたのだろう。
ボブさんは、「お互いが耳を傾け合うことで、未来が創られる」と言う。
これは、僕の実感を端的に表してくれている。耳を傾けてもらって語ることによって、自分の暗黙知を外に出すことができるようになり、物語化できるようになる。そして、お互いの物語がシンクロすることで、進むべき方向が見えてくるのだ。
また、ボブさんの本から得た「トランス・ローカル」というアイディアは、これから何をやるべきなのかを指し示すものとなった。
「お互いが耳を傾け合うことで、未来が創られる」が個人と個人の間の関係であるのに対して、トランス・ローカルは、コミュニティ間の関係だ。
「コミュニティがお互いの物語に耳を傾け合うことで、社会の未来が創られる」のだ。だからこそ、トランス・ローカルは、社会変容の道筋となるのだ。
●Bob Stilger著『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』が社会的変容への地図となる
トランス・ローカルのことを考えていて、ふと、バーグマンさんと話してみようと思った。「反転授業」の生みの親であるバーグマンさんは、少し前から「反転授業の研究」に参加していて、ときどきイベントの案内などを投稿していた。メッセージを送ったら、スカイプミーティングを快く受けてくださり、話すことになった。
バーグマンさんと話して、本当に良かった。
彼が反転授業を生み出したシカゴの高校は、州からのサポートなどが十分でない地方の学校だった。だからこそ、目の前の生徒がよく学べるように自分たちで考えて解決する必要があったのだ。そして、そんなバーグマンさんたちが見つけた方法が、同じようにシステムの外部に存在する学校の教師たちを立ち上がらせることになった。
システム外部から生まれた「自分たちの力で何とかする」という動きが、国境を超えて広がり、わずか3年で25万人のオンラインコミュニティを作ったのだ。その物語は、僕たちが「反転授業の研究」で紡いできた物語とシンクロするものだ。
国境を超えて、2つのコミュニティの物語が出会い、その中に共通点を見出したとき、これが、考えていたよりも大きな範囲で同時代性によって結びついている必然的な動きなのだということに気がつく。
バーグマンさんと話したことで、自分たちの物語を、もっと大きなフレームの中で位置づけることができた。
●反転授業を世界へ広めるジョナサン・バーグマンさんインタビュー
バーグマンさんと話した数日後、岩手県立大野高校校長の下町壽男さんとオンラインでお話することができた。
下町さんは、盛岡三高時代に副校長として参加型授業の導入に取り組んだリーダーであり、今は、統廃合の危機にさらされている大野高校で、校長として地方を巻き込んだ取り組みにチャレンジしている。
下町さんは、今の社会に適応するために教育を考えるのではなく、理想の未来を創るために、そこから逆算して教育を考えている。
「全員参加型の共生社会への準備」として「参加型授業」を行うという考えに、下町さんの教育哲学が凝縮されているように思う。
大野高校は、教育システムのまさに周辺に存在していて、旧システムの問題が最初に立ち現われる最先端である。
そこに下町さんが赴任したことで、大野高校は、未来へ一番近い学校となった。
下町さんは、「統廃合の危機にあるからこそ、おもいきったチャレンジができるし、それが、今後やってくる未来へ役立つ」と言う。まさに、ここは、4.0が立ち現われてくる可能性を秘めた場所だと思う。
今までやってきたオンラインでの取り組みは、地域格差をゼロにする可能性を秘めている。そのことに最初に気がつくのは、まだモノが溢れている中央ではなく、いろいろなものが足りなくなっている周辺部であると思う。
僕は、下町さんが創る未来を見てみたいし、そこに関わって、いっしょに創りたいという気持ちを持っている。
下町さんと話した数日後、ボブさんとスカイプすることができた。
ボブさんが耳を傾けてくれたので、自分が感じていることを話すことができた。
自分の中に無意識にインストールされている「日本人」の部分を客観視して、それを乗り越えたいと思っていることや、旧システムが、システムに必要な人間を育成するために知識や態度をインストールしていくような教育ではなく、それぞれが自分に力があることを理解し、自分の力で立って、仲間と協力して未来を創るような教育にシフトしていかなければいけないと感じていること。そして、そのような動きが少しずつ生まれていて、「反転授業の研究」もその中の一つであることなどを話した。東北から離れた自分が、どのようにして東北と協力できるのかは最初は分からなかったが、自分の力で立ち上がった東北の人たちと外の人たちとを繋いで、アイディアを創造していくところに自分は協力できるのではないかと感じているということも話した。
ボブさんも、Flipped Learningの動きには注目していて、これが、教育におけるボトムアップの活動であることに価値があると言っていた。アメリカでもFlipped Learningの動きがどんどん大きくなっているそうだ。
かつて東京では、「東北の人はシャイだ」と言われていたが、ボブさんが東北に行ったとき、ボブさんが会った東北の人は凛とした態度で全然シャイだとは感じなかったのだそうだ。むしろ、東京の人たちのほうがシャイだと感じたのだという。自分の足で立って動き始めた人たちからはエネルギーが発散されてくる。旧システムに依存することをやめ、立ち上がった人たちがシャイであるわけがない。
僕は、バーグマンさんや、下町さんのことをボブさんに話し、これがシステムの周辺から自分たちの力で立ち上がってくる動きであることに意味があると話した。
ボブさんは、旧システムのひび割れはいつも「周辺部」で最初に生まれるし、危機感があるからこそチャレンジが生まれ、新しい世界への光も見えてくると言っていた。
フィズヨビでやっていたオンラインの学び合いの夏期講習で、動画と安心安全の場を作って、フォーラムとビデオ会議システムを学習者に解放したら、自分たちでどんどん疑問を生み出して、それを手掛かりに学び始めたという話をすると、ボブさんは、教師の役割は、「答を言う人」から、「質問をする人」に変わるはずだ。パワフルクエスチョンこそが、学びを進めていくもので、深い洞察力を持った人こそが、パワフルクエスチョンを発することができると言っていた。
ワールドカフェの話になったとき、自分は、アメリカ人のAmy Lenzoさんのオンラインワークショップに参加してワールドカフェホストのスキルを学び、そのときは理屈で理解していただけだったが、シンガポールのSamantha Tanさんの家を訪問したときに、彼女からパワフルクエスチョンをしてもらったことで、その威力を体験として理解することができたと話した。
ボブさんとAmyさんは、志を同じくする仲間だということで、ボブさんから、
「あなたは、amazingだ。natural connectorだよ。」
と言われた。
その夜、勢いに任せて、久しぶりにAmy LenzoさんにFacebookメッセージを送った。それをきっかけにAmyさんがアジアでやろうとしているオンラインワールドカフェの取り組みに参加することになりそうだ。
フィズヨビ夏期講習では、パワフルクエスチョンですら学習者の間から生まれていた。
学びのスピードが速くなりすぎて上滑りしてしまうのを防ぐために、「動画を見ないで、まず、自分たちで考えてみる」という動きが自発的に生まれた。安易に先へ進むのではなく、立ち止まって学びを深めることが大事だという共通理解が場に生まれ、メンバーがそのために動いたのを見て感動した。
僕の役割は、精いっぱいの期待を込めて見守ること。そこで起こっていることを見逃さずに語ることだった。
フィズヨビ夏期講習の最後の振り返りセッションでは、バーグマンさんやボブさんの話をした。
僕たちが3週間で体験したことは何なのかを、みんなでゆっくりと言語化することに挑戦した。
・これまでは分からないことを分かった振りすることばかりを学んできたけど、今回、本当に分からないことを「分からない」ということが自分だけじゃなく、他の人の役にも立つことが分かった。
・効率よく学ぶというのと、深く学ぶというのは相反することだと思ってきたけど、結局、深く学ぶことが一番効率もよいのだということが分かった。
・自分だけじゃ考えられない疑問を投げかけてくれたことが、理解を深めることに繋がってありがたかった。
・「分からない」ということが、他の人の迷惑になると感じていたけど、そうじゃないことが分かって目から鱗だった
・「分からないから教えてください」ということでチームの学びを回していくリーダーシップというものがあるということを知った。
・問題を解くことは考えずに、理解を深めていけば、結果的にちょっとアジャストするだけで問題も解けるようになると思う。
・安心安全の場というものがあれば、こんなすごいことができるのだということを体験した。これからの人生が変わるような経験だったと思う。
10名のオンラインの学び合いは、僕に未来の学びを見せてくれた。
その中の何名かは、人生を変えるような経験だったと教えてくれた。それは、僕にとっても同じだ。
一人で立ち上がるのは難しいけれど、協力すれば自分たちの力で価値創造できるということを体験した人は、共創できるようになる。
自分の心と体に自信が漲り、それまでの自分では信じられないようなことができるようになる。
この学び合いチームには、Moodleのコース1つと、ビデオ会議室のアカウントを開放して、それをどのようにして使って、学び合いをしていけばいいのかも任せてみようと思う。僕は、そこに、アドバイザー&プロデューサーとして関わる。このアイディアに、僕たちみんながワクワクしている。
ここからも、4.0につながる未来が生まれている。
by ]]>
教育現場にいて生徒と接すると、多くの生徒が自信を失っていることに気づく。
それが当たり前すぎて気がつくのが難しいほど、自信の喪失は幅広く広がっている。
その原因についてずっと考えてきたのだが、車を運転しているときにある映像が思い浮かんで、すごく納得した。
その映像は、こういうものだった。
はじめから埋めなければならない箱が与えられていて、それを埋めていくような学習を強要され、周りからは、
「あなたは、ここがまだ白いままだね」
「まだ埋められていない場所があるね」
という声を繰り返し聞かされた結果、どんどん自信を失っていくのではないだろうか。
そもそも、この枠組とはなにか?
それは、「日本の労働者」という名前のプロダクト(製品)の規格だろう。
規格を満たしていないところがあると、容赦なく、「不良品」としての烙印を押されてしまうのだ。
均質なプロダクトを生産し続ける工場モデル型の教育システムでは、生徒たちは孤立し、旧社会が作り出したヒエラルキーの中でのポジションを餌に、競争に駆り立てられる。
そこで「個性」と呼ばれているものは、他の人と自分を差別化し、他の人よりもヒエラルキーの「上」へ自分を押し上げてくれるアイテムのようなものだ。
しかし、このような生き方は、「生き物らしさ」から遠く隔たったものではないか。
農業生物学者の故・明峯哲夫さんは言っていた。→「農業生物学者から教わったこと(1)」
「植物が、植物を育てる」
荒れ地に草が生え、その草が枯れた後の炭化水素を分解しながら土壌生態系が発達し、そこにさらに植物が生えていき、世代を重ねるうちに荒れ地が森になっていく。
誰かから「ポジション」を与えられなくても、自分たちで何かを生み出していく力が生き物には備わっているはずだ。
Competition(競争)ではなく、Co-Creation(共創)へと意識を転換すると、価値観が180度転換する。
それぞれが、思い思いに生長していくのが良いことだと思い、プロダクトとしてのあるべき姿というものを手放すと、「足りていないこと」ではなく、「できていること」に目が向くようになる。
ためしに先ほどの図を少し描き直してみよう。
ずいぶん印象が変わったのではないだろうか。
ここから、融通無碍に伸びていくことがイメージできるのではないだろうか。
311の後、旧社会のシステムがこのままでは立ち行かないと感じた人は多かったのではないだろうか。
僕もその中の一人だ。
そのような人たちは、お互いに共鳴し合いながら集まり、新しい社会の在り方を模索している。
手探りで一歩一歩進んでは暗黙知を蓄積し、振り返ってそこから気づきを得て、新しい物語を紡ぎだしている。
そこでは、若い人たちも、年長の人たちも横並びだ。
年長者は旧社会に適応するためのルールを数多く知っているが、新しい社会の在り方を試行錯誤するときに、旧社会のルールは役に立たないからだ。
思い思いに根を張り、葉を伸ばしていった結果、あとからそれが何を意味していたのかが分かるだろう。
大切なのは、根を張り巡らせる勢いであり、葉を繁らせる活力だ。
2年間、無我夢中で体と頭を動かしてきた結果、気づいたことがある。
自分で自分を伸ばしていくのは難しいが、他の人を伸ばすのは、それに比べれば簡単だということだ。
自分の価値を知ることは難しいが、他の人の価値を感じるのは簡単なのだ。
だから、自分が感じた価値を、その人にフィードバックしていく。
それが、その人に勇気と自信を与え、行動に勢いが生まれていく。
逆に他の人から「あなたのやっていることは価値がある」と言ってもらえることがある。
それによって、勇気と自信が生まれ、アクセルを踏み込んで突っ走ることができるようになる。
これは、明峯さんが言っていた「植物が、植物を育てる」ということと同じことなのではないか。
このように、お互いに育て合いながら、協力し合って「森」を作っていこうとするときには、「個性」の意味が180度変わる。
『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』を読んでいて、次のような言葉に出会った。
これまで何度も、人々が自分の「色」を見出す必要性について話すのを僕は聞いてきた。それは他者から自分を切り離すための手段としてではない。むしろもっと、信頼できるつながりの手段としてだ。世界は時に言葉ではとらえにくいパラドックスに満ちている。自他の区別や自己完結への欲求を手放すことができたとき、我々は我々自身のユニークな自己に出会うことがある。自分らしさというものが、他者とのつながりから生じるのだ。
かつての僕は、他人と自分とを区別するために自分の「色」というものを出そうとシャカリキになっていた。
しかし、311を経験し、自分というレベルよりも、もっと大きなレベルで何かを変えていかなければならないと思ったときに、行動のパターンが変わった。
自分の行動が、「森」の繁栄に繋がっているという確信が、自分に自信と幸福を与えてくれるようになった。
僕にとっての「森」は、「反転授業の研究」というFacebookグループで、サイバースペースにあって、すごい勢いで繁殖している。
森の繁栄に役立つことは多種多様で、それぞれがそれぞれの仕事を見つけることができる。そこに、「競争社会における差別化」とは明確に異なる自分らしさを見出すことができるのだ。
誰かが作った工場のプロダクトとして不良品検査をされるのではなく、生き物として自分たちの森(コミュニティ)を育てていこう。
自分らしさが何かは、あなたがコミットしている森(コミュニティ)が教えてくれるはずだ。
森が繁栄すれば、森で暮らせるようになる。
森に関わって、森を繁栄させる力こそが、あなたを助けるものとなるはずだ。
by ]]>大人はこうあるべきという「規格」はどのようにしてできあがっているのだろうか?
日本では、様々な「規格」があり、その規格を満たしていないと周りから指摘されたり責められたりする。
あるべき姿からの引き算で自分を捉えることを求められ、できないことができるようになっても、+2から+5になるのではなく、-7から-4になるだけで、「まだ4足りないね」というメッセージを受け取ることになる。
そして、そのような中に晒され続けると、他人が規格を満たしているのかどうかについて厳しく相互監視するようになってくる。
赤信号を渡って見知らぬ人から注意されたこともあるし、ETCがうまく動作しなかったので車を停止させたら、後ろから知らないおじさんがツカツカとやってきて「バカヤロー」と言われたこともある。
規格を内面化して、その正しさを疑わず、その正しさを根拠に見知らぬ他人に「バカヤロー」と怒鳴ってもOKだと思っている人は、必ずしも少数派ではないと思う。
ということは、これは、個人的な問題ではなく、社会の構造的な問題なのではないかと思う。
規格が、細かい部分まで行きわたっていて、おまけに、年々増えてくる感じがしている。女性の場合は、男性よりも満たさなければならない規格が1.5倍くらい多いのではないだろうか?
いつの頃からか、エレベーターを降りるときに、「閉」ボタンを自分で押しながら降りるようになったんだろうか?
昔は、コンビニの店員は、あんなに接客していなかったと思う。
まともな大人として周りから認められて暮らしていくためのハードルは結構高くて、時間の多くを「規格」を満たすために費やさなければならない。
そして、「規格」には、流行があって変遷するので、自分が「規格」を満たしているのかどうかを、常にチェックせねばならない。
テレビや雑誌では、今の「規格」についての情報を発信しているので、要チェックだ。
「規格」をどれだけ満たしているのかは、上下関係に繋がっている。様々な細かいルールを知っていることを他人に誇り、ルールを知らないことによって他人を見下す。
そうなると、ヒエラルキーの中での最適行動は、自分なりに考えて行動することではなく、社会のルールを学び、目の前の現実に対して、常にルールを参照しに行き、「適切な」行動をしていくことになる。これが、誰からも非難されない立派な大人の行動ということになる。
「規格」を満たしていない人や、満たしたくない人は、社会からネガティブな声を浴びせられ続けるという目に合う。
日本社会は、「規格」を満たしていない人には、本当に厳しいのだ。
これは、いったいどこから来ているのか?
この構造から抜け出していくための未来をどうやって創るのか?
そういうことを、最近、よく考えるのだけど、そのヒントになる動画を福島毅さんが紹介してくれた。
福島さんは、どんぐり教員セミナーの制作者で、僕に必要なものを、必要なタイミングで紹介してくれるありがたい人。
「Co-Creationという世界の生き方、リーダーシップ」
動画の中で話している由佐美加子さんは、『U理論』の翻訳者で、Co-Creationという考え方を提唱している方。
彼女の話の中でとても共感したのが、
「怖れをトリガーにして攻撃か逃避が生まれて、それを土台にして成長神話ができている」
という部分。
由佐さんの言っている「正しいか間違いかの二項対立に陥らない」というのは、言い換えれば、「規格」を満たしているかどうかという思考に陥らないということなのではないかと思う。なぜなら、日本では、正しさの根拠を「規格」に置いているのだから。
他人から攻撃されるという怖れから「規格」を満たした「立派な」大人になるほうへ駆り立てられていき、それを「成長」と呼ぶのは本当に正しいのか?
でも、怖れを回避する方法として、学校教育や社会人教育において、唯一、教えられてきた方法が「規格」を満たしていくという行動パターンで、追い詰められればられるほど、過去の成功パターンを強化していくし、その成功パターンでヒエラルキーを登った人は、その成功パターンを下に押し付けていく。
由佐さんが言う「怖れによる反応によって、外からコントロールされる」という指摘は、とても鋭い。
ここに、別の未来を創るためのヒントが隠れている。
「怖れに対する反応」を引き起こさないためにはどうしたらよいのか?
それに対する由佐さんの答は、
「怖れから目をそむけると、そこから派生して増殖してくるものによって縛られるので、怖れを可視化して正体を見極める」
「反応は、良い悪いの判断から始まるので、良い悪いの判断を辞めると、反応を止められる」
というもの。
そして、「規格」を満たすことに使っていたエネルギーを、そこに使わなくなると、Creationに使えるようになるという指摘は、自分の体験とも一致している。
じゃあ、「規格」を満たすのをやめて、Creationにエネルギーを使い始めたら、生きていけるのか?
というように思考してしまいがちではないだろうか?
「生きていけるのか?」
これは、怖れを発生させる究極の切り札だと思う。
いろんなことを考えても、最後は、「生きていけるのか?」と問われて、また元に戻っていくという思考を僕も何度も繰り返している。
それに対して由佐さんは、
「真・善・美のエネルギーは凄まじい」
と言い切る。これは、僕の固定観念を壊してくれた言葉だったと思う。これを自分自身の言葉として言い切ることができたとき、自分はもっと思いっきりアクセルを踏めるようになるんじゃないかと思う。
リーダーが「これが正しい」という情報を発信すると、「正しい/間違っている」という二項対立に陥り、多くの人に怖れの反応を引き起こし、分断が生まれていく。
これを回避するためにリーダーは何を発すればよいのか?
由佐さんは、「信じていることを純化させて、祈りとして発信する」「美に触れると元気になる」と言う。
これは、サイモン・シネックのゴールデンサークルの話を、さらに掘り下げているものだと思う。
自分自身が発信するものが、真・善・美になっているだろうか?
自分のメッセージが広がらないときは、まだ、真・善・美が足りていないのだろう。
何に向けて努力すればよいのかが明確になってきた。
僕の祈りは、【21世紀マインドセット】に込めました。
あとは、これをもっと純化させていこう。
by ]]>主体的に生きるというのはどういうことなのでしょうか?
最近は、このことについて考えることが多いです。
社会には、誰かの敷いたいくつかのレールと、レールのない原野があります。
レールの上を進むときには、「レールの管理者」の説明を受け、レールを進むメリットをあらかじめ理解し、メリットが費用対効果に合うと判断したら、レールに乗って脇目も振らずに進みます。
ここにあるのは、徹底した効率化の思想。
成功とは前進であり、失敗とは後退を意味します。
レール上を素早く進んでいくためには、正解についての情報を集め、マニュアルに従って進んでいくのが最適解になります。
このようなやり方は、最短距離で何かを手に入れるための手段として、あらゆる分野で見ることができます。
しかし、レールの上を走ることばかりをやっていると、いつしか、手段と目的とが逆転してきます。
何かを学ぶために必要に応じてレールを利用するのではなく、レールの上を走ること自体が目的化していきます。
そして、その行動パターンがマインドセットを浸食していきます。
いつしか、自分でリスクを取らなくなり、レールの品評会の中から消費者としてレールを選んでいくようなマインドセットが身に付いてしまうのです。
気をつけなくてはならないのは、「レールの管理者」には、そのレールを敷いた意図があることです。それを理解し、納得した上でレールを進めばよいですが、やみくもにレールの上を走り続けると、いつしか「レールの管理者」の意図通りに、レールのいたるところに配置された報酬系によってコントロールされるようになります。いつのまにか、主体性を失ってしまうのです。
一方、原野に踏み入っていくとき、そこにあるのは効率化とは真逆のものです。最悪の事態に陥らないようにリスクを管理しながら、試行錯誤しながら歩みを進めていきます。全身にアンテナを張り巡らせ、一歩一歩確かめながら進んでいきます。
一歩踏み出すことで、その結果が小さな成功であろうと失敗であろうと、生きていくために必要な情報が集まってきます。その情報を分析することで、次の一歩を踏み出す方向が決まります。この場合の一番のリスクは失敗を恐れて踏み出さないこと。未知の世界に取り囲まれている状況では、考えることよりも、歩き回って情報収集することのほうがずっとずっと重要なのです。
踏み出す前には分からないけど、踏み出すと景色が変わる。それは、踏み出してみないと分からない。
歩きながら考えていくことが重要なのです。
そうやって歩き回っているうちに、様々な気づきが生まれ、その気づきを統合して抽象化することで、自分自身の世界観が構築されていきます。
世界観は固定的なものではなく、世界の変化や、自分自身の成長によって変化していきます。
社会の荒野の中で自分の成長を感じながら生きていくとき、「生きている実感」を強く感じることができます。
リスクを管理しながら試行錯誤し、社会の荒野を生き抜くためには、どうしたらよいのでしょうか?
Noovo代表のエインさんは、
「ヒエラルキー構造が強い社会をフラットにしていくために、自由な人たちが生きていける世界を創造すればいい」
と考えて、Small businessのブランディングとインキュベーションを支援する会社、Noovoを立ち上げました。
アイディアを形にして収益化するまでのプロセスを、創造力とITの力を使って価格破壊していこうという試みです。
そのビジョンに共感した人たちが、エインさんを支援しました。
吉田由香さんは、「ママが育児と仕事を無理なく継続できる社会」の実現をめざし、ママプレナーとして活動し、さらにママの起業を支援しています。
吉田さんの活動については、こちらをご覧ください。
「ママプレナー®」という言葉をご存知だろうか。ママ+アントレプレナー(起業家)で「ママプレナー®」と呼ばれており、世界各国でママプレナー®という働き方を支援する団体が増えているという。日本でもこの言葉とともに、ママになった女性に、出産後でも自分がやりたいことに挑戦するという「自分らしい働き方」「自分らしい生き方」を提案していく活動をしている女性がいる。吉田 由香(よしだ ゆか)さんは5歳の双生児のママであり、2014年にプチボヤージュという会社を立ち上げ、ママプレナー®という働き方を広めていく活動をしている。
僕は、ママプレナーは、リスク管理の上で非常に合理的なチャレンジの形だと考えています。
パートナーと協力することで、チャレンジしやすくなるからです。
生活を成り立たせながら、リスクを管理してチャレンジするためには、複数の収入の柱を作っていくのが効果的です。
一人の単位で考えると、
本業で安定収入を得ているときに、副業でチャレンジしていく。
ということになりますね。僕が、予備校講師としての収入を得ながら起業し、ネット予備校を立ち上げていったのは、この例に当てはまると思います。
これは、起業だけに限りません。副業でも、ボランティアでも、インターンでも何でもよいのです。できるときにチャレンジして、試行錯誤しておくことでそれまでに見えなかった可能性が見えてくるのです。
21世紀は時代の変化が激しくなり、同じ仕事をずっと続けていくというよりも、キャリアチェンジを繰り返しながら生きていくようになってくると思います。
僕自身は、5年ごとのサイクルを考え、5年先の収入源を作るために種を撒き、試行錯誤を常にしておくように心がけています。
家族の単位で考えると、チャレンジの幅が広がります。家族の一人が安定した収入を得ているときに、家族の別のメンバーがおもいきってチャレンジしていくことができるからです。
パパの収入が安定しているときに、ママがチャレンジしていく。
ママの収入が安定しているときには、パパがチャレンジしていく。
そうするとこで、リスク管理とチャレンジのバランスを家族内で保つことができます。
家族という範囲を超えて、コミュニティーへと枠を広げると、もっと可能性が広がります。コミュニティーで支え合って、リスクを分散してチャレンジできるようにしていけるようになるからです。
価値を生み出せるようになるまでは、コミュニティーが支えていき、価値を生み出せるようになったらコミュニティーに還元していくことで、コミュニティーの力が強くなっていきます。コミュニティー内にノウハウも蓄積していきます。
たとえば、アカデミアリンクスのmanboxが考えているのは、起業家の卵のコミュニティーを作って支え合うことで、チャレンジしやすい環境を作ることです。
それによって、だんだん大きなチャレンジが可能になってくるのです。
協力し合うことで、大きなリスクをとれるようになって思いっきりチャレンジできるようになり、成功の確率が高まっていくのです。
まずは、身近な人と協力し合うところから始めませんか?
ママプレナーの吉田由香さんが、Work Storyでインタビューされています。まさに、今、チャレンジしている吉田さんの記事を、ぜひ、読んでみてください。
ママの働き方は無限大。ママが育児と仕事を無理なく継続できる社会をつくる。
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