それは、
集合知的特異点
という言葉。
これは、世間に広まっている言葉じゃなくて、僕が創った言葉。
特権を持っている場所で価値が作られ、パッケージ化されて、価格がついて、それを手に入れるためにお金が必要だから、お金のために我慢して働くというサイクルから抜けていくための方法について、ずっと考えていて、ある日、この言葉が降りてきた。
AIが人間の知性を超える日が、「技術的特異点(シンギュラリティ)」と呼ばれて、多くの人に認知されているという状況について考えていて、
「そんなことよりも、価値創造の源泉が転換するほうが大きいやん!」
と思ったのがきっかけ。
秘匿的な情報にアクセスできる特権が価値創造の源になっている状況は、インターネットによるフラット化が進むにつれて崩壊してきた。情報格差を元にしたビジネスは、次々に価格破壊が起こっている。
変わって出てきたのはビッグデータとAIを価値創造の源にしようとする状況で、GoogleやFacebookに代表されるグローバル企業が、新たな特権を手に入れつつある。多くのプラットフォームが、血眼になってデータをかき集め、そこから価値を生み出そうとしている。
でも、僕は、その先の世界を見たい。
特権を持たない「普通の人」が、繋がりあったコミュニティにおいて、共創や自己組織化によって集合知による価値創造が起こっていき、その価値が、特権を持っているところが生み出す価値を超えるとき、人々の世界観と行動原理が、根本から転換するだろう。
世界の中で生きている物語が転換するだろう。
それは、真の民主主義がやってくる日とも、言えるかもしれない。
それは、自分たちで生きる意味を創り出し、自分たちでそれを実現することができる世界だ。
僕は、その日がやってくることを願っているので、そのお祝いの日を、「集合知的特異点」と名付けて、みんなの意識をそこに向けて、プロセスを促進したいと思っている。
「集合知的特異点」という言葉が広まっていくほど、人々の意識は世界観の転換へと向かい、そのお祝いの日が加速度的に近づいてくるだろう。
生命的なプロセスの進み方は、生成的であるがゆえに予想できない。ただ、自然の摂理に沿って進んでいくだけだ。
ただし、はっきりと分かることもある。
現在の現実を支えている世界観が機能不全になるほど、その世界観を離脱して新しい生き方を模索する人が増えてくるということ。
だから、現在の世界観の機能不全化をエネルギーにして、新しい世界観が生まれてくるとも言える。
絶望が源になって、希望が生まれてくるのだ。
現在の世界観が猛スピードで機能不全に陥っている様子を見ると、集合知的特異点の到来は、意外と早いのかもしれない。
集合知的特異点を迎えるために必要なものは、次の3つだ。
1)共創や自己組織化の原理への理解の深まりと実践(生命論の哲学、ティール組織、コミュニティの自己組織化など)
2)共創や自己組織化を、誰もが体験を通して学べる環境(対話型のオンラインワークショップ)
3)共創や自己組織化を支えるテクノロジーの進歩(オンラインコミュニケーション、ブロックチェーンなど)
僕は、与贈工房というリモート組織で、自己組織化を生きることを試しながら、原理を探求している。
また、自己組織化する学校という450人のオンラインコミュニティで、新しい学び方を生み出そうとしている。
Zoom革命というプロジェクトでは、オンラインコミュニケーションを地球の神経回路として使えるようにするために、使い方のアップデートを重ねている。
これらは、世界観を変えることで、世界を変容させていくための実験場。
与贈工房は、原理の探究に、自己組織化する学校は、学び方に、Zoom革命は、テクノロジーに、それぞれフォーカスしている。
これらを通して、世界の片隅(「ローカル」)で、世界のパラダイムシフトの普遍的なプロセスを追求している。
あらゆる場所から普遍性に繋がることができるが、世界の片隅(ローカル)ほど、現在の前提を問い直していきやすい。
そして、普遍性に繋がるほど、時代の精神でシンクロしたコミュニティと出会う。
お互いに学びあうことにより、よりプロセスの普遍性に気づいていく。
このようにして「ローカル」の活動が、世界のパラダイムシフトの普遍的なプロセスによって共振共鳴して繋がりあっていく「トランスローカル」こそが、集合知的特異点へ向かう道。
世界中で生まれた実践コミュニティ同士が時代の精神で同期して繋がりあって、うねりを生み出すためのコミュニケーションのテクノロジーは、Zoom革命で開発済みだ。
コミュニティにおける共創や自己組織化によって生成される新しい意味が、すでに、世界のナラティブを変え、世界観を変えつつある。
現在の世界観の機能不全化をエネルギーとして取り込み、新しい物語が生まれる速さが加速している。
時代の変化が加速すると、消滅と生成の速度が加速する。
旧構造は、すごい勢いで消滅していき、新しい構造があっという間に出現する。
今は存在していないものが、気がつかないうちに、次々に生まれてくる。
それらの多くは、今の現状の機能不全をキャッチして、生まれてくるのだ。
世界のこのような激的な変化は、僕たちの想像の域を超え、どんな特権的な位置にいる人にも予想できない。
だから、暗い未来しか想像できなくても心配ない。
その未来予想は、当たらない。
絶望は、希望に繋がっている。
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この問いは、私が中学生の頃から、ずっと持ち続けているものです。
例えば、毎日、好きなことをやって、好きな場所に旅行に行って、好きなものを食べて・・・というのが自由なのでしょうか?
世間では、このように、「誰からも強制されないで、好きなように行動できる」という状態を「自由」と呼んでいると思いますし、私も、かつては、このような「自由」を追い求めていたころがありましたが、あるとき、気がつきました。
強制されることが当たり前になっているから、「誰からも強制されないどこか=理想郷」に逃れることが自由だと感じてしまう。
というメカニズム。
そして、理想郷に行くための道として、社会には、なんとなく、次の2つが用意されている気がします。
(1)偉くなって、強制する側に回れば、強制されなくなって自由になれる。
(2)お金を稼げば、強制されて我慢して働く必要がなくなって自由になれる。
このようにして、「自由」を得るために、強制されることを我慢して受け入れる仕組みというのが、私たちの社会にはできあがっているように思います。
しかし、そもそも、強制されることが当たり前になっているということが異常です。そういう空間は、いわゆる「パワハラ空間」です。
(1)と(2)は、パワハラ空間を前提として、パワハラ空間内部で定義される自由なので、「パワハラ空間内の自由」と呼ぶことにします。
ここでは、パワハラ空間において定義されている言葉や論理から抜け出して、改めて、自由とは何かを考えてみたいと思います。
『ティール組織』では、組織の発達段階を、次のように分類しています。
(1)無色
血縁関係中心の小集団。10数人程度。自分と他人、自分と環境といった区別がない。
(2)神秘的(マゼンダ)
数百人の人々で構成される種族へ拡大。自己と他者の区別が始まるが世界の中心は自分。物事の因果関係への理解が不十分で神秘的
(3)衝動型(レッド)
組織生活の最初の形態、数百人から数万人の規模へ。力、恐怖による支配。マフィア、ギャングなど。自他の区分、単純な因果関係の理解により分業が成立。
(4)順応型(アンバー)
部族社会から農業、国家、文明、官僚制の時代へ。時間の流れによる因果関係を理解。計画が可能に。規則、規律、規範による階層構造の誕生。教会や軍隊。
(5)達成型(オレンジ)
科学的、イノベーション、起業家精神の時代へ。「命令と統制」から「予測と統制」。実力主義の誕生。効率的で複雑な階層組織。多国籍企業。
(6)多元型(グリーン)
物質主義の反動としてのコミュニティ型組織の時代へ。平等と多様性を重視、ボトムアップの意志決定。文化重視の組織。多数のステークホルダー。CSR。
(7)進化型(ティール)
変化の激しい時代における生命型組織の時代へ。自主経営(セルフ・マネジメント)、全体性(ホールネス)、存在目的を重視する独自の慣行。
社会や組織のパラダイムは、システムと、それを内面化した人々のマインドセットによって支えられています。現在の日本は、順応型(アンバー)に重心があり、順応型パラダイムに適応するように教育システムが設計され、順応型で定められた指標によって序列化されて選抜されたエリート層が達成型(オレンジ)へ進んだり、そのアンチテーゼである多元型(グリーン)に進んだりしているのではないかと思います。
教育システムが順応型(アンバー)に重心があるため、人々のマインドセットの重心が順応型になっているというのが、日本の現状ではないかと思います。
順応型(アンバー)の特徴は、社会的な仮面をかぶることで、秩序形成を行うというところです。『ティール組織』には、以下のように書かれています。
社会的な安定は、仮面をつけ、個人的な性格や欲望や感情から自己を切り離し、社会に受け入れられる自己を獲得することで達成されるのだ。
順応型(アンバー)パラダイムを支える学校は、順応型のやり方で社会的な安定をもたらすための装置です。そこでは、子どもに仮面をかぶせ、子どもが持つ多様な性格や、欲望や、感情を抑圧して切り離していくことで、社会に役立つ役割を果たせる「人材」を育成してきました。(もちろん、多くの例外はありますが、全体としては、このような言い方が可能だと思います。)
そこで、具体的に、どのようなやり方で、「仮面をかぶせる」ことがなされるかというのは、次のブログ記事で書いたので、そちらをご覧ください。
順応型(アンバー)では、思考フレームの規格化をするのが特徴です。同じ思考フレームを持っている人たちだからこそ、コミュニケーションが円滑に進み、命令がトップダウンでスムーズに行き渡ります。組織のメンバーは、与えられた役割を忠実にこなすことで、安定収入を得ます。そして、それと引き換えに、仮面をかぶることを受け入れるのです。
順応型(アンバー)パラダイムは、仮面をかぶることが強制されているという意味で、本質的にパワハラ的な側面を持ちます。だから、それを内面化してしまうと、最初に書いた「パワハラ空間内の自由」を追い求めることになります。その「自由」を追い求めることは、現状のパワハラ的な状態を受け入れることであり、その「自由」を達成することは、「パワハラ空間内の自由」のロールモデルとして、パワハラ空間の維持に貢献することになります。
順応型(アンバー)では、メンバーの思考フレームを固定します。これは、言い換えれば、入力と出力の関係を固定化し、反応速度を上げるように訓練していくということです。
このような訓練をされた結果、
・その場で求められていることを、しなくてはいけない気持ちになる。
・その場で求められていることを、適切にできればできるほど、優れていると感じる。
・その場で求められていることを、適切にできなければ、その場に参加する資格がないと感じる。
というような反応が起こりやすくなります。
その場で求められていること(入力)に対して、適切な行動(出力)をするという訓練がされたことで、そのような反応が起こるのです。
訓練の過程で強制されたことで、抑圧者の視点を内面化すると、その場で行動を監視して強制している人がいなくても、自分が取り入れた抑圧者の視点から、自分で自分に強制してしまうので、行動の自由が制限されます。心の中には、
誰かが自分に役割を期待している場では、その役割を適切にこなさなければならない
という思いがよぎり、不自由さが募ってくるのです。その不自由さから逃れるためには、
・様々な役割をこなすために、複数のキャラクターを自分の中に用意して使い分け、片っ端から適切にこなす。
・自分がやりやすい役割が割り振られるように、「自分はこんな人アピール」をして、印象を操作する。
・自分の無能ぶりを示して、役割が与えられないようにする。
というように、役割に適応する術を複雑化して適応力を高めたり、相手の印象を操作することによって、入力側を操作したりするようになります。これらは、かつて、不自由さを感じていた自分自身に覚えがあるものです。
強制によって、いのちが抑え込まれると、思考といのちとがずれてきて、自己不一致を起こしてきます。
自分を十全に生きられていないことから、イライラして怒りっぽくなったり、悲しくなったり、絶望感が生まれたり、といったサインが現れてきます。
それらの感情は、その場で何かを求められること(入力)をきっかけにして引き起こされるので、原因が入力にあるように感じられます。入力と出力の間の関係は固定的であるという常識の中で生きてきたからです。
自分にとって不快な感情を引き起こされる入力が起こるたびに、原因は、入力のせいになり、それを止めるために労力を使うことになります。
しかし、私たちの学習回路は、本来は、とても大きな柔軟性を持っています。
いったんスローダウンして、自分自身の入力ー出力のパターンを見直し、入力された情報に対して、生まれた反応を手がかりにして、自分が満たしたかった願い(ニーズ)を確認したうえで、どのような意味づけをし、どのように行動するのかを改めて選択することができます。その柔軟性こそが、創造的な自由です。
私たちの自由は、入力と出力とを結びつけ方の柔軟性の中にあるのです。
閉じた空間で、一方的に知識を流し込み、同じ入力に対して、同じ出力(正解)を素早く出すトレーニングをすると思考の規格化が進みます。
一方で、開かれた空間で、常に多様な考えが外から入ってくるようにし、同じ入力に対して、様々な考え方があることに触れると、学習回路が柔軟性を持つようになります。ひとたび自己不一致の状態になっても、多様な考えをヒントにしながら、自分の内側を観察し、自己一致の状態へと戻っていきやすくなります。
自己一致とは、自分のいのちの求めるものと思考や行動とが一致している状態です。
仮面をかぶっているときは、自分のいのちの求めるものに耳を傾けにくいです。耳を傾けて、その声を聴いても、矛盾が大きくなるだけだと思うからです。しかし、いったん耳を傾けはじめると、その場で求められている役割をサーチする代わりに、自分のいのちが求めるものが何か気づけるようになってきます。自分のいのちの求めるものは何かに耳を傾けることで、自分自身を生きるためのよりどころが生まれるのです。
外部から情報を受け取っても、自分自身に行動のオーナーシップがあると感じられると、多様な選択を自分が創り出していけるのだという自信が生まれ、安心感を感じます。
そうすると、他の人の印象操作をする必要がなくなり、流動的な自分の内なる声を聴いて、この瞬間に訪れる洞察に意識を向け、自分らしい選択をしようと考えるようになります。
その感覚があると、権力の座につかなくても、大金をつかまなくても、取り入れてしまった抑圧者の視点を追い出し、自分の学習回路を柔軟にすることで、自由を得ることができるのだと気づきます。
自分のいのちの流動性を感じながら、この流動性を大切にすることが自由なのだと気づくのです。
単純な、入力ー出力関係に陥らない柔軟な環境応答能力こそが、いのちが持つ性質なのです。
私たちの内発のエネルギーは、「その場に自分が存在する意味」から生まれます。
役割を演じている自分が行った行動は、本当の自分ではないので、その行動の結果、何かがうまくいっても、それを自分は受け取れないのです。むしろ、役割を演じ続けなくてはならないと感じられて、苦しくなる場合もあります。
しかし、自分のいのちの流動性を感じながら、創造的な自由を発揮して行動するようになると、自分でもよく分からないまま行動するようになります。しかし、その行動が引き起こす物語は、間違いなく、本当の自分が引き起こしたものです。本当の自分が引き起こした出来事が、周りとの関係性の中で意味づけられると、それは、自分が生きる意味になります。そのダイナミクスから、生きがいが生まれてくるのです。
私は、コミュニケーションを対話的にしていくことに、世界を変える力があると信じています。
対話を通して創造的な自由が生まれ、対話を通した関係性から、自分がその場に存在する意味、生きがいが生まれてくるからです。
内側に創造的な自由を生み出した人は、パワハラ空間を無力化し、外側に創造的な自由を出現させていくでしょう。システムとマインドセットによって支えられているパラダイムが、マインドセットの変容によってシフトしていく道が、ここから始まるのではないでしょうか。
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この領域には、ミクロからマクロまで似た形が連なるフラクタルと呼ばれる構造が生まれる。ここでは、1/fゆらぎ(ピンクノイズ)の音楽が奏でられる。私たち生きものは、まさにカオスの縁において生成され、その場所でゆらゆらとゆらぎながら動的平衡状態を保つ渦のようなものである。
量子生物学者のジム・アル=カリーリやジョンジョ-・マクファデンは、『量子力学で生命の謎を解く』の中で、生物とは、量子現象をマクロへ拡大するものだと主張している。彼らは、生命とは、ニュートン力学などの古典物理学で理解できるマクロな現象と、量子力学で理解できるミクロの現象とを貫いている存在、つまり、量子の縁にいる存在だというのだ。
彼らの説が検証されるには、だいぶ時間がかかるだろうが、私は、とても興味深い考え方だと思っている。量子テレポーテーションのような「奇妙な遠隔作用」を含む量子現象が、生命の本質に関わっていて、量子力学的なミクロ現象が、カオスの縁のフラクタル構造を伝わって、ミクロからマクロへと増幅されていき、生命現象としてマクロに現れているというイメージは、私の生命観とも一致する。マクロの世界で、意識を持たない物質は古典物理学に従うが、自律的に動く生命は古典物理に従わない。その理由が、「生命=量子の縁の存在」ということで、説明がつく可能性があることに、わくわくする。そこから、新しいパラダイムが生まれる可能性があるからだ。
生命の本質に量子力学的な現象があると考えたのは、量子生物学者がはじめてではなく、デイヴィッド・ボームは、量子テレポーテーションを、世界が全体性を持つ証拠の一つであると考えていて『全体性と内蔵秩序』という本を書いたし、量子力学を研究し、その後、ユング派の心理学を学んだアーノルド・ミンデルが立ち上げたプロセス指向心理学も、生命プロセスの全体性を前提にしている。
私は、とりあえずは、生命プロセスの全体性を「あるかもなぁー」と仮置きして生きることにしていて、それらが、カオスの縁でマクロ現象として表面化してくるというイメージを持っている。
しかし、私たちの思考は、流動的な世界に対して、固定的な存在(=物質)や、固定的な動き(=規則)などに意識を向ける性質を持っている。記述可能な部分に注目し、記述不可能な流動的な部分は無視する。そして、固定的な部分に注目して、名前をつけて、記憶に留めようとするのだ。これは、自然界でサバイバルするための機能として、思考が生まれてきたことと関係しているのだろう。
私たちの身体と意識は、カオスの縁で生成しているのに、その結果として生まれた思考は、秩序の領域に王国を作る。その王国は科学を生み出し、ついには、その中に、身体と意識を取り込もうとする。思考は、意識や身体に含まれる部分であるのにも関わらず、部分が全体を含もうとする本末転倒が起こる。それを押し進めていった機械論パラダイムは、自分自身を機械化する試を始め、その結果として、いのちが王国から閉め出されている。
思考が作り出した論理の世界のユートピアは、すべての人間が同じ論理を共通のフレームとして持ち、その中で、すべてが合理的に決まることによって完成する。だが、論理体系の作り方は、いくらでもあるため、どの論理体系で統一すべきかを争う戦いが始まる。ゲーデルが明らかにしたように、どの論理体系が正しいかを論理的に決める方法は存在しない。だから、暴力など、論理以外のものを使って統一しようとするのだ。
また、子どもは、独特の論理体系を作る能力を持って生まれてくる。統一された論理世界を作るためには、子どもに、決められた論理体系を押しつけていく必要も出てくる。そのためには、押しつけようとしている論理体系以外のものから目をふさぎ、逃げ場を無くした上で、自ら論理体系を受け入れていくような教育システムが必要になる。
そのようなユートピアを構築することは不可能であり、破壊的でもあることに、多くの人が気づいてきているのではないだろうか?
一つの論理体系で統一するためには、強大な軍事力を背景に異文化を統合していくという暴力的な行為が必要になる。子どもに均一な価値観を押しつけようとしても、今や、インターネットは外部の世界に繋がっている。多様な情報へのアクセスをやめさせることは困難だ。
私たちは、機械論が描いたユートピアを諦めて、違う方向へ進む必要があるのだ。
私は、機械論が描いたユートピアを出て、カオスの縁に住み着くことに決めた。その場所で、心と身体と思考を一致させて生きたい。
流動する世界を心と身体はキャッチして、さまざまな形にゆらぐ。固定化することを特性とする思考の内部に、心と身体がキャッチしたものを取り込むと、思考は矛盾を抱えこむ。
機械論パラダイムでは、矛盾は、悪そのものだ。「それは、矛盾だろう!」と言われたら、「参りました!」というしかない世界だ。しかし、考えてみれば、生命は矛盾に満ちているのだ。誕生も、成長も、学習も、論理的に語ることはできない。生きていること自体が矛盾なのだ。だから、開き直って宣言する。
私は、王国の外に出た。ここでは、矛盾は学びの源であり、祝福だ。それを取り囲んで、輪になってキャンプファイヤーをやりながら対話するのだ。
矛盾を生み出しているのは、取り込んだ何かではなく、私の論理体系だ。矛盾は、そこに穴をあけてくれる。
私は、矛盾を抱えたまま、ともに生活する。そうすると、ときどき、思考のリフレーミングが起こり、矛盾が統合されて消える。
しかし、異物を取り込み続けることで、矛盾は次々と生まれてくるから、なくなることはない。
異物を取り込みながら、矛盾を生み出し、リフレーミングをして解消するという運動の中でバランスする動的平衡状態を保つ。それが、カオスの縁に住むということだ。
矛盾を取り込むことを怠ると、思考フレームは閉ざされ、秩序の王国に舞い戻る。矛盾と向き合うことを怠ると、カオスに飛ばされる。それは、体温を36度あたりに保つのと似たようなものだ。
生きることは、カオスの縁で終わらない創造のプロセスを続けることなんだろうと思う。
創造しようなんて思わなくてもいい。
閉じた思考フレームの中で、創造をひねり出すような苦しさは、そこには存在しない。
外から流れ込んでくる異物を受け取りながら、生まれてくる矛盾と遊んでいるうちに、いつの間にかリフレーミングして世界の見え方が変わることの繰り返し。ひねり出さなくても、湧いてくる。
もともと、生きものが住んでいた場所に戻るだけ。
機械論パラダイムが、未だ主流を占める世界において、生きものらしくカオスの縁を住処にしようとすると、それ自体が、大きな矛盾を生み出す。
自分の中に生まれる「機械論VS生命論」の対立構造を統合しないと、世界の機械論的な側面を全否定することになり、自分の内部の分断が深まる。「あるもの」を「ないもの」とするのではなく、「あるもの」として存在の意味を与えられるように、文脈を再構成する。
機械論も、生命である私たちが作ったものであることを思い出すと、生命の活動の一部として取り込める。私たちの思考活動の可能性の一つとして捉えられる。ただし、私たちの思考活動には、多様な可能性があり、機械論だけではないということだ。
(1)フレームを作って最適化する。
(2)身体や心がフレーム外部をキャッチしてゆらぐ。
(3)矛盾を解消するようにリフレーミングする。
カオスの縁で生きるとき、私たちは、(1)-(3)をグルグル繰り返す。このように捉えると、機械論は生命論に内包される。
(1)のフェーズに留まり続けるのが機械論パラダイムのユートピアだが、身体や心が反乱を起こすことでユートピアが崩壊し、いのちのはたらきに取り込まれる。
私という「個人」が、自分の内側の矛盾を解消し、カオスの縁に住み始めると、矛盾の位置が、私と機械論的世界の間へ移動する。内側が充足する一方で、市場経済の中で生きる方法が見えにくくなる。
一人で生きられないから、一緒にカオスの縁に住む仲間を募り、与贈工房ができた。矛盾の位置が、個人と社会の狭間から、組織と社会の狭間へと移動する。内部の多様性が増すことで、機械論との境界に幅ができてぼやけてくる。組織は、計画や目標を持たず、各自がゆらぎ、リフレーミングをすることで、タオを見いだして進んでいく。
タオに導かれながら、外部の生命的な組織(ティール組織)とも、今後、出会っていくだろう。そうなれば、機械論との境界は、生命的組織の経済と機械論的経済との間へと移行するだろう。そうやって、カオスの縁に住む人が増え、カオスの縁で生きやすくなっていくのではないか。
学校教育は、機械論パラダイムのユートピア建立に不可欠なシステムだ。機械論パラダイムを支える標準化された思考フレームを子どもにインストールする社会装置としての役割を持つ。しかし、いのちの本質は、ゆらぎを取り込んでリフレーミングしていくところにある。これが、ロボットと生命との本質的な違いだ。
ゆらぎを排除することで、子どもがリフレーミングしないようにすることは、いのちの発動を抑え込むことであり、人間をロボットの位置に貶めることであると、私は思う。
子どものいのちのはたらきは、あらゆる方法で、機械論パラダイムのユートピアから脱出を試みる。現在、20万人いるとされる不登校という現象は、機械論パラダイムのユートピアから脱出するいのちのはたらきではないかと私は捉えている。
だから、機械論パラダイムのユートピアの外側にあるカオスの縁に校舎を建てたい。そこでは、いたるところにゆらぎがあり、日常的にリフレーミングが起こる。大人も子どもも、様々な異物を取り込みながら、矛盾と向き合って対話し、自分のペースでリフレーミングをしていく。
2018年1月から始まった「自己組織化する学校」は、カオスの縁に校舎を建てる試みだ。
機械論とカオスの縁を往復する人もいるだろうし、ときどき、訪れる人もいるだろう。私は、カオスの縁に住み、訪れる人をもてなしたい。自分の内側の機械論が統合されていれば、あたたかく迎えられる。ゆらいだときにカオスの縁を訪れ、リフレーミングできたら機械論に戻っていくというバランスの取り方もあるだろうと思っている。
パラダイムシフト前夜である現在は、新旧パラダイムが共存している。2つのパラダイムに引き裂かれそうに感じるときもあるだろう。しかし、それは、社会の縮図を、我が身に真摯に反映させているからに違いない。そこに現れる矛盾を統合していくことが、パラダイムシフトを進めていく原動力になる。私も、世界を自分の内側に引き受けながら統合を試みていく。そして、同じ取り組みをしている人をエンパワーしながら、ともに歩みたいと思っている。それは、世界に生まれている様々な分断を癒やしていく試みだと思う。
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遠近法の発明をきっかけに、完成した状態から逆算して制作していくという方法が生み出されたのだとか。
未来に完成図を思い描き、そこから逆算して計画を立てていくという思考方法は、時間の進む向きを反転させた。
しかし、インターネットが発明されて20年がたち、この思考方法と現実とが合わなくなってきているのではないか。
機械文明を支えてきた機械論パラダイムは、すべてが予定通りに進むことを良しとする考え方だ。
しかし、生き物がもつ魂の躍動は、「予定通り」をはみ出していくところに本質がある。
機械論パラダイムは、魂の躍動の抑制とセットになっている。
だからといって、今すぐ、機械をすべて捨ててしまえと言っているわけではない。
インターネットだって、機械によって支えられている。
僕がやりたいのは、機械論に潜む暴力に気づき、機械論から暴力を抜き去って共存できる形を探したいということ。
機械論に潜む暴力とは、自分自身になることから阻害されること。
社会における役割(=歯車)を果たすことを強く求められ、型にがっちりとはめられていく。
だから、その仕組みに気づいて、型をやぶっていくことができれば、自由になった魂が道具として機械を使えるようになる。
そのために必要なことは、「正直になること」だと思う。
正直になろうとすると、社会的な正解の外側を表現せざるを得なくなる。
そのときになってはじめて、抑圧の存在に気づくことができる。
ひとりで正直になっていくのはつらいし、怖いから、場を創って、その内部で正直になる。
それを繰り返していくと、どこにいても正直にいられるようになってくる。
僕たちは、社会から正解を押しつけられていて、正解の枠の内側をきっちりと埋め尽くすことを求められている。
それができないと、社会人として失格だという烙印を押されるんじゃないかという恐れが蔓延している。
だから、勇気を持って、「ちゃんとやらない」という選択をする。
ちゃんとやるのを止めると、場のプロセスが感じられるようになっていく。
瞬間、瞬間で起こっていることを受け止めて、そこに対して感じていることを返していくことができるようになる。
ルネッサンス以来、反転していた時間が、もう一度反転して、本末転倒の状況が解消されていく。
そのなかで、魂の作動によって、必然的に循環が生まれていくのが、自己組織化だ。
今まで時間を反転させてきたことにも、きっと意味があったのだろう。
そのことによって、多くの学びがあったはずだ。
でも、機械論が極まってしまったことで多くの問題が生じている。
そろそろ本末転倒を反転して、時間の流れに沿って生きることをはじめませんか?
8月26日に、「未来の先生展」で、学びのパラダイムの反転について語りました。
すべての根っ子は同じです。
by ]]>1日目には、東出融さんの身体ワークと、オペラ歌手の倉原佳子さんの素粒子ボイスワークがあり、2日目には、私の「自己組織化エルダーワーク」と、映画『純愛』上映会+対話会を行いました。
僕が、なぜ、この「東京エルダーワーク」を共同開催したかというところから、今日は、書き始めたいと思います。
311後、次々と立ち現れる問題に対して、問題を解決するのではなく、問題を作り出しているパラダイムを反転しないとどうにもならないという想いが募るようになりました。
僕は、2012年から、「反転授業」というものに関わっていますが、これは、単なる授業改善の手法ではなく、教育のパラダイムシフトの動きです。
8月26日には、未来の先生展の「反転ワールドカフェ」で、次のような話をしました。
教育のパラダイムシフトについて探究を重ねていくと、同じ構造が、いたるところにあることに気づくようになりました。そして、
「社会のパラダイムを反転させて、社会の仕組みと、自然の摂理とを一致させたい」
と思うようになりました。
旧パラダイムが大部分を占める社会の中で、どうやって新パラダイムの世界を創っていけるのか?
という問いを立てて、様々な試行錯誤を重ねていくうちに、同じように社会のパラダイムを反転させるために取り組んでいる人たちと出会うようになりました。
東出融さんは、その中の1人でした。
はじめは、東出さんの奇想天外な話に戸惑ったのですが、自分の思考が深まって行くにつれて、東出さんとのシンクロ率が高まっていくように感じ、Zoomで対話することになりました。
東出さんの「肚を作る身体ワーク」は、僕のやっている「魂の脱植民地化」と重なるし、
東出さんの「鰯の大群になる」は、僕のやっている「自己組織化」と重なります。
同じところに行き着いてきているということを感じ、東京でのコラボに繋がりました。
1日目は、東出さんの身体ワークを全身で受け取りました。
肚に意識を置き、細い管を通していくイメージをすることによって肚の働きが変わっていくことを体感しました。
後から話を聞くと、細い管が内側からめくり上がって裏返しになっていき、内側から外側へ出て行くときにフィボナッチのらせんが生じるイメージなのだとか。
このイメージは、内側の世界と外側の世界とがフラクタルになっている世界観や、植物の形態形成に繋がるものだと思いました。
東出さんに「腹落ちする」という身体感覚も、今まで自分自身が思い描いていたものと重なりました。上と下からやってきたものがねじが締まるような感じで組み合わさっていくような感覚だとか。これは、清水博さんに教わった「相互誘導合致」というイメージとぴったりで驚きました。それを、自分でも身体的に感じられるようになると、「理解」というものが、違ったイメージで捉えられるかもしれません。
身体ワークの中で、東出さんの「股力」のパフォーマンスがありました。これは、腕を股に挟んでもらって、両足の動きを感じたのですが、東出さんが、頭の中のイメージを変化させることで、足が内側に回転しながら閉まっていき、ローラーに巻き込まれていくような感じでした。
その動きをマスターするためのものがカエルポーズで、実際にやってみると、少しずつ足の付け根が内側に回転していくことが感じられるようになりました。これも、続けていることで見えてくるものがあるのだと思います。
頭の中のイメージを変化させることで身体が変化し、身体の動きが変化することで思考が変化するという心身一如の一端を感じることができるワークで、身体の探究の貴重な入り口を教えてもらいました。
1日目の身体ワークを全身で受け取り、2日目の「自己組織化ワーク」をどのようにやるか。
一晩、考えて決めました。
自己組織化というのは、頭で設計した秩序ではなく、自然界が行っている秩序化の働きによって集団の動きを作るというものです。
集団のメンバーが、自由に行動するようになるとカオスになります。
プロセス指向心理学の創立者、アーノルド・ミンデルは、紛争こそが最高の教師だと言います。カオスを怖れるのではなく、「自由の対価」と見なして、炎の前に座り、場のプロセスから秩序が現れるように場をホールドするのが、エルダーの役割です。
東京エルダーワークとは、カオスを怖れずに、自己組織化を起こしていくためのワークショップなのです。
東出さんの身体ワークや、倉原さんのボイスワークは、身体を通して自己一致する感覚を取り戻していくものでした。
僕の「自己組織化ワーク」は、教育がどのようにして「自己一致しないようにしているのか」というメカニズムを明らかにし、対話を通して自分自身と繋がっていくようなデザインにしました。
昨年、対話を通して理解を深めていった「魂の植民地化プロセス」と「魂の脱植民地化プロセス」を言語によって理解することは、気づきを深めていくための言葉や概念を得るために有効だと思います。
午後からは、実際にコミュニティに自己組織化が起こるためのきっかけを作ろうと思い、オープンスペーステクノロジー(OST)を行いました。
8つほどの話し合いたいテーマが生まれ、輪になって話し合いが進みました。
参加者からの感想
オンライン参加ということで、前日よりも体感が乏しくなってしまうかなと心配していましたが、田原さんの自己組織化をそのベースとなったオンライン環境で体感できたということで、ある意味とても良かったと感じています。人がありのままの自分のまま、ありのままを発信してゆくことで、豊かな創造性が発揮されるという考えに、正に”腸が上がる”ワクワクを覚えました。実際のワークでは、今後に繋がる仲間との出会いがあり、その仲間と一緒に身体の神秘と自己組織化について、さらに引き続き学んでゆける可能性が広がったことに、大きな喜びを覚えました。素晴らしい機会を頂き、本当にありがとうございました。
純愛を観る機会は今回得られず残念でしたが、今後はネットワーク上でもそうした機会が広がったら(観た後にネット上で感想シェアなど)より面白いかなと思います。
初めてオンラインで話しをするということを体験させてもらいました。よくわからないままのスタートでしたので圧倒されるばかりで話の内容が頭に入らずオンラインのグループトークも話がまとまらず、先ずは自分の中のロックを解除しなければ先には進めないと実感しました。
でも、初めての話した皆さんの思いや考えを聞いて同感したり、いろんな考え方を聞いて安心した部分もあり凄く頭を使って疲れましたが楽しかったです。ありがとうございました。
田原さんのお話は、目からウロコが落ちるような気付きをいただきました。
そして、オンラインによって色んな可能性が溢れてきますね!
離れている人たちがネット空間に集まってミーティングやセミナーができる! 色んな状況をクリアできる、集まれる空間がある事が素晴らしいです。
自己組織化は、学ぶものではなく、起こすものです。
イベントで話を聴くものではなく、日常の中で巻き起こすものです。
東京エルダーワークは、そのためのきっかけ。
自己組織化を起こすためのゆらぎの1つ。
僕は、ここからが、本番だと考えています。
以下の日時で、自己組織化エルダーワーク@オンライン を行います。
日時 9月11日20:15-22:15
場所 Web会議室Zoom
対象 東京エルダーワークの参加者、あらえびすのサポーターさん
東出さんが、情熱を持って起こしたい現実。1万人の雛形。
これを実現するための助けとなる動きを生み出したいと思っています。
未だ生まれていない「鰯の大群」という現実を生み出すのがアート。
身体ワークも、自己組織化ワークも、それを生み出すための手段だと、僕は考えています。
一緒に未来を生み出しませんか?
どのようにしたら、あらえびすに自己組織化が起こるのか?
二日間を共に過ごした僕から提案があります。
その後、対話を行いましょう。
※今回は、多くの人に田原の本気のオンラインの場を体験してもらいたいので、参加費をいただきません。
※余力がある人は、東京エルダーワークの自己組織化エルダーワークの動画をご覧になってから参加するのがおすすめです。(見てなくても参加可能です)→ 動画視聴の申し込み
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社会構造に無自覚に過ごした20代の終わりに待っていた人生のちゃぶ台返しを経て、自分が無自覚に及ぼしてしまう権力というものに対して恐怖が芽生えた。
男性優位社会において「男性」であり、学歴社会において「高学歴」であり、教室で教壇に立っていたりすると、それだけで、権力構造の文脈の中に取り込まれ、自分が好むと好まざるとに関わらず、自分から権力が発動してしまう。
ヒエラルキー構造において影響力を持つということは、ヒエラルキーにおける上位のポジションを得るということと同義である。影響力は、個人ではなく「立場」から生まれ、上から下へと一方向的に伝わっていくからだ。
ヒエラルキー構造において、「下の者」は、「上の者」に支配されることを要求される。そして、「上の者」が管理責任を持つことによって、「下の者」は責任を免除される。自分は命令に従っただけで、責任は「上の者」にあると考えることで、行為に対して責任を持たなくてもよいとされるのだ。
このように、責任や影響力といった言葉には、機械論パラダイムの手垢がべったりとついている。
それが極まると、アイヒマン裁判で有名なナチスのアイヒマンのように、自分がどのような行為をしても「命令に従っただけなのだから無罪である」というような責任転嫁の感覚に行き着く。
フォアグラ型教育では、フォアグラ生産者がガチョウのフォアグラの大きさを管理し、責任を持つ。
ガチョウは、自らの身体の管理を手放し、病気になれば、フォアグラ生産者の責任を問う。
この構造は、学校教育を通して構築され、社会の様々な場所に浸透している。
僕は、フォアグラ生産者として影響力を及ぼしたり、責任を取ったりしたくない。
そして、ガチョウとして、誰かに責任を取ってもらったりもしたくない。自分の人生の責任を自分で持ちたい。
権力を行使せずに、他人とどのように関わったらよいのだろうか?
分断を乗り越えるためには、他人と関わる必要があるけど、影響力や責任と、どのように向き合ったらよいのか?
そんなことを考えながら、散歩をしていたら、ある気づきが降りてきた。
僕が考えていることのすべては、言葉も含めて、すべて外側からやってきたものだ。
いろんな種が撒かれて、僕の内側に森が繁っている。
子どもの頃は、きっと森じゃなくて、管理された「畑」だったのかもしれないけど、今じゃ、いろんな植物が繁って森になってきている。
対話をすると、相手からいろんな種が飛んできて、自分の森に着地し、必要に応じて発芽する。
自分から出た種も、相手の内側の森に撒かれて、必要に応じて発芽する。
必要が無ければ発芽しない。
発芽するかどうかは、宇宙が決めること。
相手を管理して、相手の内側に無理矢理に種を蒔き、思った通りに育てようとすると抵抗にあう。だからこそ、管理と権力はセットで行使される。
権力を行使するのではなく、相手から受け取った種を、自分の内側の森で大切に育てていく。
それぞれが、種を大事に受け取って育てていくという世界を、まず、自分が創っていく。
そして、「あなたから受け取った種が発芽して、こんなに大きくなりましたよ。ありがとう。」と伝えていく。
自己肯定感が低いと、自分が周りに与えている影響を認識できない。
自分が撒いた種が、他の人の内側の森で発芽しても、それが自分の種のはずはないと思ってしまう。
だから、ちゃんと覚えておいて、「あなたの種が、こんなに大きく育ちました」と伝えていくことが大切だ。
感謝と共に受け取った影響を伝えていくことで、自分の持つ影響力を認識できるようになり、正当な自己肯定感を取り戻していくことができる。
これは、そっくり自分にも当てはまる。僕も、「あなたの蒔いた種が、私の内側の森で育ちましたよ。」と伝えてもらうことがあり、そのおかげで、自己肯定感を取り戻すことができる。
感謝を感じながら、自分の内側の森を育てていくと、多くの果実が実る。
この果実は、自分が実らせたものではなく、多くの人からいただいた種が森を育み、豊かな土壌生態系を生み出し、森に多種多様な循環が生まれたからこそ実ったものだ。
だから、「みなさん、ありがとう!みなさんのおかげで、こんな果実が実りましたよー。一緒に食べましょう!」と声に出すことができる。
そして、そうやって食べる果実は、1人で食べる果実より、何百倍もおいしい。
共創の世界は、とても豊かだ。
内側の森には、いくらでも種を蒔くことができ、次々に創造のサイクルが回る。
若い頃に教わってきた「創造性」は、個人に属するもので、それが、自分に備わっていないことが残念だった。
でも、そうではなく、「創造性」は、宇宙に備わっているもので、自分の内側の森の存在に気づけば、誰もがアクセスできるものなのだと思う。
分断の呪縛を解き、内側の森に、お互いに種を蒔き合っていきませんか。
すでに現れつつある豊かな世界を、一緒に探求してみませんか。
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それが、実際に見えたというよりも、自分にはそういうように感じられたということなのだが、とにかく、次のようなことが自分には見えてショックだった。
真実を見てつらくなるよりは、今まで通り、楽しく生きたい
真実はどこにあるのか?と思って、夜も寝ないでインターネットで調べまくっていた自分は、他の人も同じことをやっているはずだと漠然と思っていたが、必ずしもそうではないのだということに気づき、呆然とした。孤独も感じた。
そして、それが個人の問題ではなく、教育システムや、社会システムが生み出した問題だと思い、そのメカニズムを明らかにしたいと思った。
真実を見に行くことに対する恐れは、自分自身にもある。それを見に行くと、世界の底が抜け、取り返しのつかないことになるのではないかという恐怖がわいてくる。
実際に見に行くと、確かに世界の底が抜けてしまい、ある意味、取り返しがつかない状況になったりするわけで、底が抜ける直前は、すごく怖いわけだが、抜けてしまえば、自分の中の囚われが少なくなり、思考が自由になる。すると、いろんな人と繋がれるようになり、自分の創造性が、明らかに増していく。心が柔らかくなってきて、外部の刺激に強く反応しないで受け止められるようになり、以前よりも、世界を自由に探検できるようになる。それを実感して、自分の世界を閉ざしていた蓋が、刺激に対して反応していたのだということに気づく。蓋がなくなったから、反応しなくなったのだ。
去年、由佐美加子さんからNVC(非暴力コミュニケーション)のことを学んだり、深尾葉子さん、安冨歩さんの「魂の脱植民地化研究」に関わらせていただいたりしていくなかで、蓋が構築され、世界が狭くなっていくプロセスが明確になったきた。そんな中で、1冊の本と出会った。
パウロ・フレイレ著 『被抑圧者の教育学』だ。
この本では、子どもを単なる容れ物だと見なして、お金を銀行に貯金するように、子どもに知識を流し込んでいく教育を「銀行型教育」と呼び、対話型教育へのシフトを呼びかけている。
そして、教育の中でどのように抑圧が行われているのかを解明していく。この本を読んで、曖昧だったところが明確になった。
ただ、私には、「銀行型教育」というメタファーが、どうもしっくりこなかったので、もっとよいメタファーがないかと考えていたところ、ぴったりくるものが思い浮かんだ。
それが、「フォアグラ型教育」だ。
みなさんは、フォアグラという食べ物を知っているだろうか?
ガチョウやアヒル、鴨などに対して運動の自由を奪い、餌を強制的に大量に食べさせ、脂肪肝になるようにする。その脂肪肝を「フォアグラ」という食べ物として食べるのだ。
ここには、生き物を抑圧し、モノ化するメカニズムが分かりやすい形で現れている。
もし、人間とガチョウがコミュニケーションが取れるとしたら、フォアグラ生産の場でどのようなことが起こるだろうか?きっと、次のようなことになるのではないだろうか。
フォアグラ生産者は、脂肪の多い食べ物をガチョウの口から強制的に流し込む。
ガチョウの身体は、「もう食べたくない」「苦しい」というサインをガチョウの脳に届ける。
しかし、ガチョウは、そのサインを受け取って食べるのを止めることができない暴力的な環境に置かれている。
フォアグラ生産者は、ガチョウが抵抗せずに、むしろ、進んでフォアグラ生産に協力するように、「口を閉じずに我慢できるなんてえらいぞ!」「おまえは、なんて強いガチョウなんだ」と褒めたり、「食べ物を戻してしまうなんてダメな奴だ」と叱ったり、「この檻から出たら餌を取ることができずに飢え死にするぞ」と脅したり、「肝臓の大きいやつほど価値がある」「肝臓の大きい優良な奴は、大きめの檻に入れてやるぞ」などと序列化したりする。
暴力的な環境に置かれているガチョウにとって、現実を直視するのはつらい。その状況で精神が崩壊することから身を守るために、ガチョウが、身体からのサインを無視し、フォアグラ生産者の意図を内面化していくと、抑圧が進む。
抑圧されたガチョウは、「自分は我慢強いガチョウだ」という虚栄心を抱いたり、「あいつは、食べ物を戻す弱いガチョウだ」「自分の肝臓のほうが、あいつの肝臓よりも大きいから、自分のほうが優れている」などと他のガチョウを見下したりするだろう。「大きな肝臓になれば、大きい檻に入る自由が手に入るのだ」と考え、進んで我慢して口を開け続けるようになるだろう。ついには、自分の肝臓のことを「フォアグラ」と呼び始め、「自分のフォアグラは5万円の商品価値がある」などと自慢し始めるだろう。
安冨歩さんは、『生きるための経済学』の中で、次のような思考連鎖を、死に魅入られた経済学(ネクロフィリア・エコノミクス)と呼んでいる。
自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化
この思考連鎖は、抑圧されたガチョウのことを思い浮かべると納得できるのではないだろうか。
囚われの身である自分に対する自己嫌悪が、自己欺瞞を生み出し、虚栄や利己心を生み出していく。その先にあるのは、序列化の上に行くことで得られると思わされている選択の自由であり、以下に効率よく序列を上げるのかという行動の最適化だ。
では、抑圧されたガチョウが、自分自身を取り戻していくためには、どうしたらよいだろうか?
その第一歩は、身体からのサインに耳を傾けることだと思う。
生き物は、環境応答能力を持ち、みずから環境を作り替えながら、自分も作り替えていき、自分と環境との間に創造的な活動を生み出していく。
檻に閉じ込めて自由を奪い、身体からの応答を無視させることで、ガチョウは、多くの飼料を入力すれば、大きなフォアグラがアウトプットされるという単純な入力ー出力関係の物質系に貶められているのだ。
だから、檻から脱走し、身体からの応答に耳を傾け、環境応答力を取り戻すところが、抑圧から逃れる第一歩になる。
そして、教え込まれてきたことに対して疑問を投げかけ、それらを自分の語りによって再定義していく。
そのために重要な役割を果たすのが対話である。
学ぶというのは、抑圧者の言葉を効率よく受け入れることではない。
自分が健康に生きるために、環境とやりとりしながら、自分の語りによって世界を定義していくことだ。
深尾葉子さんは、魂の植民地化を次のように定義する。
人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。
また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。
他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。
身体からのフィードバックを断ち切り、抑圧されていたガチョウたちが、対話の中から「これは、フォアグラではない。肝臓だ。私が健康に生きるために重要な役割を持った、私の内臓だ!」と気づき、自分の言葉で再定義していくとき、ガチョウの魂の蓋が開き、抑圧され、植民地化されていたガチョウの魂は、脱植民地化されていくだろう。
安冨さんは、次のような思考連鎖を、「生きるための経済学」と呼ぶ。
自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発
真実を見に行くと、抑え込んできた強い感情が溢れ出る。それは、多くの場合、痛みを伴う。ガチョウにとって、自分が囚われた存在であり、信じていたフォアグラ生産者が、自分を商品として扱っているという真実を知ることはつらいことだろう。
しかし、NVC(非暴力コミュニケーション)は、その強い感情を手がかりに、その奥にある自分自身が大切にしているものを探っていき、それと繋がれれば、エネルギーが沸いてくるのだと教えてくれる。私が311の後に感じた強い怒りと哀しみの奥には、「人間(生き物)が、人間(生き物)らしく生きることを大切にしたい」というニーズがあった。このニーズに繋がれたとき、怒りと哀しみの大きさが、自分の内側にあるエネルギーの大きさとして感じられた。
ガチョウは、痛みや悲しみを感じつつも、感情を抑圧していたときには感じられなかった色彩鮮やかな世界が内部に広がることを感じるだろう。それは、自分自身であることからくる喜びだ。そして、自分の内側に、「生命を躍動させて生きたい」という強いエネルギーが存在していたからこそ、強い怒りと哀しみを感じたのだということを理解するだろう。そのとき、自分が無力な家畜ではなく、自然の一部として祝福された存在であると感じられるだろう。
自由を取り戻した魂は、創造性を取り戻していく。自由な魂同士が出会うと創造の渦が回っていく。
フォアグラ型教育から、対話型教育へシフトしよう。
それは、子どもを抑圧していく教育から、子どもを解放していく教育へのシフトだ。
そのシフトには、痛みが伴う。
なぜなら、私たちもフォアグラ型教育を受けてきたし、また、そのような教育を施してきてしまったからだ。
だが、その痛みは、私たちの内部に、大切にしているものが確かに存在しているという証拠でもある。
だから、痛みの向こう側にある、自分が大切にしているものを見に行こう。
そこから、豊かで美しい世界へと繋がるはずだ。
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同じものを見たはずの人たちが、もとの世界で生活を続けているのを見て、孤独感を感じた。
それまで生きてきた40年間の人生の舞台裏でも、同じようなことが起こっていたのだと思い、自分の人生の意味が変わってしまうような気がした。
それからの自分は、ずっと怒り続けていた。
社会システムに対して
教育システムに対して
そのなかで生きてきた自分に対して
311以前の世界を生きている人たちに対して
怒りのエネルギーを燃料として、問題を掘り下げていくエンジンが回り始めた。
どうしてこんなことになってしまったのかを突き止めたい。
自分に対しても、周りに対しても批判の目を向けながら、リミッターを外して、がむしゃらに進んでいった。
人間を工業製品のように生産する教育システムが、人間の心をどのようにして不自由にしていったのか?
自分の心には、その影響が、どのように残っているのか?
人間の心を自由にしていくためには、どのような方法があるのか?
進めば進むほど、世界の見え方が変わり、それに伴い、自分も変容していった。
そして、その速度は、どんどん加速していった。
人間を機械化するプロセスを否定し、ひたすら実験を繰り返しながら生命的に生きるということをやり続けた結果、ついに、そのスピードに身体がついて行けなくなってきた。
血圧が180を超え、心臓に問題が生じ、首と肩に激しい痛みが出て、身動きが取れなくなった。背中にカッピングをしたら、背中全体がどす黒い紫色に染まっていた。
仕事を効率化したり、作業を他人に代行してもらったりせざるを得なくなった。
試行錯誤を通してプロトタイプを創る工房パラダイムを肯定し、大量生産をする工場パラダイムを否定してきた自分が、この両者を統合する必要が出てきた。
そんなとき、『かかわり方の学び方』という本を読んだ。
そこで、工房パラダイムから、工場パラダイムへと連続的に繋がるグラフと出会った。
そのグラフを見ながら、工場パラダイムが極まったら、成功体験を手放してパラダイムシフトを起こして、工房パラダイムを最初から始めるはずだと思った。そして、ペンを取り出して曲線を引いてループを作り、Uプロセスと書き込んだ。
それを見ているうちに、工房、工場、変容は、どれも、生きていくために必要な要素なのだということが、じわーっと認識されてきた。
どれかが善で、どれかが悪なのではなく、それぞれが違う評価軸を持っているから、多様な人たちが生きていけるのだと思った。
311の後、ずっと自分の中にあった怒りの奥にあったものが何だったのかが見えてきた。
怒りの奥にあったのは、人間が人間らしく生きるということを大切にしたいという気持ち。
それを実現するための手がかりを掴めたことで、自分がやってきたことに意味があると感じることができた。
ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーは言う。
「間違った行ないと正しい行ないを超えたところに野原が広がっています。そこで逢いましょう」
ルーミーは、この野原へ到達するために、どれだけの痛みを乗り越えたのだろうか?
大きく左右にぶれるからこそ、バランスが取れる中心を見いだすことができるのだと思う。
共存在サイクルは、誰も否定せず、優劣を作らず、水平に回る。
これは、ルーミーが待っている野原で回るサイクルだと思う。
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でも、私が作りたいコミュニティは、束縛やしがらみのイメージとは正反対のものだ。
正反対の2つのものが同じ言葉で語られることで大きな混乱が起きている。
私が作りたいコミュニティの話をすると、私が作りたくないコミュニティのイメージが重なってきて、語るのが難しくなってくる。
そこで、一方に「学習するコミュニティ」、他方に「同調コミュニティ」という名前をつけて区別することを提案してみようと思い、Facebookに次の投稿をしたところ、多くの方がシェアして下さり、コメント欄にたくさんのコメントをいただいた。
それらを踏まえた上で、私が考える両者の違いの表をバージョンアップさせて、次のようにまとめてみた。
学習するコミュニティ | 同調(統制)コミュニティ |
「絆」を信頼の意味で使う | 「絆」を束縛の意味で使う |
「中庸」=ホメオスタシス | 「中庸」=極端ではない |
乱を超えて和に至る | 和を乱すなと言う |
自由が推奨される | 我慢が強制される |
自分でいることが大事 | 適応することが大事 |
発達障害がギフテッドと呼ばれる | ギフテッドが発達障害と呼ばれる |
思いつきから活動が生まれる | 規則によって行動が決まる |
創発的計算によって動く | 手続き的計算によって管理する |
集合知による一体感 | 同調による一体感 |
和集合で繋がる | 共通部分で繋がる |
やりながら考える | 誰かの考えに従う |
フィードバックから学ぶ | フィードバックが出ないようにする |
各自が役割を見つける | 既存の役割から選ぶ |
場のプロセスを読む | 空気を読む |
未来を探る | お互いの腹を探る |
ドラマが生まれる | 予定通りに進む |
創発が起こる | 協同現象が起こる |
ストレスが癒える | ストレスが溜まる |
素人が考え、玄人が実行する | 玄人が考え、素人が従う |
直感で行動してから理性で考える | 理性で考えてから行動する |
役割は流動的 | 役割は固定的 |
対話で決める | 多数決で決める |
違和感が尊重される | 違和感が黙殺される |
生命論的安心感 | 機械論的安心感 |
出る杭は尊敬される | 出る杭は打たれる |
外に開いている | 内に閉じている |
内発的動機で動く | 外発的動機付けで動かされる |
感化によって君子が増える | 同調圧力によって小人が増える |
全身で感じる | 頭で考える |
分からなくてもやる | 分かることしかやらない |
失敗は試行錯誤の一部 | 失敗は責任問題 |
興味を持って相手の話を聴く | 自分の判断に基づいて相手の話を聴く |
自分の価値基準に従う | 集団の価値基準に従う |
色に例えるとターコイズ | 色に例えると赤 |
フラットな関係 | 縦の関係 |
この中には、私の考えたものもあれば、私のFacebookの投稿に、他の人が追加してくれたものも含まれている。
すっかり悪者にされてしまった感がある「同調コミュニティ」に対する同情の声もあった。
違いをどのように表現するかには、様々な意見があると思うが、違いを区別した上で共に考えるということに大きな価値があると思う。
コメント欄でのやりとりの中で、重要な指摘をいくつもいただいた。
こちらのコメント欄をご覧いただきたい。
やりとりをする中で整理されてきたのは、これらの違いがどこからやってくるのかということだ。
私は、「同調メカニズムも自然の摂理である」という意見に賛成する。その上で、春秋戦国時代の中で孔子が考えたことや、全体主義の台頭に対する反省としてサイバネティクスの創始者であるウィナーが考えたことをもとに考えたい。
ウィナーは、アリやハチといった社会的昆虫に対する考察から、社会秩序はコミュニケーションによって形成されることを見抜いた。アリやハチの社会は、個体間の多様性が小さく同調による自己組織化によって社会秩序が形成される。
私たち人間にも、同調メカニズムが備わっており、同調による協働作業を行うことができる。しかし、人間と昆虫とを分ける大きな違いは、「学習メカニズム」の有無である。
人間は、環境から学習をするため、後天的に多様な個体差を獲得でき、同調によって繋がることだけでなく、違いから学び合うことによって繋がることもできる。後者こそが、人間が新しく獲得した可能性である。
論語では、学習モードを発動させて対話することによって、カオスを乗り越えて調和に至ることができる者のことを「君子」と呼び、同調モードによってのみ他人と繋がることができる者を「小人」と呼んでいる。孔子が考えたのは、人々が君子になれば、学習モードによって社会が調和に至って社会秩序が形成されるということだった。
人間は、状況によって同調モードと、学習モードとを切り替えることができる。10人でボートを漕ぐときは、同調モードを発動させて一体となってオールを漕ぐことができるし、同じ10人で対話を行い、ボートレースの戦略やトレーニングについての集合知を生み出すことができる。
健康なコミュニティは、同調モードと学習モードとが、必要に応じて発動し、協力や学び合いが柔軟に起こるようなものなのではないかと思う。私は、このようなコミュニティを「学習するコミュニティ」と呼びたい。
一方で、何かしらの理由で学習モードが抑え込まれると、人間は、人間であるにもかかわらず、「同調モード」しか発動しなくなってしまうのではないだろうか。私は、このようなコミュニティを「同調コミュニティ」と呼びたい。
つまり、次のようにイメージしている。
・学習コミュニティ→同調モードと学習モードが、必要に応じて発動する
・同調コミュニティ=同調モードしか発動しない
人間が本来持っている「学習モード」が抑え込まれてしまっている状況は苦しく、様々なサインが身体や精神から発せられてくる。このサインを徹底して無視していくと、心身を病んでしまったり、魂に蓋をし、適応するための人工的な自己を蓋の上に作り上げてしまったりするのではないだろうか。
適応するための人工的な自己を作り上げた人たちが集まると、多様性を失っているが故に、同調モードが強力に発動し、同調圧力によって、周りの人の魂を傷つけていく悪循環のスパイラルが回る。ウィナーは第二次世界大戦の反省から、このメカニズムを抽出し、そうならないための方法として「学習に基づいた秩序」というものを考え、サイバネティクスを生み出したのだ。
学習モードの作動を止めないためには、自分の真実に正直になり、言いにくいことを発言していくことが大切だと思う。
隠されている真実を、自分から見にいくことが大切だと思う。
私たちは、同調モードも、学習モードも兼ね備えた人間であり、そのどちらを発動させるのかを自分で決めることができるのだ。
by ]]>挑戦を本格的に始めてから半年が過ぎ、「生命論的パラダイムで生きる」ということが、どういうことなのかが少しずつ見えてきたので、ここにまとめておく。
生命論的パラダイムについて語る前に、機械論的パラダイムについて語っておきたい。
機械論的パラダイムの特徴は、過去の延長線上に未来が存在することである。
自然界も人間も、すべてが「予定通り」に動き、秩序が維持される。
その前提があるからこそ、過去のデータの集積から法則性を見いだし、それを未来に適応していくという戦略が意味を持つ。
機械論的パラダイムの敵は、故障、エラー、誤差などの不確定要素である。
それらが存在しないことによって秩序が維持され、その秩序が未来に対する不安を軽減し、「機械論的安心感」を与える。
終身雇用が成立していた時代は、問題を起こしさえしなければ、身分と収入が保証され、長期の住宅ローンを組むことができた。
しかし、現在は、そのような保証をしてくれる企業は減り、「機械論的安心感」を得ることが、どんどん難しくなっている。
成功法則はすぐに陳腐化して使えなくなる。
「機械論的パラダイムにおける安心感」を求めても、その試みの多くは失敗に終わり、不安が増大していく。
では、いったいどうすれば、今の状況の中で、安心感を持って生きることができるのだろうか?
自分自身が森の中の1本の木であることをイメージしてみよう。
自分が木として、枯れずにいられるのは、自分が未来を予想し、その予想通りに森の生命活動が行われているからではない。
自分も含めた森の生き物が、生命活動を躍動させていれば、様々な循環が生まれ、自分も森も生きていけると確信できるのではないだろうか。
そこに生命論的パラダイムにおける安心感の手がかりがある。安心感の根拠は、予想ではなく、生命の躍動なのだ。
2016年4月頃、私は、本当に迷っていた。
その頃の私は、右足を機械論的パラダイムに乗せ、左足を生命論的パラダイムに乗せていたのだ。
心の中では、生命論的パラダイムに重心を乗せたいと思っているが、それでどうやって生きていけるのかが見えないことが不安で、なかなか思い切ることができなかった。
一方、自分を長期間支えてきた機械論的パラダイムにも陰りが見えてきて、同じことをやっても収益が上がらない状況になりつつあった。
迷いに迷った末、確信は持てないまま、生命論的パラダイムに全重心を乗せることにした。先が見えないから不安だという考え方そのものが、機械論的パラダイムにおける不安感だと思ったのだ。
全重心をかけると、見えてくる景色が一変した。半分だけ重心を乗せているのと、全重心を乗せるのとでは、全く違うのだ。
半分だけ重心を乗せていたときは、リスク管理をしていたが、飛び込んでしまった以上、向こう岸まで泳ぎ着かなければ死んでしまうので、自分の中の「生きる力」が立ち上がり、必死になって泳ぎはじめたのだ。
自分のマインドセットを生命論的パラダイムに切り替えるために、毎月10万円使っていた広告費を、すべてペイフォワード予算に振り替えることにした。
広告は、過去のデータを下に反応率を計測し、反応率がよいものへと改善していくものだが、その結果として、消費者マインドを強く持った人が集まってくる。それが、旧パラダイムの象徴のような気がして違和感を感じ始めたのだ。
ただし、単に広告を止めただけでは、人が来なくなるだけだ。考えた末に、広告とは180度違うことにお金を使おうと思った。それが、「ペイフォワード予算」だった。
自分の周りに循環が生まれ、その循環によって自分が生きていけるようになることを意図したとき、まずは、自分からはじめようと思った。
とはいえ、毎月10万円、見返りを求めずに、感謝と応援に使っていくというのは、なかなか難しいことだ。
だからこそ、毎日のように、自分は、どこに感謝を感じているか、世界のどこを応援したいと思っているか・・と真剣に考え、払う先を決めて払っていく。
2016年5月から7ヶ月間やってみた結果、素晴らしい気づきを得た。
機械論的パラダイムにおける不安の源は、不確定要素であったが、生命論的パラダイムでは、不確定要素こそが創造の源になるのだ。
自己組織化が起こるターニングポイントは、ゆらぎが広がらずに消失してしまうか、増幅されて渦が広がっていくかどうかにある。そのような活性化した場が周りにできていれば、創造の渦が巻き起こっていく。
自分の周りの場を活性化させ、ゆらぎが増幅されて広がっていくようになれば、自分は生きていくことができる。「ペイフォワード予算」は、自分の周りの場を活性化させるための投資だと考えると、全く非合理的な行動だと思っていたものが、合理的な行動だと思えてきた。
多くの人とコミュニケーションを取りながら生きていると、ちょっとした思いつきや提案などがやってくる。
それらの多くは、計画に従って動いているときには無視されるような小さなゆらぎである。
しかし、それを無視しないで、片っ端から増幅していくと、毎週のように新しいプロジェクトが立ち上がるようになる。
ゆらぎを無視しないだけでなく、増幅していくのだ。そうすると、共創造のサイクルがどんどん回り始める。
不確定性は増大し、1ヶ月後に自分が何をやっているのか全く予想できなくなる。
ただし、それは不安ではない。
こんな頻度でプロジェクトがニョキニョキと立ち上がっていくのであれば、生命の躍動に支えられて生きていくことができるはずだという安心感があるのだ。
私は、これを「生命論的パラダイムにおける安心感」と名づけた。
半年前、「機械論的パラダイムにおける不安」を強く感じておびえていた私は、異なる種類の安心感を手に入れた。
最近は、予想の付かない展開に次々に巻き込まれるようになってきた。
未来は、余計に予想不可能になってきた。
しかし、それは、不安ではなく希望である。
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