進路に迷っていた大学3年生の頃、配属が決定していた研究室のゼミのテーマが「カオス」だったことがきっかけで、J・グリックの『カオス-新しい科学をつくる』を読んだ。

物理学科の中では、優秀な人たちは宇宙論か素粒子論へ進む。そこでの激しい競争に身を投じる自信のなかった私は、それ以外の分野で面白いテーマはないかと考えていたのだが、そんな私にとって「カオス」は、まさにぴったりなテーマだった。

私がカオスに惹きつけられた理由は、競争に勝ち抜く自信がなかったことに加えて、カオスから、パラダイムシフトの香りがしたことだった。

当時、科学が人を幸せにしているという神話を信じられなくなっていて、どうせやるなら、パラダイムシフトを起こしていく側に回りたいという想いがあったのだ。

そんなこんなで、この分野を極めることを勝手に決意し、猛烈な勢いで、カオス、非線形物理、自己組織化、複雑系・・などを学んでいった。

協同現象(シナジェティクス)との出会い

卒業論文を書きながら、いつも傍らに置いていたのが、H・ハーケンの『協同現象の数理ー物理・化学・生物における自律形成』だった。

ハーケンは、多くの量がお互いに関係し合う複雑なダイナミクスにおいて、どのようにして秩序が生まれてくるのかを研究し、その結果、「隷属化原理」というものを見つけた。

これは、様々な変数の中で、ゆっくり変化する量が秩序パラメーターのように振る舞い、その他の変数がそこに「隷属」していくという仕組みだ。

秩序パラメーターというのは、変化を外側からコントロールする量だと考えればよい。たとえば、水の融点を調べる実験を行う場合は、水槽を固定し、ゆっくり温度を下げていく。この場合、水分子同士の相互作用などが観察しているダイナミクスで、温度が秩序パラメーターになる。

このような人為的な実験では、ダイナミクスと秩序パラメーターとを区別するが、自然界には秩序パラメーターなど存在せず、ダイナミクスしかない。

しかし、変化の速度が速い量と遅い量とがある場合、変化の速度が速い変数から見ると、遅い変数は、あたかも「定数」のように振る舞うようになる。

例を挙げよう。私たちの日々の活動に比べて、太陽系が形成されて消滅していくダイナミクスは遙かにゆっくりしているので、私たちは、太陽系を「変化せずに存在しているもの」として捉え、そこに適応していく。

「変化せずに存在しているもの」はフレームワークを与える。フレームワークが与えられると、その内部で最適化が起こり、ダイナミクスが単純化してくる。いくつかの変数が定常状態に落ち込むと、それは、新たに「変化せずに存在しているもの」となり、他のダイナミクスのフレームワークとなる。このようにして、乱雑な状況から秩序が生まれてくる。ハーケンは、これを、協同現象(シナジェティクス)と呼んだ。

ゆらぎを通した秩序~散逸構造

隷属化原理に基づいた協同現象については、理解できたが、私が知りたかったことは、自発的に複雑化していくプロセスだった。それこそが、私の考える自己組織化のイメージだったのだ。

イリヤ・プリゴジンの『ゆらぎを通した秩序』という言葉にヒントがあるのかと思い、修士課程では『散逸構造』の自主ゼミを行った。

熱力学第2法則は、孤立系ではエントロピーが増大していくことを主張する。つまり、コーヒーにミルクを入れると、どんどん混ざっていくように乱雑さが一方的に増大していくのだ。

しかし、非平衡開放系では、エネルギーや物質の循環が起こる可能性があり、混沌とした状態から秩序が立ち上がってくる可能性がある。

プリゴジンは、非平衡状態の熱力学を用いて、一様な状態から、秩序が立ち上がっていくダイナミクスを明らかにし、「散逸構造」と名づけた。

ゆらぎが増幅され、時空間パターンが形成する例として有名なのは、B-Z反応だ。

プリゴジンは、BZ反応の速度方程式の本質的な部分を抽出したモデルであるブリュッセレータを数学的に解析し、非線形性によってゆらぎが増幅され、一様な状態が不安的化し、縞模様や、振動するパターンが生じてくることを示した。

このような生き物を想起させるようなパターン形成に、私はワクワクし、このような研究の延長線上に、生き物らしさの理解があるのではないかと思った。

創発システム

自分は何に惹かれているのだろうかと問いかけながら研究を進めていく中で、生命現象の自己組織化へと興味が向かっていった。

ビッグバン以来、自発的対称性の破れが次々に起こり、異なる状態同士が接するインターフェースのところに散逸構造のような渦が巻き起こり、隷属化原理によって単純な構造に落ち込む働きと、更に複雑な仕組が生まれていく働きとが拮抗しながら、より高度な秩序を創りだした結果として生命が生じていると考えたときに、生命は、究極の自己組織化現象だと思ったからだ。

私は、袋小路にはまったときに、ゆらぎを増幅させて、そこから脱出していくことができるという部分に生命らしさを感じる。

あるフレームの内部で最適化されていく活動と、そのフレーム自体を抜け出して、創造的な解を見つけ出していく活動とが両立するようなダイナミクスが、生き物のダイナミクスなのではないかと考える。

ある行動ルールを与えたサブユニットが相互作用した結果、集団の中にサブユニットに帰着できないような活動が生まれ、それが、私の考える生き物らしさを表現してくれるのではないか?

非線形現象、カオス、散逸構造、協同現象・・などの概念の絡み合いの中で、生き物の創造性を理解できるのではないか。

複雑系研究者の多くが、そのような想いで創発システムを研究していたのだと思う。

私も、同じ夢を思い描きながら、細胞性粘菌を研究していた。

偏微分方程式で書いた細胞モデルを相互作用させ、細胞集団に個々の細胞モデルの性質には帰着できない時空間パターンを発生させることには成功したが、それは、私がイメージしていた生き物らしさには遠く及ばないものだった。それは、いつも決まったパターンに落ち着くものであった。隷属化原理に基づいた協同現象はシミュレーションによって再現できるが、創造性は発生しないのだ。

創発が起こるためには、何が足りないのだろうか?

その疑問は解決しないまま、大学院の博士課程を中退した。

ゆらぎには叡智が詰まっている

10年以上経ち、様々な巡り合わせにより、再びこのテーマについて考えることになった。

反転授業に関わるようになり、学び、組織、社会を、自己組織化の原理で変えていきたいと思って活動を始めた。

自己組織化について考える中で、協同現象と創発の違いについて、改めて考えることになった。

そのきっかけになったのは、清水博さんの『<いのち>の自己組織』の中で、自己組織化が2種類に分類されていたことだった。(詳しくはこちら→ 『魂の脱植民地化とは何か』を読んで考えたこと

・散逸構造的な自己組織

・<いのち>の自己組織

前者は、固定されたフレームの中で隷属化原理にしたがって再現可能が繰り返されていくような自己組織である。

後者は、清水さんによると「内在的世界と外在的世界とを循環しながら起こる自己組織」である。

「内在的な世界」をどのように捉えたらよいのかが分からなかったが、私が探究したい自己組織は、後者であることは明らかだった。

その後、安冨歩さんの『合理的な神秘主義』を読み、安冨さんとお話しする機会があった。

そのときから、記述の原理的限界がどのようにして生じるのかということを考え始めた。

神秘=記述の原理的限界の外側

と定義し、なおかつ、その存在を仮定したことで、清水さんの「内在的世界」は、記述の原理的限界の外部に存在する世界のことを指しているのだと理解することができた。

記述をするためには、フレームが必要になる。

フレームを設定した瞬間、フレームの外部は存在しなくなる。

外部の存在は、境界条件や、ゆらぎ、という形で代替される。

シミュレーションでは、ゆらぎは、ホワイトノイズとして導入される。

ホワイトノイズは、単に内部のダイナミックスを起動するだけの役割を果たし、その結果、内部のダイナミックスが再現可能な形で現れる。

しかし、私の思考に入ってくるゆらぎは、ホワイトノイズではない。

それは、いわば、私の脳細胞や体細胞が、私を取り巻く世界からの情報を受け取りながら生きている結果として起こる生命活動のささやきの総和であり、膨大な情報処理がなされた結果として生じるものである。

私の思考に入ってくるゆらぎには、私と私を取り巻く宇宙の情報が凝縮されている。ちょっと大げさな言い方だが、私を含む宇宙のダイナミクスの一つの現れだと考えることができる。

yuragi

そのようなゆらぎが増幅されたときに、創造的な活動が生まれていくのだとすると、私の粘菌モデルに創発が起こらなかった理由は明らかだ。

安冨さんが、Facebookの私の投稿に、次のようなコメントをしてくれた。

プリゴジンの「散逸構造論」に、創発への道を夢見て、非線形科学に入ったので、ハーケンの「隷属化原理」という名前に違和感を覚えてしまったのだけれど、『貨幣の複雑性』を書き上げて、よくよく考えてみると、いわゆる構造形成では必ず隷属化が起きていることに気づきました。
たとえば、貨幣の生成では、そこに効率性の向上と不平等の形成が不可避的に起きる。この状況下で人々が「最適化」を目指すと、貨幣が崩壊して元の不効率で平等な状況に戻る。
コンピュータで、いくらやっても、より複雑であったり、より豊かであったり、より平等あるような状況への変化が起きないので、困ってしまったのだが、ある時、そこから先に行きたければ「創発」が起きなければならないず、それは「隷属化原理」に従う「協同現象」ではありえないのだ、と気づきました。
そう考えると、夢を膨らませてくれたプリゴジンより、夢を凋ませてくれたハーケンの方が、正確だった、ということかもしれません。もちろん、両方いてくれたから、たどり着いたのですが。

安冨さんの言葉を手がかりにして壁を登っていった結果として、創発の概念を自分なりに理解できたことができ、感謝の気持ちで一杯になった。

自分の内部から沸き上がってくるゆらぎを無視し、「正しいと教えられたこと」に基づいて論理的に生きていくと、創発が生まれなくなるのだと思う。

だから、ちょっとした思いつきや、やってみたくなったことは、自分の思考が意味づけできなかったとしてもやってみるようにしている。

それは、脳の上にソフトウェアとして走っている「思考」よりも、遙かに複雑なプロセスによって浮かび上がってきたものかもしれない。

ゆらぎに詰まっている叡智を信じて増幅していくと、どんなことが起こるだろうか?

ワクワクしながら、人生の実験を続けていく。

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