今までのように、やるべきことが決まっていて、特定の刺激に対して、特定の行動をするように強化していく訓練の場では、教師ー生徒、上司ー部下のような縦の二項関係が効果的です。
このような縦の二項関係は、グーとパーしかないジャンケンのようなものです。
このような状況では、指示をする側と、指示をされる側とが固定され、いつしかその環境に双方が適合し、役割にはまっていきやすくなります。
社会状況が複雑化、流動化して、分かりやすい正解が見いだせない現在、主体的な学び、自律的な行動が求められています。
もし、学習者が主体的に学ぶことを願ったり、部下が自分で考えて自律的に動くことを願ったりするならば、縦の力を弱めて、相互に学びあう横の力を強めていく必要があるでしょう。
そのためには、縦の力が働いている環境の下で身につけたパターンに両者が気づき、それを手放していく必要があります。
その気づきが起こりやすくなるための仕掛けが、「媒介としての第3者」の存在です。
グーとパーしかなかったジャンケンに、「媒介としての第3者」としてチョキが加わることで、関係性が流動的になるのです。
一方的に情報が流れる「縦の関係」は、相手からのフィードバックループがないので振り返りによる経験学習が起こりにくくなりますが、「媒介としての第3者」の存在によってフィードバックループができるので、両者に経験学習が起こりやすくなり、内省を通した学びと気づきが生まれやすくなります。
フィードバックループが生まれ、両者が振り返りによって気づきを深めていくことで、固定化されていた役割が緩み、主体的な行動が生まれやすい環境が整っていきます。
筒井洋一さんが、京都精華大学時代に行ったグループワーク概論では、CT(Creative Team)と呼ばれるボランティアが教員の代わりに前に立って授業を行い、教員ーCT-学生ー見学者が、授業後に振り返りを行うという形をとっていました。
その様子は、筒井洋一さんらの著書
の中で解説されています。
グループワークは、学生の主体的な学びによって成り立ちますが、多くの学生は、これまで育ってくる中で「受動的な学びの態度」を身につけていることが多いです。
その枠組みをゆらがしていくのがCTの存在です。
学生と年齢のあまり変わらない若いCTが、目の前で、失敗を繰り返しながら授業創りを行い、学生や見学者、教員からのフィードバックを受けて学び、成長していく様子に触発されて、学生の主体的な活動が引き出されていき、学生もまた、CTや見学者、教員からのフィードバックを受けて学ぶようになっていきます。
グループワーク概論では、CTという媒介者、さらには、見学者も媒介者となり、複雑な関係性が教室内に生まれて、学生は適合すべき枠がないことに戸惑いながらも、主体的に動き始めることを促されていく仕組みになっています。
2012年12月にスタートした「反転授業の研究」では、2014年から学習者中心のオンライン講座を、主に教員向けに実施するようになりました。
主体的な学びが起こるための場の作り方として、筒井洋一さんたちの取り組みを参考にし、
講師+運営 - 運営ボランティア - 受講者
という3者関係を作り、運営ボランティアには、運営の顔と受講者の顔の両義性を持たせることで、媒介者の役割を果たしてもらうことにしました。
講座が継続する中で、受講者を体験した人が、その次には運営ボランティアの役をしたり、運営や講師の役割をしたり、というように役割を変えていくことで、関係性がフラットになりやすい状況が生まれていきました。
ママの起業家(=ママプレナーズ®)向けのオンライン講座を実施しました。このときは、運営のリソースが足りなかったため、受講者の中から「運営盛り上げ隊」を募集するという方法をとりました。
講師+運営 - 運営盛り上げ隊 - 受講者
という3者関係を作り、運営盛り上げ隊は、もともと受講生であり、かつ、運営としても関わるという両義性を持つ媒介者の役割を持つことになりました。
その結果、受講生が主体となったスピンアウト対話が1カ月で30回以上も実施されることになり、過去最高レベルの活性化した場となりました。
コミュニティの自己組織化をテーマにした2ヶ月間のワークショップを実施しました。コンテンツはすべて動画で、オンラインの対話を中心とした構成で、0期と1期は、運営ボランティア10数名が、運営と受講者とを繋ぐ形となりました。
0期のときは、反転授業の研究のメンバーが運営ボランティアに入り、1期のときは、0期の受講者の中から運営ボランティアを募りました。
講師+運営 - 運営ボランティア - 受講者
という3者関係を作ると、運営ボランティアが、運営と受講者の両義性を持つため、受講者の主体的な動きが引き出されやすい形となりました。
2期では、運営ボランティアを媒介ではなく、運営サポートという形にして、
講師+運営+運営サポート - 受講者
という2項関係にしたところ、「講座感」が生まれて、受講者の主体的な動きが、前の2回よりも少なくなったと感じました。
改めて、媒介者の存在が重要であることに気づくきっかけにもなりました。
学習者中心のオンラインの学びの場の作り方を伝えるオンライン講座を1カ月で実施しています。講師が一方的に伝える時間を減らすために、コンテンツはすべて動画にして、学習者がMoodleやスクールタクトといったプラットフォームに課題を提出し、お互いの違いから学びあう協働学習の場創りをしています。
受講者が教育関係者が多いこともあり、旧来の講座の枠組とは違うことを認識してもらうための媒介者の役割が、他の講座にもまして重要になります。
この講座では、共創カタリストという役を、元受講生の中からお願いしています。
講師+運営 - 共創カタリスト - 受講者
という3者関係の中で、受講者が受講者としても関わっている共創カタリストに触発されて活動しやすくなります。また、共創カタリストは、受講者に近い立場から運営と講師にフィードバックを与え、それを参考にして講師と運営は、講座を柔軟に調整しながら進めていくことができます。
自己組織化する学校プロジェクトでは、子どもが興味関心に従って、自由に選択したり、決断したりできるオンラインの学びの場創りをしています。
ここでは、子どもが教え役になり、大人が聞き役になり、ファシリテーターが媒介者となります。
教え役(子ども)-ファシリテーター(大人)-聞き役(大人)
という3者関係の中で、それぞれが、日常の役割を抜け出して、いきいきと学んでいます。特に子どもたちが、この学びをとても楽しんでいます。
西條剛央さんの本質行動学を学ぶためのスクールです。100人100通りの学びということで、学習者中心の学びが設計されました。
ここでは、
講師+運営 - FA(Facilitative Assistant) ー 学習者
という3者関係が取り入れられ、私はFAとして関わりました。
FAや学習者が多様な部活動を立ち上げるなど、学習者主体の活発な動きが生まれました。
媒介者を加えて、主体的な活動を促進するオンラインの場を体験してみませんか?
「Zoomを使ったオンライン講座の開き方」は、定期的に開催しています。
私たちは、主体的な学びや自律的な組織に関する情報を発信しています。
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与贈工房通信 ← 生命型リモート組織が目指す世界
by ]]>挑戦を本格的に始めてから半年が過ぎ、「生命論的パラダイムで生きる」ということが、どういうことなのかが少しずつ見えてきたので、ここにまとめておく。
生命論的パラダイムについて語る前に、機械論的パラダイムについて語っておきたい。
機械論的パラダイムの特徴は、過去の延長線上に未来が存在することである。
自然界も人間も、すべてが「予定通り」に動き、秩序が維持される。
その前提があるからこそ、過去のデータの集積から法則性を見いだし、それを未来に適応していくという戦略が意味を持つ。
機械論的パラダイムの敵は、故障、エラー、誤差などの不確定要素である。
それらが存在しないことによって秩序が維持され、その秩序が未来に対する不安を軽減し、「機械論的安心感」を与える。
終身雇用が成立していた時代は、問題を起こしさえしなければ、身分と収入が保証され、長期の住宅ローンを組むことができた。
しかし、現在は、そのような保証をしてくれる企業は減り、「機械論的安心感」を得ることが、どんどん難しくなっている。
成功法則はすぐに陳腐化して使えなくなる。
「機械論的パラダイムにおける安心感」を求めても、その試みの多くは失敗に終わり、不安が増大していく。
では、いったいどうすれば、今の状況の中で、安心感を持って生きることができるのだろうか?
自分自身が森の中の1本の木であることをイメージしてみよう。
自分が木として、枯れずにいられるのは、自分が未来を予想し、その予想通りに森の生命活動が行われているからではない。
自分も含めた森の生き物が、生命活動を躍動させていれば、様々な循環が生まれ、自分も森も生きていけると確信できるのではないだろうか。
そこに生命論的パラダイムにおける安心感の手がかりがある。安心感の根拠は、予想ではなく、生命の躍動なのだ。
2016年4月頃、私は、本当に迷っていた。
その頃の私は、右足を機械論的パラダイムに乗せ、左足を生命論的パラダイムに乗せていたのだ。
心の中では、生命論的パラダイムに重心を乗せたいと思っているが、それでどうやって生きていけるのかが見えないことが不安で、なかなか思い切ることができなかった。
一方、自分を長期間支えてきた機械論的パラダイムにも陰りが見えてきて、同じことをやっても収益が上がらない状況になりつつあった。
迷いに迷った末、確信は持てないまま、生命論的パラダイムに全重心を乗せることにした。先が見えないから不安だという考え方そのものが、機械論的パラダイムにおける不安感だと思ったのだ。
全重心をかけると、見えてくる景色が一変した。半分だけ重心を乗せているのと、全重心を乗せるのとでは、全く違うのだ。
半分だけ重心を乗せていたときは、リスク管理をしていたが、飛び込んでしまった以上、向こう岸まで泳ぎ着かなければ死んでしまうので、自分の中の「生きる力」が立ち上がり、必死になって泳ぎはじめたのだ。
自分のマインドセットを生命論的パラダイムに切り替えるために、毎月10万円使っていた広告費を、すべてペイフォワード予算に振り替えることにした。
広告は、過去のデータを下に反応率を計測し、反応率がよいものへと改善していくものだが、その結果として、消費者マインドを強く持った人が集まってくる。それが、旧パラダイムの象徴のような気がして違和感を感じ始めたのだ。
ただし、単に広告を止めただけでは、人が来なくなるだけだ。考えた末に、広告とは180度違うことにお金を使おうと思った。それが、「ペイフォワード予算」だった。
自分の周りに循環が生まれ、その循環によって自分が生きていけるようになることを意図したとき、まずは、自分からはじめようと思った。
とはいえ、毎月10万円、見返りを求めずに、感謝と応援に使っていくというのは、なかなか難しいことだ。
だからこそ、毎日のように、自分は、どこに感謝を感じているか、世界のどこを応援したいと思っているか・・と真剣に考え、払う先を決めて払っていく。
2016年5月から7ヶ月間やってみた結果、素晴らしい気づきを得た。
機械論的パラダイムにおける不安の源は、不確定要素であったが、生命論的パラダイムでは、不確定要素こそが創造の源になるのだ。
自己組織化が起こるターニングポイントは、ゆらぎが広がらずに消失してしまうか、増幅されて渦が広がっていくかどうかにある。そのような活性化した場が周りにできていれば、創造の渦が巻き起こっていく。
自分の周りの場を活性化させ、ゆらぎが増幅されて広がっていくようになれば、自分は生きていくことができる。「ペイフォワード予算」は、自分の周りの場を活性化させるための投資だと考えると、全く非合理的な行動だと思っていたものが、合理的な行動だと思えてきた。
多くの人とコミュニケーションを取りながら生きていると、ちょっとした思いつきや提案などがやってくる。
それらの多くは、計画に従って動いているときには無視されるような小さなゆらぎである。
しかし、それを無視しないで、片っ端から増幅していくと、毎週のように新しいプロジェクトが立ち上がるようになる。
ゆらぎを無視しないだけでなく、増幅していくのだ。そうすると、共創造のサイクルがどんどん回り始める。
不確定性は増大し、1ヶ月後に自分が何をやっているのか全く予想できなくなる。
ただし、それは不安ではない。
こんな頻度でプロジェクトがニョキニョキと立ち上がっていくのであれば、生命の躍動に支えられて生きていくことができるはずだという安心感があるのだ。
私は、これを「生命論的パラダイムにおける安心感」と名づけた。
半年前、「機械論的パラダイムにおける不安」を強く感じておびえていた私は、異なる種類の安心感を手に入れた。
最近は、予想の付かない展開に次々に巻き込まれるようになってきた。
未来は、余計に予想不可能になってきた。
しかし、それは、不安ではなく希望である。
by ]]>
物理学科の中では、優秀な人たちは宇宙論か素粒子論へ進む。そこでの激しい競争に身を投じる自信のなかった私は、それ以外の分野で面白いテーマはないかと考えていたのだが、そんな私にとって「カオス」は、まさにぴったりなテーマだった。
私がカオスに惹きつけられた理由は、競争に勝ち抜く自信がなかったことに加えて、カオスから、パラダイムシフトの香りがしたことだった。
当時、科学が人を幸せにしているという神話を信じられなくなっていて、どうせやるなら、パラダイムシフトを起こしていく側に回りたいという想いがあったのだ。
そんなこんなで、この分野を極めることを勝手に決意し、猛烈な勢いで、カオス、非線形物理、自己組織化、複雑系・・などを学んでいった。
卒業論文を書きながら、いつも傍らに置いていたのが、H・ハーケンの『協同現象の数理ー物理・化学・生物における自律形成』だった。
ハーケンは、多くの量がお互いに関係し合う複雑なダイナミクスにおいて、どのようにして秩序が生まれてくるのかを研究し、その結果、「隷属化原理」というものを見つけた。
これは、様々な変数の中で、ゆっくり変化する量が秩序パラメーターのように振る舞い、その他の変数がそこに「隷属」していくという仕組みだ。
秩序パラメーターというのは、変化を外側からコントロールする量だと考えればよい。たとえば、水の融点を調べる実験を行う場合は、水槽を固定し、ゆっくり温度を下げていく。この場合、水分子同士の相互作用などが観察しているダイナミクスで、温度が秩序パラメーターになる。
このような人為的な実験では、ダイナミクスと秩序パラメーターとを区別するが、自然界には秩序パラメーターなど存在せず、ダイナミクスしかない。
しかし、変化の速度が速い量と遅い量とがある場合、変化の速度が速い変数から見ると、遅い変数は、あたかも「定数」のように振る舞うようになる。
例を挙げよう。私たちの日々の活動に比べて、太陽系が形成されて消滅していくダイナミクスは遙かにゆっくりしているので、私たちは、太陽系を「変化せずに存在しているもの」として捉え、そこに適応していく。
「変化せずに存在しているもの」はフレームワークを与える。フレームワークが与えられると、その内部で最適化が起こり、ダイナミクスが単純化してくる。いくつかの変数が定常状態に落ち込むと、それは、新たに「変化せずに存在しているもの」となり、他のダイナミクスのフレームワークとなる。このようにして、乱雑な状況から秩序が生まれてくる。ハーケンは、これを、協同現象(シナジェティクス)と呼んだ。
隷属化原理に基づいた協同現象については、理解できたが、私が知りたかったことは、自発的に複雑化していくプロセスだった。それこそが、私の考える自己組織化のイメージだったのだ。
イリヤ・プリゴジンの『ゆらぎを通した秩序』という言葉にヒントがあるのかと思い、修士課程では『散逸構造』の自主ゼミを行った。
熱力学第2法則は、孤立系ではエントロピーが増大していくことを主張する。つまり、コーヒーにミルクを入れると、どんどん混ざっていくように乱雑さが一方的に増大していくのだ。
しかし、非平衡開放系では、エネルギーや物質の循環が起こる可能性があり、混沌とした状態から秩序が立ち上がってくる可能性がある。
プリゴジンは、非平衡状態の熱力学を用いて、一様な状態から、秩序が立ち上がっていくダイナミクスを明らかにし、「散逸構造」と名づけた。
ゆらぎが増幅され、時空間パターンが形成する例として有名なのは、B-Z反応だ。
プリゴジンは、BZ反応の速度方程式の本質的な部分を抽出したモデルであるブリュッセレータを数学的に解析し、非線形性によってゆらぎが増幅され、一様な状態が不安的化し、縞模様や、振動するパターンが生じてくることを示した。
このような生き物を想起させるようなパターン形成に、私はワクワクし、このような研究の延長線上に、生き物らしさの理解があるのではないかと思った。
自分は何に惹かれているのだろうかと問いかけながら研究を進めていく中で、生命現象の自己組織化へと興味が向かっていった。
ビッグバン以来、自発的対称性の破れが次々に起こり、異なる状態同士が接するインターフェースのところに散逸構造のような渦が巻き起こり、隷属化原理によって単純な構造に落ち込む働きと、更に複雑な仕組が生まれていく働きとが拮抗しながら、より高度な秩序を創りだした結果として生命が生じていると考えたときに、生命は、究極の自己組織化現象だと思ったからだ。
私は、袋小路にはまったときに、ゆらぎを増幅させて、そこから脱出していくことができるという部分に生命らしさを感じる。
あるフレームの内部で最適化されていく活動と、そのフレーム自体を抜け出して、創造的な解を見つけ出していく活動とが両立するようなダイナミクスが、生き物のダイナミクスなのではないかと考える。
ある行動ルールを与えたサブユニットが相互作用した結果、集団の中にサブユニットに帰着できないような活動が生まれ、それが、私の考える生き物らしさを表現してくれるのではないか?
非線形現象、カオス、散逸構造、協同現象・・などの概念の絡み合いの中で、生き物の創造性を理解できるのではないか。
複雑系研究者の多くが、そのような想いで創発システムを研究していたのだと思う。
私も、同じ夢を思い描きながら、細胞性粘菌を研究していた。
偏微分方程式で書いた細胞モデルを相互作用させ、細胞集団に個々の細胞モデルの性質には帰着できない時空間パターンを発生させることには成功したが、それは、私がイメージしていた生き物らしさには遠く及ばないものだった。それは、いつも決まったパターンに落ち着くものであった。隷属化原理に基づいた協同現象はシミュレーションによって再現できるが、創造性は発生しないのだ。
創発が起こるためには、何が足りないのだろうか?
その疑問は解決しないまま、大学院の博士課程を中退した。
10年以上経ち、様々な巡り合わせにより、再びこのテーマについて考えることになった。
反転授業に関わるようになり、学び、組織、社会を、自己組織化の原理で変えていきたいと思って活動を始めた。
自己組織化について考える中で、協同現象と創発の違いについて、改めて考えることになった。
そのきっかけになったのは、清水博さんの『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化が2種類に分類されていたことだった。(詳しくはこちら→ 『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと)
・散逸構造的な自己組織
・<いのち>の自己組織
前者は、固定されたフレームの中で隷属化原理にしたがって再現可能が繰り返されていくような自己組織である。
後者は、清水さんによると「内在的世界と外在的世界とを循環しながら起こる自己組織」である。
「内在的な世界」をどのように捉えたらよいのかが分からなかったが、私が探究したい自己組織は、後者であることは明らかだった。
その後、安冨歩さんの『合理的な神秘主義』を読み、安冨さんとお話しする機会があった。
そのときから、記述の原理的限界がどのようにして生じるのかということを考え始めた。
神秘=記述の原理的限界の外側
と定義し、なおかつ、その存在を仮定したことで、清水さんの「内在的世界」は、記述の原理的限界の外部に存在する世界のことを指しているのだと理解することができた。
記述をするためには、フレームが必要になる。
フレームを設定した瞬間、フレームの外部は存在しなくなる。
外部の存在は、境界条件や、ゆらぎ、という形で代替される。
シミュレーションでは、ゆらぎは、ホワイトノイズとして導入される。
ホワイトノイズは、単に内部のダイナミックスを起動するだけの役割を果たし、その結果、内部のダイナミックスが再現可能な形で現れる。
しかし、私の思考に入ってくるゆらぎは、ホワイトノイズではない。
それは、いわば、私の脳細胞や体細胞が、私を取り巻く世界からの情報を受け取りながら生きている結果として起こる生命活動のささやきの総和であり、膨大な情報処理がなされた結果として生じるものである。
私の思考に入ってくるゆらぎには、私と私を取り巻く宇宙の情報が凝縮されている。ちょっと大げさな言い方だが、私を含む宇宙のダイナミクスの一つの現れだと考えることができる。
そのようなゆらぎが増幅されたときに、創造的な活動が生まれていくのだとすると、私の粘菌モデルに創発が起こらなかった理由は明らかだ。
安冨さんが、Facebookの私の投稿に、次のようなコメントをしてくれた。
プリゴジンの「散逸構造論」に、創発への道を夢見て、非線形科学に入ったので、ハーケンの「隷属化原理」という名前に違和感を覚えてしまったのだけれど、『貨幣の複雑性』を書き上げて、よくよく考えてみると、いわゆる構造形成では必ず隷属化が起きていることに気づきました。
たとえば、貨幣の生成では、そこに効率性の向上と不平等の形成が不可避的に起きる。この状況下で人々が「最適化」を目指すと、貨幣が崩壊して元の不効率で平等な状況に戻る。
コンピュータで、いくらやっても、より複雑であったり、より豊かであったり、より平等あるような状況への変化が起きないので、困ってしまったのだが、ある時、そこから先に行きたければ「創発」が起きなければならないず、それは「隷属化原理」に従う「協同現象」ではありえないのだ、と気づきました。
そう考えると、夢を膨らませてくれたプリゴジンより、夢を凋ませてくれたハーケンの方が、正確だった、ということかもしれません。もちろん、両方いてくれたから、たどり着いたのですが。
安冨さんの言葉を手がかりにして壁を登っていった結果として、創発の概念を自分なりに理解できたことができ、感謝の気持ちで一杯になった。
自分の内部から沸き上がってくるゆらぎを無視し、「正しいと教えられたこと」に基づいて論理的に生きていくと、創発が生まれなくなるのだと思う。
だから、ちょっとした思いつきや、やってみたくなったことは、自分の思考が意味づけできなかったとしてもやってみるようにしている。
それは、脳の上にソフトウェアとして走っている「思考」よりも、遙かに複雑なプロセスによって浮かび上がってきたものかもしれない。
ゆらぎに詰まっている叡智を信じて増幅していくと、どんなことが起こるだろうか?
ワクワクしながら、人生の実験を続けていく。
by ]]>私が立ち上げている「生きるための物理」は、安冨歩さんの「生きるための経済学」をフレームワークとして使いながら、自分の人生の学びを語っていくものだ。
そして、それをプロトタイプとして、「みんなも、それぞれの人生の学びを語ってみようよ!」と呼びかけていくムーブメントが、生きるためのXである。
安冨さんは、「生きるための経済学」を次のように定義する。
「生きるための経済学」とは、ネクロ経済学の論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、ビオ経済を活発にするための経済学である。
ネクロ経済学とは、安冨さんの造語である。
自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化
という思考連鎖による経済学を、「ネクロフィリア・エコノミックス」(略してネクロ経済学)と呼んでいる。
一方で、ビオフィリア・エコノミクス(略してビオ経済学)は、
自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発
という思考連鎖による経済学であり、これも安冨さんの造語である。
それを、物理学に当てはめるとどのようになるだろうか?
この文脈で物理学のことを考えたときに思い浮かぶのは、物理学から生まれた機械論的パラダイムによる魂の植民地化プロセスである。
生き物は、最適化モードと探索モードとを持ち、それらを自由に行き来しながら魂を躍動させる。
しかし、機械論的世界観は、魂の躍動を封殺することで、すべてが予定通りに動く世界を作りだしてきた。
そこで封殺されてきたものは、外部の自然であり、私たち内部の自然である。
そこで、私は、「生きるための物理」を次のように定義したい。
「生きるための物理」とは、機械論的パラダイムの論理を明らかにし、その破壊的側面を抑制し、生命の躍動を活発にしていくための物理学である。
物理学=機械論ではない。機械論的パラダイムを乗り越え得る様々な知を内部に蓄えてきた。今、私が、機械論的パラダイムの破壊的側面に対して思考を巡らせることができるのは、機械論的パラダイムを通過し、非線形物理や、複雑系、生物物理、量子力学などを学んだからである。
生命の躍動を活発にするための鍵になるのが、「創発」という概念を理解することである。
今日のブログでは、「創発」に対する私の考えを書いてみたい。
Wikipediaを見ると、創発について、以下のように書いてある。
創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
私が、大学院で細胞性粘菌の形態形成について研究していたときも、実は、上記のようなイメージで創発を捉えていた。
多数の粘菌アメーバが合体し、多細胞の移動体という部分の総和に留まらない組織が「創発」すると考え、アメーバ細胞の数理モデルを相互作用させ、多細胞体の境界が「創発」されるメカニズムを抽出しようとしていたのだ。
しかし、安冨歩さん、深尾葉子さんとの対話から、私がシミュレーションによって見いだそうとしていたのは「創発」ではなく、「協同現象」に過ぎないことに気づいた。
協同現象というのは、対流や化学反応のパターン形成のように、物質間の相互作用からマクロな構造が生まれる現象のことだ。
サブユニットに単純なルールを与えて、相互作用させることによって対流のようなマクロなパターンが生じるのは、まさに「協同現象」である。このとき、各サブユニットは、基本的に交換可能な「同質なもの」であり、プログラムなどに記述可能である。
では、創発とは何だろうか?
清水博さんは、『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化現象を次の2つに分類している。
※詳しくは、『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと を参照。
物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。
<いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。
物質的な自己組織とは、協同現象に相当し、<いのち>の自己組織が、創発が起っている現象に相当する。
機械論的パラダイムの中で行われた工業化モデルの教育システムでは、人間の自由な探索モードを抑制し、最適化モードのみを発動させて条件付けるので、人間の行動が同質化され、単純なルールで記述可能なサブユニットと見なせる状況が生まれる。そのとき、人間社会には、協同現象が自己組織化しやすくなる。
人間の自由な探索モードを強く抑制する課程で作動するのが、
自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化
という思考連鎖である。
条件付きの愛情などにより探索モードの発動を抑え込まれると、「才能のある子ども」として、自己嫌悪を抱えながら用意されたレールの上を走るようになる。そして、用意された「選択の自由」の中で虚栄心を得られるように行動を最適化する。
このように外部から行動を最適化された人間は、機械論的組織の中で、上から下りてくる指令を正確にこなす「機能的人間」としての役割を果たすことを期待される。
私は、それこそが、機械論的パラダイムの破壊的側面だと思う。
一方で、人間の自由な探索モードを正常に発現させると、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようになり、コミュニケーションのPathの柔軟なつなぎ替えにより、マクロな循環構造が予想不可能な形によって生まれる。それは、人間同士の間だけでなく、個人の思考のネットワークの中でも起るだろう。
私は、このようなプロセスで起る現象を「創発」と読んで、「協同現象」と区別したい。
では、サブユニットにランダムネスを与え、複雑なコミュニケーションのネットワークが張り巡らされるようなシミュレーションを行ったら、「創発」を再現できるのだろうか?
私は、そうは思わない。
自由な探索モードによる行動には、各個人の歴史性、身体性が伴っており、無意識レベル、身体レベルに蓄えられた膨大な情報から浮かび上がってくるプロセスが本質的に重要なのだと思う。それを、ランダムネスで近似してしまったら「創発」には、きっとならない。
私たちは、理由は分からないけど、なんとなく行動を始めることがあり、しばらくしてから、なぜ自分がそれをしたかったのかを理解することがある。
<いのち>を持った存在は、身体知レベル、無意識レベルでは価値判断をしており、創発的計算の末に直感的に行動を選んでいるのだ。
それは、おそらく原理的に記述不可能な領域であり、強引にランダムネスで置き換えると、単に協同現象を観察することになる。
協同現象は、外部に条件つけられ「最適解」や「安定状態」へ移行する現象である。一方、「創発」は、枠組みを脱出し、意味をずらしていく現象である
だから、創発は、記述の世界に落とし込んで知的に理解するものではなく、各自が、自らの身体を使って作動させ、体感によって納得するものだと思う。
自然界は、創発に満ちている。自分の身体を使って創発を起こす体験は、自然との繋がりを取り戻すことを意味する。
創発的な場を、数多く創っていこう。
そして、体験を共有する人たちと語り合っていこう。
生命論的なパラダイムとは、創発を共通体験として持つ人たちによって広がっていくものだと思う。
by ]]>粘菌にはたくさんの種類がありますが、単細胞アメーバが合体して移動体を形成する細胞性粘菌と、多核単細胞の巨大アメーバを形成する真正粘菌が有名です。
細胞性粘菌は、もともと生物の形態形成や分化比率制御のプロトタイプとして多くの研究者によって研究されてきた生き物ですが、粘菌の生態には、もっと広い意味での生きることの様々な側面が凝縮されていて、たくさんのことを教えてくれます。
真正粘菌は、ネットワークを形成し情報処理をしたり学習をしたりすることができ、思考の原形を見せてくれます。
生命論的パラダイムについて考えていく上で、粘菌というプロトタイプを頭に置きながら思考することは、たいへん有効なのではないかと思います。
大学院時代に僕が取り組んでいたのは、細胞性粘菌アメーバの集合のメカニズムでした。
細胞性粘菌アメーバは、バクテリアを食べ尽くすと飢餓状態に陥り、cAMPという情報伝達物質を分泌するようになります。このアメーバ細胞は、cAMPに対する受容体を持っていて、自分や他のアメーバが分泌するcAMPの量が一定の閾値を超えると発火して、cAMPをドバッと分泌する性質を持っています。
これは、ニューロン細胞とよく似た性質で、非線形振動子としてモデル化することができます。
非線形振動子は、パラメーターによって、外から刺激を与えたときに発火する興奮性を示す状態と、外から刺激を与えなくても自律振動する状態とを取ることができます。
僕が研究していた20年前は、ペースメーカーと呼ばれる自律振動するアメーバ細胞がいて、その周りに興奮性を示すアメーバ細胞がシグナルをリレーしながら集まってくるという説明がされていました。
僕は、どうしてもこの説明に納得がいきませんでした。
生物の発生の根本には、最初は同じ細胞であるにも関わらず、相互作用によって自発的に対称性が破れ、役割が分化していくという性質があると考えていたので、「じゃあ、ペースメーカーは、どうやって誕生したんだ?」と思ったのです。
それで、「すべての細胞が同じであるにもかかわらず、自律振動する細胞と、興奮性を示す細胞が現れるメカニズムとは何か」ということを考えました。
それで見つけたのが、興奮性を示す細胞の密度を大きくしていくと、あるところで、みんなで自律振動するようになるということでした。
タイミングがそろって、ドバッとcAMPを出すようになると、場に溢れだしたcAMPの瞬間的な量が大きくなり、閾値を超えてそこにいるアメーバ細胞が発火できるようになるのです。そして、再びcAMPをドバッと出す・・・というのが繰り返されていきます。
1つのアメーバ細胞では自律振動できなくても、周りにアメーバ細胞がいて、お互いに引き込みながら同時に振動しているからこそ、自律振動できるというメカニズム。
僕は、これこそが生き物の本質を表しているのではないかと思いました。
今年になってから、清水博さんの『<いのち>の自己組織』を読みました。
清水さんは、物質が示す対流のような自己組織と、<いのち>の自己組織とを区別して論じています。
清水さんが言う<いのち>の自己組織とは、個体が自分の<いのち>を場に投げ込んでいった結果、場に<いのち>のドラマが起こり、そのドラマから個体が「活き」を受け取っていくというもので、清水さんは、それを、与贈循環と呼んでいます。
与贈循環については、こちらをご覧ください。
この本を読んだときに、細胞性粘菌のcAMPの分泌によるパターン形成と集合のプロセスは、まさに、与贈循環を表しているものだと思いました。
細胞性粘菌の集合メカにズムを知っていたおかげで、与贈循環という概念を深く理解することができたのです。
粘菌アメーバが集まってくると、密度が高い領域が生まれ、そこから外側へ広がるcAMPの渦が生まれます。
粘菌アメーバは、コミュニケーションと移動を通してシグナルを増幅していき、渦を生み出し、渦の中心へと集まって合体するのです。
その壮大なドラマをこちらの動画で見ることができます。
胞子から発芽して、アメーバになり、集合して他細胞体である移動体になり、子実体を形成するまでの動画
集まっている様子を上から見た動画
集合期に発生するcAMPのらせん波の渦
細胞性粘菌からは、多くのことを学ぶことができます。
インターネットが発達し、オンラインでコミュニケーションを簡単に取れるようになったことで、人と人との間を情報が飛び交うようになってきました。
粘菌アメーバが、飢餓状態になることでスイッチが入るように、僕たちも東日本大震災の後の危機感によりスイッチが入り、想いがシンクロし始めているのではないかと思います。
ただし、僕たちは、粘菌アメーバの1つのような視点で社会を捉えており、自分たちを取り巻く状況を俯瞰することはできません。
時代の変革期の中で、局所的で限定された情報しかない中で渦を起こしたり、渦に巻き込まれたりするような存在なのです。
その位置から感じ取れる限られた情報の中で、重要な意味を持つのが、シンクロが起こる頻度です。
頻繁にシンクロが起こる方向へ進むことで、より大きな渦を起こしたり、巻き込まれたりしていきます。
シンクロを頼りに、右往左往しながら、徐々に形成される渦によって生まれる動きは、プロパガンダによって外部から誘導される動きとは全く異なるもので、自然の摂理に基づいた<いのち>の自己組織化現象です。
私たちの身体も自然の摂理に従っており、それを発動させることで、大きな渦が起こっていくのではないでしょうか。
粘菌アメーバが合体し、多細胞体を形成して長距離を移動していく様子は、まさにパラダイムシフトをイメージ化したものではないかと思います。パラダイムシフトを目指す僕の活動は、細胞性粘菌に導かれるように進んでいるような気がします。
真正粘菌は、多核単細胞でありながら、脳と似た構造を持ち、学習や記憶などの知的能力を示すことができます。
自然に近い状態では、真正粘菌はフラクタル的な複雑な形態をしており、探索行動と選択のバランスを取っています。
各部分は、非線形振動子と見なせる構造を持ち脈動し、脈動に応じて細胞質流動が起こります。そのメカニズムが統合されることで、複雑な情報処理と変形や移動、学習を可能としているのです。
その仕組みは、おおざっぱに言うと、次の通りです。
真正粘菌の一部に餌を接触させると、その部分の非線形振動の振動数が大きくなり、その部分から他の部分へ波が伝わっていき、その波動のパターンが細胞質流動を生み出し、餌を取り囲むように全体が移動してきます。
一方、青い光などを一部に当てると、その部分の非線形振動の振動数が小さくなるため、波は、光を当てた側と遠い側から伝わるようになり、青い光から逃げるように移動し始めます。
このように細胞に与えられた外部刺激を非線形振動のネットワークがパターンとして統合し、そこから変形や移動を起こして、意味のある行動を、その時々で創りだしていくのです。
これを社会のメタファーと捉えると、各個人が学習回路を正しく作動させ、それらが有機的に繋がることで、社会全体として複雑な情報処理をすることができ、自然と調和状態に到達するというように考えることができます。
これは、論語の「学習に基づいた社会秩序」の考えと非常に近いイメージだと思います。
粘菌の知的能力を実験するために、しばしば粘菌に迷路を解かせる実験というものを行います。
迷路の2カ所に餌を置くと、その2カ所を結ぶ最短距離に粘菌は線上に分布するようになります。
この迷路実験は、見方を変えると、複雑で豊かな活動をしている生命に対して、強烈な外発的動機付けを施し線形化していくプロセスを表していると捉えることができます。
文字通り「線形化」されてしまった粘菌は、自由度を減らし、刺激に対して決まった応答を返してくる理解可能な単純な系へと縮約されてしまいます。
これは、外発的動機付けによって生命を制御可能なものにしようとしてきた工業主義的農業や畜産業を思い起こさせるものです。
学力テストを用いたアメとムチによる条件付けにより、子どもを線形化していく教育とも通じるものです。
真正粘菌もまた、様々な示唆を与えてくれる存在です。
(追記)
2016年に実施した「生きるための物理~真性粘菌に学ぶ生命論的パラダイム」の後、手続き的計算と創発的計算について考えていたところ、ソフトウェア工学の専門家である山崎進さんが、次のような問題提起をしてくれました。
記述や計算の限界を考える上で興味深い問題提起なので、これについて、引き続き考えていきたいと思います。
by ]]>学ぶことは、生きることと不可分なのだ。
外から情報を取り入れ、自分の中で統合し、身体知へと変えていくことで、外部を内部に取り込んでいく。
このときに大事なのは、入ってきた情報に対してフィードバックループを回し、自分で取捨選択して統合していくというプロセスだ。
何かしらの理由でフィードバックループが切断され、統合化のプロセスが回らないと、魂は呪縛される危険にさらされる。
人間も自然の一部であるのにも関わらず、デカルトは人間の理性を自然と切り離し、理性によって切り離した記述空間を作り出した。
その自然と分断された空間の中で科学は誕生し、科学は機械文明を生み出した。
機械文明における規範は、すべてが予定通りに動くことである。不確定要素は排除すべきものであり、予定通りに動かない部品は不良品である。
自然は、人間の居住空間から追い出され、コンクリートで固められた都市空間が誕生した。ここでは、すべてが予定通りに動くのだ。
追い出されたのは、外部の自然だけではない。
人間の内部に存在する自然も、不確定要素を生み出すものとして排除されてきた。
社会秩序を構築するために、人間は内なる自然から沸き上がってくる感情を抑え、社会における役割を正確にこなしていくことを求められるようになってきたのだ。
このような機械文明的な社会秩序を構築するために、学校教育が利用されてきた。
一方的に大量の情報を流し込み、各自が自分の中でフィードバックループを回して統合する時間を与えないようにすると、子どもたちの魂は呪縛されていき、魂の上に蓋を創り、蓋の上に機械文明への適応のためのインターフェースを構築する。
このようにして、機械文明を支える人間が大量生産される。
機械文明がもたらした恩恵もある。機械文明が生まれなければ、私は、日本のどこかの田舎で、農業をして一生を送る以外の選択肢を持つことができなかっただろう。このようにインターネットによって様々な情報にアクセスし、ブログに記事を書いて多くの人たちに発信することができるのは、まさに機械文明のおかげだ。
しかし、だからといって機械文明のもたらした闇を肯定することにはならない。
きちんとフィードバックループを回し、主体的に機械文明の中で取り入れる部分を残し、捨てるべき部分を捨てる判断をしていくことが重要なのだと思う。
機械文明は、自然のすべてを記述空間の中に写し取り、思い通りに管理できるはずだという証明されていない前提に基づいて突き進んできた。
しかし、1970年に見つかった「カオス」により、非線形システムの挙動は予想不可能であることが記述空間の内部で証明された。生命は、まさに非線形システムであり、その振る舞いを予想し、制御することは原理的に不可能なのだ。
「自然を完全にコントロールする」という機械文明の思い描いた夢は、すでに実現不可能であることが確定しているのだ。
現在、機械文明がもたらしている深刻な問題は、2つの自然破壊だと思う。
1つ目の自然は地球だ。自然を克服するという旗を掲げて突き進んできた機械文明は、毎年、地球の生産量の1.5倍を消費するようになるまで膨張してしまった。自分の乗っている宇宙船地球号を食いつぶしていった先には、当然ながら未来は存在しない。
もう1つの自然は人間の魂だ。蓋によって封じ込められた魂は、暴力的に発露する。それは、自分自身に対する暴力(=病気や自殺)という形を取ったり、他人に対する暴力(=ハラスメント、差別、戦争)といったものが起こりやすくなる状況を生み出す。
この状況をどのように変えていけば良いのだろうか?
一番最初に戻って考えてみよう。
機械文明は、デカルトが内なる自然である魂と外部世界とを切断し、分断を生み出したことから始まった。
デカルトは、『方法序説』において、複雑な現象を理解するために、十分に簡単だと思われる要素に分割して理解した後、それらを総合して全体を理解する分析と総合の手法の有効性を説いた。
これは、機械論を支える要素還元主義を生み出した。
しかし、自然は、分析と総合の手法によって理解できない存在だ。
魚を切り分けてしまったら、「生きた魚」という存在は失われてしまう。
非線形システムは、要素の集合体以上の全体性を持っていて、その全体性は分割によって失われてしまうのだ。
今、私たちがやらなくてはならないのは、分断されてしまった世界を統合していくことだと思う。
まずは、人間の魂と外部社会とを隔てる蓋を溶かし、人間の内部に生まれている分断を統合するところから始めよう。
それが、生きるためのx、自分と繋がるyという学びを立ち上げようと思った理由だ。
xやyには、各自が好きなものを入れて、好き勝手に初めて欲しい。
まずは自分が先頭を切り、xに物理を代入し、「生きるための物理」をやってみる。
9月18日に、そのコンセプトについて語る予定だ。
by ]]>それが、外発的動機付けである。
学生時代には、学力テストの点数が外発的動機付けとして使われ、自分らしく学びたい気持ちを邪魔してくる。
点数をとらねばならないというプレッシャーで後ろから押され、人よりもよい点数をとって優越感を得たいという欲で前から引っ張られる。
外発的動機付けが強い場にさらされると、子どもたちは、自分の地平で生きるのを止め、他人の地平で生き始める。
自分の頭で理解したり、納得したりすると時間がかかってしまって学力テストで点数が取れないので、点数をとるためにやり方を覚えるという方法を取るようになる。
自分にとっては無意味な作業を、外発的動機付けのために延々とやり続けるようになってしまうのだ。
この延長線上に、会社への就職があり、学力テストによって行われていた外発的動機付けが、会社での地位とお金に置き換わる。
自分の魂がワクワクしてやりたい活動をあきらめ、お金になる仕事へ時間を振り分けるようになる。
お金がないと生きていけないぞという恐れによって後ろから押され、多くのお金を持つことで「成功」したいという欲により前から引っ張られるのだ。
一度、自分の地平で生きることを手放すと、外発的動機付けがないと前に進めなくなるため、自ら外発的動機付けを求めるようになる。
このようにして、お金で支配される仕組みができあがっていく。
『ソウル・オブ・マネー』を書いたリン・トゥストさんは、ファンドレイザー(資金調達者)である。
お金をよい活動に流すために、お金を集める仕事だ。
『ソウル・オブ・マネー』を読んだことがない人は、このビデオを見てほしい。リンさんが伝えたいことが分かると思う。
彼女は、外発的動機付けに対して、次のように述べる。
「私たちは誰もが、生涯にわたり、お金への関心と魂の呼び声との綱引きを経験します。」
そして、「魂の次元」にいるときは、誠実に行動し、思慮深く、寛大で勇気があり、献身的で、愛と友情の価値を知っているのに対し、「お金の次元」にいるときは、本来の自分として認識するハートから断絶してしまうことが増えてくるのだと述べる。
最近、魂の脱植民地化というテーマにはまっている私にとっては、「魂の次元」が「自分の地平」に、「お金の次元」が「他人の地平」に対応するように思える。
「お金の次元」で生き続けることは、魂が植民地化されることを意味し、「生きるために働いている」のではなく、「死ぬために働いている」ような状況になっていくのだ。
しかし、それは、お金の問題ではなく、お金との関わり方をどのように選択するのかという問題なのだとリンは言う。
お金そのものが問題なわけではありません。お金そのものは善でも悪でもありません。お金そのものにはパワーがあるわけでも、パワーが無いわけでもありません。それは、私たちのお金に対する解釈、お金との関わり方次第であり、自己発見と自己変容の本当のチャンスを発見する場所なのです。
全くその通りだと思う。理屈は分かった。
しかし、自分の心の底まで浸透してしまっている現代社会の常識を払拭し、魂の次元でお金を使えるようになるためには、リハビリが必要だ。
そこで、できるだけ、魂の次元でお金を使ってみて、自分の内部と外部にどんなことが起こるのかを実験してみることにした。
1年近く、できるだけ「魂の次元」でお金を使うことを心がけたところ、応援を意図して、コミットメントを表現するために使うお金というものは、とてもパワフルなものなのだなということを実感することができた。
商品の価値と交換するためのお金を使うのではなく、自分が創りたい世界が広がっていくことを意図してお金を使っていくと、そのお金が高額でなくてもパワーを発揮する。
「お金の次元」で埋め尽くされている社会において、「魂の次元」で使ったお金は光を発する。
背景の闇が暗いほど、光は鮮烈な印象を残す。
自分が感謝を感じていることに対してお金で感謝を表現していったり、自分ができないことを代わりにやってくれる人に対して感謝の気持ちをお金で表したり、お金を自分の在り方の表現として使うようにすると、いろいろなクリエイティブな使い方を見つけることができた。
クラウドファンディングにお金を払うだけでなく、挑戦者に連絡を取り、うまくいく方法を一緒に考え、支援者を募るためのオンラインイベントを共に行い、支援者のコミュニティ作りを行った。
今年の5月から、それまで広告費に使っていた毎月10万円を、すべてペイフォワードに使うことを決めた。お金を「魂の次元」で使うことによって引き起こすことができるパワーを信じられるようになってきたからだ。
そのようにして使ったお金は、人と人との縁を深め、その縁から創造のサイクルが回り始める。
人を信頼できるようになり、自分のことも信頼できるようになり、心に平安がやってきて、孤独感が減っていく。
そんな経験を、繰り返しするようになった。
また、自分自身が、「魂の次元」のお金を受け取ったことは、大きな学びになった。
そのような想いがこもった応援を受けると、簡単には活動を止められないと感じる。そこに込められた願いを裏切りたくないという気持ちが沸いてくるのだ。
へこたれそうになったときに、「魂の次元」のコミットメントが思い浮かび、再び勇気を奮い起こして前に進めるようになる。
本当に金額ではないのだ。
ただし、注意しなくてはならない点もある。油断していると「魂の次元でお金を使うと、結局は得する」というような思考が回り、お金の次元に引き戻されてしまうことがあることだ。
常に自分のマインドがどの状態にあるのかを確認しながら、純粋な気持ちでお金を使えたときに、お金はリンさんの言う「超パワー」を発揮する。
そのことが、体験を通して、自分の身体の中に少しずつ染みこんできている。
自分の地平で生きることを難しくしているのは、どこに原因があるのだろうか?
最近、私は、現代社会を覆う機械論的世界観にその原因があるのではないかと考えるようになった。
大小様々な循環が起こり、それらがゆらぎながら同期して調和を保っている世界の一断片を空間的、時間的に切り取り、直線的な因果関係を見いだしていくのが、古典的な科学の手法だ。
そして、そこで見いだされた因果関係を、切り取った空間や時間の範囲外へも適用できると考えて拡張しているのが、現在の社会の在り方なのではないだろうか。
ゆらぎながら全体で調和している自然界に対して、機械論的な因果律を当てはめていくことで生じる矛盾は、地球環境問題や、私たちの心身の不調という形で表面化してきているように思う。
これらを、機械論的パラダイムを維持したまま、科学の発展によって解決することはできないと思う。なぜなら、機械論的パラダイム自体が問題を生み出しているからだ。
この問題を解決するためには、世界観を変えなくてはならない。
生きている魚を切り刻んだ後に、寄せ集めても、「生きている魚」を再現することはできないのと同じように、分割することによって失われてしまう全体性が存在する。
世界全体に存在する大小様々な循環が、お互いに同期しながら調和を生み出すという生命論的パラダイムは、機械論のように単純に記述に落とし込んで理解することができない。しかし、単純に理解できないのは、人間の認知の限界を示しているだけであり、理解できることを理由に、自然の姿を歪めてしまうのは本末転倒だと思う。
リンさんたちが始めたチェンジ・ザ・ドリーム・シンポジウムは、その名の通り「夢を変える」ことを目指すプロジェクトである。現代社会が共有している夢、つまり、世界観を変える必要があるのだ。
その夢の中では、機械論的な世界観に基づいた未来予想プロジェクトが動いており、各自は、自分の魂の作動に基づいて行動するよりも、未来予想プロジェクトが敷いたレールに沿って行動することが求められている。そのレールの上を走るための餌としてお金や地位が使われ、それは、常に充足することが無いため、永遠にレールの上を走り続けなくてはならない。
レールから外れることは怖いことで、自分の魂の作動に従うよりも、世間で言われていることに従った方が安全だと教えられている。
しかし、そのレールの先にどんな現実が待ち構えているのか。私たちが心と頭を働かせれば、気がつくことができる。
リンさんは、絶滅に向かってレールの上をひた走る人たちに向かって、「夢を変えよう」と呼びかける。
リンさんのような人が存在していることが、私たちにとっては希望だと思う。
2016年9月4日に、リン・トゥイストさんの来日イベントが東京で実施される。
この日、東京に行くことができる人は、ぜひ、来日イベントに参加してみてほしい。
魂と繋がった行動をしている人が発するエネルギーを、感じることができるはずだ。
新しいパラダイムに移行したら、過去のパラダイムに生きていた自分の人生を否定しなくてはいけなくなるような気がするからだ。
新パラダイムVS旧パラダイムの対立の末、新パラダイムが勝利し、旧パラダイムに生きていた人たちは敗者となる・・という漠然とした恐れが、パラダイムシフトを妨げる抵抗力になっているように思う。
僕自身も、このイメージにはまっていたのだが、最近、ふとしたことでここから抜け出すことができた。
そのきっかけとなったのが、『合理的な神秘主義』を読んだことだった。
この本から得た気づきが、自分の思考の枠組みに雪崩現象を起こしたということを説明するために、自分の背景について書いておく。
自分についての話は、大学3年生のときのカオス理論との出会いから始まる。
『合理的な神秘主義』を読みながら、カオス理論と出会ったときの衝撃が何だったのかを思い出していた。
一番衝撃だったことは、「世界は非線形現象で満ちあふれている」ということであり、その一部分を切り取って直線として近似する理由は、直線でないと手で計算できないからだという事実だった。
変数間の関係を直線で表すことができれば、「線形性」という性質を使うことができ、自由に分離したり、重ね合わせることができるようになる。つまり、デカルトが方法序説で述べた「分析と総合」の手法を適用できるようになるのだ。
「分析と総合」の手法を使うことができれば、複雑な現象でも単純な要素の重ね合わせとして理解できるようになるので、すべての原因を要素へ還元する要素還元主義が成り立つように見える。
しかし、重要な点は、この話は、非線形現象に満ちあふれている世界の一部を近視眼的に切り取るところから始まっていることだ。コンピューターが登場し、近視眼的に切り取った世界のちょっと外側の世界を見ることができるようになったとたんに、近視眼的に切り取った世界の内側で理解したことを、外側に適用できないということが分かってきた。その象徴が「カオス」という現象なのだ。
人間の細胞を寄せ集めても人間にならないように、要素の集合体としては理解できない全体がある。
分割してしまうことによって失われてしまう全体性が確かに存在し、そこでは、分析と総合が不可能になる。
外側と隔離した実験室の空間の中に人工的に創り出した線形現象を、現象を記述でき、実験で再現可能であることを根拠に真実と認め、適用限界を超えて実験室の外側へ拡張していったのが、機械論的世界観なのではないかと思う。
いったん前提ができあがると、矛盾にぶつかるまで進み続ける。ニュートン力学の確立をきっかけに始まった機械論的世界観は、20世紀には世界中を覆ったが、その歪みが無視できなくなってきており、前提が問い直される時期が来ている。
機械論的世界観の内側から生まれた矛盾が、カオス理論であり、量子力学である。また、外側に生まれた問題が、地球環境問題であり、アレルギーや食の問題であり、高い自殺率の問題であろう。
非線形現象に満ちあふれた世界に、強引に線形哲学を押しつけていった結果、実験室の外部である地球や、私たちの身体が悲鳴を上げ始めているのだ。
機械論的世界観が生み出したものの中で最も世界に影響を与えたものは、「未来は予想できる」という考えなのではないか。
実際の世界を、観測によって記述世界の中に写し取り、記述されているものの間に帰納的に法則を発見し、その法則を演繹的に未来へ適用することによって未来を予測するわけだが、この物語が見落としているものはなんだろうか?
『合理的な神秘主義』は、機械論的な世界観が無視している「語り得ないもの」について取り組んできた哲学者たちの思考をたどっていく本だ。
安冨さんは、それらに「非線形哲学」と名づけている。このように名づけてくれたおかげで、非線形現象の解明に20代のほとんどを費やした僕自身の様々な思考の断片を、現在の活動と結びつけて、生かせるようになった。
「語り得ないもの」とは、魂の作動のことであり、内在的世界のことである。
機械論的世界観を、生命で満ちあふれる地球上で展開していくときに、記述世界の中に写し取られずに捨てられるのが、魂の作動であり、私たちを含む生き物の内在的世界である。
実際の世界を記述世界に写し取った瞬間から、未来予想へのプロジェクトがスタートする。記号操作が示す未来が、私たちの不確定性に対する不安を減らしてくれるのだ。
ここで、記号操作による未来予想が的中するための前提条件は何だろうか?
それは、記述と記述されたものとが、一致し続けていることである。
「あなたってやさしい人よね」と言われても、未来に渡って優しくあり続ける保証はないのが人間である。
魂の作動は、記述できないものであるため、私たちの生命活動は、ある時点で記述されたものから逸脱していく。機械論的世界観が無視している「語り得ないもの」の働きによって、記述されたものと現実との間の乖離が広がっていき、それが、未来予想プロジェクトを破綻させる原因となるのだ。
じゃあ、未来予想プロジェクトを成功させるためにはどうしたらよいのだろうか?
そのためには、私たちが、魂の作動を抑え込み、記述されたとおりに振る舞い続ければよいのだ。
そうすれば、未来予想プロジェクトは予定通りに進み、私たちは未来に対する不安を感じずに日々を送ることができる。
しかし、そのためには、記述された「現代社会に住む人間の生き方マニュアル」に沿って、すべての人間が行動することが必要であり、そこから逸脱する人は、未来予想プロジェクトを脅かす存在として排除しなくてはならないのだ。
このように、機械論的世界観に基づいた未来予想プロジェクトは、生き生きとした生命活動を抑制することと不可分な関係にある。
たとえば、農業は、植物の生命活動から収穫物を得る営みであるが、ここに未来予想プロジェクトを適用しようとすると、不確定要素である「生命らしさ」を徹底的に排除していくことになる。その行き着く先が、工場における無菌の水耕栽培である。ここでは、植物は、環境応答能力を単純化され、決められたインプットに対して、決められたアウトプットを返す「物質」と化し、予定された通りの野菜が、再現可能な形でできあがる。
植物は、本来、土壌における炭素や窒素の循環の中で育つ。そのような循環構造は、まさに非線形現象であり、常にゆらぎながら調和を保ち、それが、ホメオスタシスに繋がっている。
未来予想プロジェクトは、循環の環を不確定要素として断ち切り、単純な線形応答系として捉えられる環境に植物を追い込んでいく。
ここで考えたいのは、私たちが受けてきた教育、社会秩序にも、このような未来予想プロジェクトが展開されており、その中で、私たちの魂の作動は、未来予想プロジェクトを破綻させる原因になるものとして抑え込まれているのではないかということである。
安冨さんは、「語り得ないもの」である魂の作動を直接語ることはできないが、魂の作動を抑え込む仕組みについては、語ることができると言い、「魂の脱植民地化」シリーズを展開している。しかし、『合理的な神秘主義』は、「語り得ないもの」をテーマに取り組んできた人たちの歩みを扱っており、より直接的に「魂の作動」へ近づこうとしている挑戦であるように思う。
未来の不確定性に対する不安が、未来予想プロジェクトを生み出し、そのプロジェクトが生き生きとした生命活動を抑え込むという本末転倒な状況から抜け出す道はあるのだろうか?
そのヒントは、自然界の生き物は、未来を予想しないのにもかかわらず、調和を達成しているというところにあるのではないだろうか。
火山灰に覆われた荒れ地には、いつしか雑草が生え始め、雑草の命の循環が土壌を創り出し、より大きな植物の生育を可能にしていき、いつしか、森となり、豊かな生態系の循環を生み出していく。
私たちも生き物である以上、このような生態系を生み出していく機能を身体に備えているはずだ。
ゆらぎに対して敏感に反応し、学習回路を回していくと、同期現象や、分化現象などが起こり、循環構造が自己組織化して、その中で生きていけるようになる。
未来予想プロジェクトから外れていくときには、「それで生きていけるのか?」という恐怖が生まれる。
未来予想プロジェクトが破綻しないように、いつの間にか自分の中に埋め込まれている恐怖で縛る仕組みが発動するからだ。
しかし、そこから抜け出すことからすべてが始まる。
さんざん躊躇したあげくに一歩を踏み出した自分にとって、『合理的な神秘主義』に登場してくる哲学者たちの生き方は勇気を与えてくれ、その知恵が確信を与えてくれる。
そして、自分自身が情熱を傾けてきた複雑系の分野での研究が、非線形現象に対する暗黙知として自分を支えてくれている。
線形哲学は、非線形哲学に内包されている。
それは、ニュートン力学が、相対性理論に内包されているのと似ている。
パラダイムシフトは、機械論的世界観の否定によって起こるのではなく、機械論的世界観の適用範囲を超えた濫用がもたらしているものの存在に気づき、不確定なものを過剰に恐れずに生き物が非線形現象によって自己組織化する循環の存在を信じ、自らを循環の中に投げ込んでいくことで起こるのではないかと思う。
それは、生命論的パラダイムの一次近似として、機械論的パラダイムが限定的に利用される世界なのではないだろうか。
自分がどこに存在していて、どこに進もうとしているのかが、『合理的な神秘主義』を読んだことでクリアになった。
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NVCでは、生命エネルギーの源の存在を仮定し、源が何かを満たそうとして行動を起こし、行動が達成されれば快感情を感じ、達成されないときは深い感情を感じるというように説明している。
このように感情を捉えると、そのときの感情の快、不快に振り回されるのではなく、「この感情は、どんなニーズから来ているんだろうか?」と自らに問いかけていくことで、自分の源と繋がる道を見つけやすくなる。
コミュニケーションを取っているときでも、感情レベルとニーズレベルという二段構えで考えていると、相手の感情に対して、一時的に自分の感情が反応するものの、一呼吸おいて、その状況を俯瞰して、「お互いの感情は、どんなニーズから来ているのか?」と考え、お互いがニーズを満たし合う関係について考える余裕が生まれてくる。
実際の生活の場にNVCの考え方を取り入れ、自分の心に湧いてくる様々な感情や、コミュニケーションの中で相手が表現する感情について、感情レベルで反応するのではなく、ニーズを探求していくことで、自分や身近な人に対する理解が深まり、コミュニケーションの在り方が変化してきた。
感情に対する探究の中で、ニーズに繋がりにくい感情があることに気づいた。
他の感情が、比較的スムーズにニーズと結び付けられるのに、ある感情については、ニーズとうまく結びつかない。
それは、例えば、「自分は義務を果たしていないという罪悪感」。
もしかしたら、この感情は、自分の源から来ているのではなく、別の部分から来ているのではないだろうか?
感情について探求する中で、このような問いが生まれた。
自分の源から来ていないとすれば、それは、支配や暴力のメカニズムによって外から埋め込まれたものなのではないだろうか?
そのような仮説を立て、思考を巡らせていたときに、『魂の脱植民地化とは何か』という本を紹介してもらった。
この本の著者である深尾葉子氏は、冒頭で次の次のように述べる。
人間の魂は本来何者にも束縛されずにその生をまっとうしうる力をもっている。にもかかわらず、生きる過程において、人間は様々な呪縛を身にまとい、囚われ、自らのありようを制約する。
そして、親子関係、集団的な価値規範、様々な文化的装置によって呪縛が発生し、正当化されていくメカニズムを解明していく。
「呪縛は、罪悪感と隣り合わせで、呪縛を脱しようとする試みは罪悪感とのせめぎ合いになり「葛藤」を生み出す」という個所を読んだときに、この本は、まさに自分の問いに対するヒントをくれるものだと確信した。
深尾氏は、魂の植民地化を次のように定義する。
人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。
また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。
他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。
深尾氏は、「蓋」は、コミュニケーションを通した学習プロセスの中で形成されると言う。
人に傷つけられたくない、大切な問を失いたくないといいった自己防御的な仕組みがはたらいたり、周りによく思われたり、社会に適合した人間として成功を収めたいといった能動的、努力獲得的なものもあり、それらは、秩序形成装置として積極的に評価されてきたいうのだ。
さらに、蓋によって魂と切断された自己は、魂への裏切り行為から自己憎悪へと向かい、それらは、暴力的な発露を引き出す原因となると述べる。
これは、私たちが「反転授業の研究」の中で、外発的動機づけ(アメとムチ)によって、欲と怖れのサイクルを回して学習させる危険性について考えてきたこととシンクロする。
教室は、長い間、「しつけ」の場として機能してきた。
逃げ場のない状況で、学力テストによって序列化したり、規則に従わない者を罰したりすると、その環境に適応するために、子どもは魂に蓋をし、蓋の上に適応のためのインターフェースを構築するのではないか。
しかし、そのことに気づいた教師たちは、外発的動機づけを可能な限り弱め、教室に安心安全の場を創りはじめている。
安心安全の場を創ると、生徒たちの蓋が開きはじめ、魂と繋がった行動が漏れ出てくる。
その行動を受容し、励まし、共有することで、場に魂と繋がった行動が循環するようになると、生命エネルギーが場に溢れてくる。
これが、僕の考える反転授業であり、アクティブラーニングだ。
深尾氏は、魂の脱植民地化に有害な精神の働きとして「憑依」という概念を唱える。
ここでいう「憑依」とは、シャーマニズムのように、他者や死者、他の生命や神の精神を宿すという概念とは異なり、コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシミュレートすることをいう。これがうまくなると瞬時に他人の考えていることが手に取るようにわかるようになり、それによって即座に、どのような対応をすればよいかが割り出され、相手の心を理解した対応ができるかのように見える。
(中略)
しかし、この作業は、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではなく、自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心をなぞろうとするもので、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。
これを読んで思ったのは、日本では、「思いやり」が非常に重要視されるが、自分の魂に蓋をして、お互いが「憑依」によって、他人の感情をお互いにシミュレートし合うと、魂と切り離されたバーチャルな感情共同体が生まれるのではないかということ。
そのバーチャルな感情共同体は、各人に内面化され、お互いを見張る「目」の役割を果たすのではないだろうか。
私が、自分の感情について探求する中で出会った罪悪感の正体は、この「バーチャル感情共同体」の規範に背く罪悪感だったのかもしれない。
深尾氏は、魂と蓋、蓋の上に形成されるインターフェースを、次のように図式化する。
この図を見たときに、「これは、若いころの自分だ」という気がした。
私の母は、本人はどのくらい自覚しているか分からないが、自己実現の道具として子供を利用している部分があった。
「文武両道の息子」という理想像を達成するために、「感じる」という部分に侵入されて操作された結果、しだいに自分の感覚が分からなくなっていったのだ。
ものごとを決めるときに「母はこのように望むだろう」ということが、自分の感情のように感じられ、その一方で、自分の感情は分からないという状態になった。
「他人の期待に応える」という行為を繰り返す結果、他人の期待と自分の欲求を分離するのが難しくなり、生きることに不自由さを感じるようになった。
その中で生まれた適応行動が、他者の自分に対するイメージを操作することだったり、いろんなことをやって「よく分からない人」を演じることだったりした。
この図では、インターフェースに多くの箱が書いてある。
箱は、様々な役割を表していて、役割を移動することで、疑似的な「自由」を味わうのだ。
これは、20代の私が、やっていたことそのものだ。
蓋の上に多くの知識が乗り、それを生きるための手段として利用すればするほど、それを手放すことが難しくなる。
インターフェースが機能すればするほど、漬物石のように蓋を押さえつけ、蓋を開けることが難しくなる。
言語化できないストレスによって、毎日、咳き込むようになった。
体の不調を感じながら、大学院に進学し、多細胞生物の自己組織化の研究を行った。
昼間は私立高校で数学を教え、野球部のコーチをし、さらに、大学院で博士号を取るために研究する生活は、母の望む「文武両道の息子」そのものであった。
その一方で、箱の数は増えていき、いろんな役割を担うことで生活は多忙を極めていった。
その生活に終止符を打つきっかけになったのは学生結婚だった。
自分には直視できない部分を指摘する妻の存在は、隠蔽されていた真実を暴き出し、様々な軋轢を生むこととなった。
そこから、妻の病気、大学院中退、両親との絶縁・・・・と人生は激変し、私は自分と向き合わざるを得なくなった。
親が敷いてきた人生のレールを大きく外れたことで蓋の上に乗っていた様々な箱は無価値になり、徐々にそれらを捨てることができた。
蓋の上に乗っているものが軽くなったとはいえ、それらは自分の生存を守ってきたものであるため、すべてを捨て去ることには恐怖が伴った。
また、様々な罪悪感や、以前の生活に対する未練が立ち上がり、妻に多大な迷惑をかけた末に、5年ほどかけて、ようやく蓋を開けることができた。
変化に対して最後まで抵抗したが、最後の最後であきらめて向こう側に身をゆだねたら、世界がくるくると回転して新しい世界が生まれたような感覚があった。
その後、少しずつ、等身大の自分自身を認められるようになり、自分の感情を徐々に感じられるようになってきた。
夫婦で会社を設立し、それから10年以上、なんとか暮らしていくことができているのは、あのとき、蓋を開けることができたからだと思う。
植民地化された魂が、脱植民地化されるプロセスは、大きな痛みを伴うものかもしれない。
しかし、今は、自分の人生を生きているという実感がある。これは、かつては、感じられなかったものだ。
コーチングやファシリテーションの分野では、蓋を開ける様々なプロセスを開発している。
それらが語るプロセスは、どこか共通したところがあり、自分の体験と重なる部分がある。
オットー・シャーマー著『U理論』を読んだとき、そこで語られている変容のプロセスは、自分の体験そのものだと思った。
自分のメンタルモデルが徐々に揺らいでいき、異なる価値観を部分的に受け入れていくが、その間に、何度も揺り戻しが来て元の状態に戻ろうとし、でも、どうにもならなくなって先の見えない未来に身を投じたときに、自分が創り出していた世界が大きく変化するという体験を、U理論は整理して示してくれる。
そのプロセスは、上記の自分の体験と驚くほど一致している。
日本には、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬こそあれ」という言葉があるが、昔も今も、世界中のあちこちで、Uプロセスのようなものは体験されてきたのだと思う。
U理論のプレゼンシングの瞬間は、深尾氏のモデルの「蓋が開く」に相当するように思う。
「反転授業の研究」を主宰するようになり、10年以上を隔ててかつての研究テーマ「自己組織化」と再会した。
教師が「壇上の賢人」として生徒に知識をインストールすることを止め、「傍らのガイド役」として学習者の学びを支援するのであれば、それを目指す教師たちの集まりであるオンラインコミュニティの運営もフラットな関係を土台にして、様々な活動がコミュニケーションの中から創発するようにしたいと思ったからだ。
約4000人が集うコミュニティにおいて、何度も運営チームと受講者とが混然一体となって学ぶオンライン講座をやっているうちに、かつて学んだレーザーや対流の散逸構造の自己組織化と、コミュニティにおける自己組織化とはだいぶ異なることに気がついた。
オンラインコミュニティに起こる自己組織化は、次のようなステップで進んでいく。
(1)多くの人が場に情熱を注いでくれる。
(2)運営者は、それらを可視化して増幅していく。
(3)予想できない形で即興ドラマが展開しはじめる。
(4)その中でメンバーが多様な役割を演じ、生き生きとし始める。
(5)あたかも予定されていたかのような納得感のあるエンディングを迎える。
このような体験を通して自分の中に降りて来た言葉は「ドラマが起これば、未来がやってくる」というものだった。
ドラマに巻き込まれていくうちに、メンタルモデルの変容がおきる。深尾氏の表現を借りれば、魂が呼吸できる状態になってくる。
このような自己組織化のプロセスについて考えていたときに、清水博著『<いのち>の自己組織』を読んだ。
清水氏は、物質的な自己組織化と、<いのち>の自己組織化とを区別しており、自分がなんとなく感じていた違和感が明確になった。
物質的な自己組織 : 構成要素はボーズ粒子的(すべての要素が同じ状態を取れる)、外在的世界に存在し、外部から観測、制御することができる。
<いのち>の自己組織 : 構成様子はフェルミ粒子的(すべての要素は異なる状態になる)、外在的世界と内在的世界とを循環し、外部から観測、制御することができない。
清水氏は、サッカー場のウェーブなどにおこる自己組織を「イベントの場」における自己組織と呼び、そこでは、人々はボーズ粒子的に振る舞っていると述べる。
一方、家族、組織、コミュニティなどで、居場所を舞台として、お互いの関係性の中から<いのち>の即興ドラマが生まれることを<いのち>の自己組織と呼んでいる。
<いのち>の自己組織が起こるためには、各メンバーが自分の<いのち>を居場所に与贈する必要がある。その結果、ドラマが起これば、居場所に<いのち>が創発し、それが、各自の<活き>を引き出すという与贈循環が起こる。これは、私たちのコミュニティに生じているものそのものだと思う。
この2種類の自己組織を、深尾氏のモデルと結び付けてみると、興味深い結論が得られた。
魂に蓋がされた状態で、集団内を「憑依」のメカニズムによって感情パターンが共有されると、まさに、ボーズ粒子的な集団が生まれる。
このような集団に外部から欲や怖れによって外発的動機づけを行うと、集団には秩序だった動きが生まれ、レーザーや対流のような散逸構造的な自己組織化が起こるのではないか。
このメカニズムは、大衆を戦争などに誘導したりするときに利用されている可能性がある。
一方で、魂が呼吸できる状態の人たちが集まり、魂と繋がった行動を居場所に投じていくと、魂と場が共振共鳴し、居場所の<いのち>が創発するのではないか。
そして、そのような共振共鳴の場は、癒しの空間となり、そこに参加する人たちすべての魂が活力を取り戻すのではないかと思う。
多く人の言語化の努力のおかげで、自分の進む方向がだいぶ明確になってきた。
また、このレビューでは触れられなかったが、311後に福島で起こったことについて、この本には、これまでに読んだどの本よりも納得のいく説明が書いてあった。5年間、自分が感じていることと、流れてくる情報との乖離の大きさに孤独感を感じて苦しんだ私にとって、この本は大きな癒しになった。
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