田原真人

クラウドに粘土団子を撒く自己組織ファシリテーター

About

A short biography

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Masato Tahara

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Profile(English)

田原真人(たはらまさと)

自己組織化ファシリテーター
オンライン教育プロデューサー
「反転授業の研究」代表
「フィズヨビ」代表

早稲田大学理工学研究科博士課程で生命現象の自己組織化について研究後、河合塾の物理講師になり、2005年に物理ネット予備校(フィズヨビ)を立ち上げる。反転授業との出会いをきっかけに、ピラミッド型の社会システムや教育システムに疑問を抱くようになる。自らの学び場を自分で創るために「反転授業の研究」を立ち上げる。そこで対話を通した自己組織化と出会ったことで、学生時代に学んだことを生かせるようになった。オンラインコミュニティに自己組織化が起こり、集合知→価値創造→価値提供の循環を生み出せるようになった。その体験を分かち合うために自己組織ファシリテーターとしての活動を始める。
 
動画や、Zoom(Web会議室)、Moodleなどを組み合わせながら、オンラインに安心安全の場を創り、心を開いて対話し、揺らぎを増幅して場の温度を上げていくと「場の<いのち>」が創発する。これは、生きものが持っている根源的な仕組みであり、自然の摂理そのものだと思う。しかし、自然の摂理から隔たったピラミッド型の社会の内部では、そのような仕組みは忘れられていることが多い。自然の摂理に沿った生き方をすれば、それぞれが自分と繋がることができ、多様な個が繋がって共創造していく共存在の世界を創るはずだ。その世界観を広げるために、志を持った人の周りにオンラインの場を創り、リアルとオンラインを循環させながら活動をエンパワーしていく。

田原真人の詳しいプロフィールはこちら

自然農法の福岡正信さんは、粘土団子の中に多くの種を詰め込み荒れ地にばら撒いた。そのときに発芽すべき種が発芽するのだから、人間は判断せずに自然に任せればよいのだという。
 
本来知り得ない未来を予想し、安心感を得ようとする心は、他の生命を押さえつけて管理するシステムを生み出す。科学によって未来を予想するためには、再現可能な初期条件が必要なのだ。人類は自然界の生き物たちを管理しようとし、また、一部の人たちが、他の人たちを管理しようとする。管理された自然は活力を失い、管理された人たちは心身を病んでいく。
 
ここから、どうやって抜け出したらよいのだろうか?

見返りを期待せずに、未来へ向かって種を撒いていくことが、管理から抜け出す道ではないだろうか。
 
アスファルトの隙間からも、ビルの屋上からも植物はたくましく芽を出していく。ありとあらゆる可能性を試し続ける。その中で必然的に循環構造が自己組織化する。
 
どのような未来が来るかは、種を撒く人には分からない。でも、種を撒き続けることは、管理から抜け出し、私たちが生き物としての誇りを持って健やかに生きることができる社会へと繋がっていく。
 
クラウドに粘土団子を撒こう。
 
そこからどんな芽が生えてくるかは、宇宙が教えてくれるだろう。
 
予想もしなかった人たちとオンラインで繋がり、想いが共鳴して自己組織化が起こり、大きなうねりとなっていくはずだ。

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田原の物理

たとえ話と微積分で物理がどんどん得意になる「田原の物理」がアプリで登場。
講師(田原真人)とリキヤくん、ナミさんの2人の生徒の対話形式で進行。楽しく分かりやすい解説と物理シミュレーション動画で「力学」の理解が深まり、数々の問題をスイスイ解いていけるようになります。・先生と生徒の対話形式で、学習者の気持ちに立った、分かりやすい解説。
・物体の動きをシミュレーションした動画を閲覧でき、解説の理解が深まる。
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本アプリ内に「田原の物理 力学」の無料体験版が付属。たとえ話や物理シミュレーション動画を体感できます。「田原の物理 力学」の全ての内容をご覧いただく場合は、アプリ内で「田原の物理 力学」有料版をご購入下さい。

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一緒に実現するために考えましょう。

一緒に未来を創っていきましょう。


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  • お互いの内側の森に種を蒔き合う

    責任と影響力

    社会構造に無自覚に過ごした20代の終わりに待っていた人生のちゃぶ台返しを経て、自分が無自覚に及ぼしてしまう権力というものに対して恐怖が芽生えた。

    男性優位社会において「男性」であり、学歴社会において「高学歴」であり、教室で教壇に立っていたりすると、それだけで、権力構造の文脈の中に取り込まれ、自分が好むと好まざるとに関わらず、自分から権力が発動してしまう。

    ヒエラルキー構造において影響力を持つということは、ヒエラルキーにおける上位のポジションを得るということと同義である。影響力は、個人ではなく「立場」から生まれ、上から下へと一方向的に伝わっていくからだ。

    ヒエラルキー構造において、「下の者」は、「上の者」に支配されることを要求される。そして、「上の者」が管理責任を持つことによって、「下の者」は責任を免除される。自分は命令に従っただけで、責任は「上の者」にあると考えることで、行為に対して責任を持たなくてもよいとされるのだ。

    このように、責任や影響力といった言葉には、機械論パラダイムの手垢がべったりとついている。

    それが極まると、アイヒマン裁判で有名なナチスのアイヒマンのように、自分がどのような行為をしても「命令に従っただけなのだから無罪である」というような責任転嫁の感覚に行き着く。

    フォアグラ型教育では、フォアグラ生産者がガチョウのフォアグラの大きさを管理し、責任を持つ。

    ガチョウは、自らの身体の管理を手放し、病気になれば、フォアグラ生産者の責任を問う。

    この構造は、学校教育を通して構築され、社会の様々な場所に浸透している。

    責任

    僕は、フォアグラ生産者として影響力を及ぼしたり、責任を取ったりしたくない。

    そして、ガチョウとして、誰かに責任を取ってもらったりもしたくない。自分の人生の責任を自分で持ちたい。

    権力を行使せずに、他人とどのように関わったらよいのだろうか?

    分断を乗り越えるためには、他人と関わる必要があるけど、影響力や責任と、どのように向き合ったらよいのか?

    そんなことを考えながら、散歩をしていたら、ある気づきが降りてきた。

    お互いの内側の森に種を蒔き合う

    僕が考えていることのすべては、言葉も含めて、すべて外側からやってきたものだ。

    いろんな種が撒かれて、僕の内側に森が繁っている。

    子どもの頃は、きっと森じゃなくて、管理された「畑」だったのかもしれないけど、今じゃ、いろんな植物が繁って森になってきている。

    対話をすると、相手からいろんな種が飛んできて、自分の森に着地し、必要に応じて発芽する。

    自分から出た種も、相手の内側の森に撒かれて、必要に応じて発芽する。

    必要が無ければ発芽しない。

    発芽するかどうかは、宇宙が決めること。

    相手を管理して、相手の内側に無理矢理に種を蒔き、思った通りに育てようとすると抵抗にあう。だからこそ、管理と権力はセットで行使される。

    権力を行使するのではなく、相手から受け取った種を、自分の内側の森で大切に育てていく。

    それぞれが、種を大事に受け取って育てていくという世界を、まず、自分が創っていく。

    そして、「あなたから受け取った種が発芽して、こんなに大きくなりましたよ。ありがとう。」と伝えていく。

    自己肯定感が低いと、自分が周りに与えている影響を認識できない。

    自分が撒いた種が、他の人の内側の森で発芽しても、それが自分の種のはずはないと思ってしまう。

    だから、ちゃんと覚えておいて、「あなたの種が、こんなに大きく育ちました」と伝えていくことが大切だ。

    感謝と共に受け取った影響を伝えていくことで、自分の持つ影響力を認識できるようになり、正当な自己肯定感を取り戻していくことができる。

    これは、そっくり自分にも当てはまる。僕も、「あなたの蒔いた種が、私の内側の森で育ちましたよ。」と伝えてもらうことがあり、そのおかげで、自己肯定感を取り戻すことができる。

    感謝を感じながら、自分の内側の森を育てていくと、多くの果実が実る。

    この果実は、自分が実らせたものではなく、多くの人からいただいた種が森を育み、豊かな土壌生態系を生み出し、森に多種多様な循環が生まれたからこそ実ったものだ。

    だから、「みなさん、ありがとう!みなさんのおかげで、こんな果実が実りましたよー。一緒に食べましょう!」と声に出すことができる。

    そして、そうやって食べる果実は、1人で食べる果実より、何百倍もおいしい。

    内側の森

    共創の世界は、とても豊かだ。

    内側の森には、いくらでも種を蒔くことができ、次々に創造のサイクルが回る。

    若い頃に教わってきた「創造性」は、個人に属するもので、それが、自分に備わっていないことが残念だった。

    でも、そうではなく、「創造性」は、宇宙に備わっているもので、自分の内側の森の存在に気づけば、誰もがアクセスできるものなのだと思う。

    分断の呪縛を解き、内側の森に、お互いに種を蒔き合っていきませんか。

    すでに現れつつある豊かな世界を、一緒に探求してみませんか。

     

     

     

     

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  • フォアグラ型教育から対話型教育へのシフト

    私が、教育システムの構造的な問題について考え始めるきっかけとなったのは、311の後に見えた光景だった。

    それが、実際に見えたというよりも、自分にはそういうように感じられたということなのだが、とにかく、次のようなことが自分には見えてショックだった。

    真実を見てつらくなるよりは、今まで通り、楽しく生きたい

    真実はどこにあるのか?と思って、夜も寝ないでインターネットで調べまくっていた自分は、他の人も同じことをやっているはずだと漠然と思っていたが、必ずしもそうではないのだということに気づき、呆然とした。孤独も感じた。

    そして、それが個人の問題ではなく、教育システムや、社会システムが生み出した問題だと思い、そのメカニズムを明らかにしたいと思った。

    真実を見に行くことに対する恐れは、自分自身にもある。それを見に行くと、世界の底が抜け、取り返しのつかないことになるのではないかという恐怖がわいてくる。

    実際に見に行くと、確かに世界の底が抜けてしまい、ある意味、取り返しがつかない状況になったりするわけで、底が抜ける直前は、すごく怖いわけだが、抜けてしまえば、自分の中の囚われが少なくなり、思考が自由になる。すると、いろんな人と繋がれるようになり、自分の創造性が、明らかに増していく。心が柔らかくなってきて、外部の刺激に強く反応しないで受け止められるようになり、以前よりも、世界を自由に探検できるようになる。それを実感して、自分の世界を閉ざしていた蓋が、刺激に対して反応していたのだということに気づく。蓋がなくなったから、反応しなくなったのだ。

    去年、由佐美加子さんからNVC(非暴力コミュニケーション)のことを学んだり、深尾葉子さん、安冨歩さんの「魂の脱植民地化研究」に関わらせていただいたりしていくなかで、蓋が構築され、世界が狭くなっていくプロセスが明確になったきた。そんな中で、1冊の本と出会った。

    パウロ・フレイレ著 『被抑圧者の教育学』だ。

    この本では、子どもを単なる容れ物だと見なして、お金を銀行に貯金するように、子どもに知識を流し込んでいく教育を「銀行型教育」と呼び、対話型教育へのシフトを呼びかけている。

    そして、教育の中でどのように抑圧が行われているのかを解明していく。この本を読んで、曖昧だったところが明確になった。

    ただ、私には、「銀行型教育」というメタファーが、どうもしっくりこなかったので、もっとよいメタファーがないかと考えていたところ、ぴったりくるものが思い浮かんだ。

    それが、「フォアグラ型教育」だ。

    みなさんは、フォアグラという食べ物を知っているだろうか?

    ガチョウやアヒル、鴨などに対して運動の自由を奪い、餌を強制的に大量に食べさせ、脂肪肝になるようにする。その脂肪肝を「フォアグラ」という食べ物として食べるのだ。

    ここには、生き物を抑圧し、モノ化するメカニズムが分かりやすい形で現れている。

    もし、人間とガチョウがコミュニケーションが取れるとしたら、フォアグラ生産の場でどのようなことが起こるだろうか?きっと、次のようなことになるのではないだろうか。

    フォアグラ型教育

    フォアグラ生産者は、脂肪の多い食べ物をガチョウの口から強制的に流し込む。

    ガチョウの身体は、「もう食べたくない」「苦しい」というサインをガチョウの脳に届ける。

    しかし、ガチョウは、そのサインを受け取って食べるのを止めることができない暴力的な環境に置かれている。

    フォアグラ生産者は、ガチョウが抵抗せずに、むしろ、進んでフォアグラ生産に協力するように、「口を閉じずに我慢できるなんてえらいぞ!」「おまえは、なんて強いガチョウなんだ」と褒めたり、「食べ物を戻してしまうなんてダメな奴だ」と叱ったり、「この檻から出たら餌を取ることができずに飢え死にするぞ」と脅したり、「肝臓の大きいやつほど価値がある」「肝臓の大きい優良な奴は、大きめの檻に入れてやるぞ」などと序列化したりする。

    暴力的な環境に置かれているガチョウにとって、現実を直視するのはつらい。その状況で精神が崩壊することから身を守るために、ガチョウが、身体からのサインを無視し、フォアグラ生産者の意図を内面化していくと、抑圧が進む。

    抑圧されたガチョウは、「自分は我慢強いガチョウだ」という虚栄心を抱いたり、「あいつは、食べ物を戻す弱いガチョウだ」「自分の肝臓のほうが、あいつの肝臓よりも大きいから、自分のほうが優れている」などと他のガチョウを見下したりするだろう。「大きな肝臓になれば、大きい檻に入る自由が手に入るのだ」と考え、進んで我慢して口を開け続けるようになるだろう。ついには、自分の肝臓のことを「フォアグラ」と呼び始め、「自分のフォアグラは5万円の商品価値がある」などと自慢し始めるだろう。

    安冨歩さんは、『生きるための経済学』の中で、次のような思考連鎖を、死に魅入られた経済学(ネクロフィリア・エコノミクス)と呼んでいる。

    自己嫌悪→自己欺瞞→虚栄→利己心→選択の自由→最適化

    この思考連鎖は、抑圧されたガチョウのことを思い浮かべると納得できるのではないだろうか。

    囚われの身である自分に対する自己嫌悪が、自己欺瞞を生み出し、虚栄や利己心を生み出していく。その先にあるのは、序列化の上に行くことで得られると思わされている選択の自由であり、以下に効率よく序列を上げるのかという行動の最適化だ。

    では、抑圧されたガチョウが、自分自身を取り戻していくためには、どうしたらよいだろうか?

    その第一歩は、身体からのサインに耳を傾けることだと思う。

    生き物は、環境応答能力を持ち、みずから環境を作り替えながら、自分も作り替えていき、自分と環境との間に創造的な活動を生み出していく。

    檻に閉じ込めて自由を奪い、身体からの応答を無視させることで、ガチョウは、多くの飼料を入力すれば、大きなフォアグラがアウトプットされるという単純な入力ー出力関係の物質系に貶められているのだ。

    だから、檻から脱走し、身体からの応答に耳を傾け、環境応答力を取り戻すところが、抑圧から逃れる第一歩になる。

    そして、教え込まれてきたことに対して疑問を投げかけ、それらを自分の語りによって再定義していく。

    そのために重要な役割を果たすのが対話である。

    学ぶというのは、抑圧者の言葉を効率よく受け入れることではない。

    自分が健康に生きるために、環境とやりとりしながら、自分の語りによって世界を定義していくことだ。

    深尾葉子さんは、魂の植民地化を次のように定義する。

    人間の魂が、何者かによって呪縛され、そのまっとうな存在が失われ、損なわれているとき、その魂は植民地状態にあると定義する。

    また、魂が植民地状態に置かれる仕組みを、次のように「蓋(ふた)」という概念を用いて説明する。

    他人に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自律性が損なわれるというわけではない。重要なのは、それによって自らの感覚へのフィードバックが絶たれているかどうか、である。ここで、自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって、知覚できないように抑え込む装置ないし機構を「蓋(ふた)」と呼ぶ。

    身体からのフィードバックを断ち切り、抑圧されていたガチョウたちが、対話の中から「これは、フォアグラではない。肝臓だ。私が健康に生きるために重要な役割を持った、私の内臓だ!」と気づき、自分の言葉で再定義していくとき、ガチョウの魂の蓋が開き、抑圧され、植民地化されていたガチョウの魂は、脱植民地化されていくだろう。

    安冨さんは、次のような思考連鎖を、「生きるための経済学」と呼ぶ。

    自愛→自分自身であること→安楽・喜び→自律・自立→積極的自由→創発

    真実を見に行くと、抑え込んできた強い感情が溢れ出る。それは、多くの場合、痛みを伴う。ガチョウにとって、自分が囚われた存在であり、信じていたフォアグラ生産者が、自分を商品として扱っているという真実を知ることはつらいことだろう。

    しかし、NVC(非暴力コミュニケーション)は、その強い感情を手がかりに、その奥にある自分自身が大切にしているものを探っていき、それと繋がれれば、エネルギーが沸いてくるのだと教えてくれる。私が311の後に感じた強い怒りと哀しみの奥には、「人間(生き物)が、人間(生き物)らしく生きることを大切にしたい」というニーズがあった。このニーズに繋がれたとき、怒りと哀しみの大きさが、自分の内側にあるエネルギーの大きさとして感じられた。

    ガチョウは、痛みや悲しみを感じつつも、感情を抑圧していたときには感じられなかった色彩鮮やかな世界が内部に広がることを感じるだろう。それは、自分自身であることからくる喜びだ。そして、自分の内側に、「生命を躍動させて生きたい」という強いエネルギーが存在していたからこそ、強い怒りと哀しみを感じたのだということを理解するだろう。そのとき、自分が無力な家畜ではなく、自然の一部として祝福された存在であると感じられるだろう。

    自由を取り戻した魂は、創造性を取り戻していく。自由な魂同士が出会うと創造の渦が回っていく。

    フォアグラ型教育から、対話型教育へシフトしよう。

    それは、子どもを抑圧していく教育から、子どもを解放していく教育へのシフトだ。

    そのシフトには、痛みが伴う。

    なぜなら、私たちもフォアグラ型教育を受けてきたし、また、そのような教育を施してきてしまったからだ。

    だが、その痛みは、私たちの内部に、大切にしているものが確かに存在しているという証拠でもある。

    だから、痛みの向こう側にある、自分が大切にしているものを見に行こう。

    そこから、豊かで美しい世界へと繋がるはずだ。

     

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  • 善悪の評価を超えた野原で回る共存在サイクル

    311の後、世界の舞台裏が急に目の前に現れたように感じ、もとの世界には戻れなくなってしまった。

    同じものを見たはずの人たちが、もとの世界で生活を続けているのを見て、孤独感を感じた。

    それまで生きてきた40年間の人生の舞台裏でも、同じようなことが起こっていたのだと思い、自分の人生の意味が変わってしまうような気がした。

    それからの自分は、ずっと怒り続けていた。

    社会システムに対して

    教育システムに対して

    そのなかで生きてきた自分に対して

    311以前の世界を生きている人たちに対して

    怒りのエネルギーを燃料として、問題を掘り下げていくエンジンが回り始めた。

    どうしてこんなことになってしまったのかを突き止めたい。

    自分に対しても、周りに対しても批判の目を向けながら、リミッターを外して、がむしゃらに進んでいった。

    人間を工業製品のように生産する教育システムが、人間の心をどのようにして不自由にしていったのか?

    自分の心には、その影響が、どのように残っているのか?

    人間の心を自由にしていくためには、どのような方法があるのか?

    進めば進むほど、世界の見え方が変わり、それに伴い、自分も変容していった。

    そして、その速度は、どんどん加速していった。

    人間を機械化するプロセスを否定し、ひたすら実験を繰り返しながら生命的に生きるということをやり続けた結果、ついに、そのスピードに身体がついて行けなくなってきた。

    血圧が180を超え、心臓に問題が生じ、首と肩に激しい痛みが出て、身動きが取れなくなった。背中にカッピングをしたら、背中全体がどす黒い紫色に染まっていた。

    仕事を効率化したり、作業を他人に代行してもらったりせざるを得なくなった。

    試行錯誤を通してプロトタイプを創る工房パラダイムを肯定し、大量生産をする工場パラダイムを否定してきた自分が、この両者を統合する必要が出てきた。

    そんなとき、『かかわり方の学び方』という本を読んだ。

    そこで、工房パラダイムから、工場パラダイムへと連続的に繋がるグラフと出会った。

    そのグラフを見ながら、工場パラダイムが極まったら、成功体験を手放してパラダイムシフトを起こして、工房パラダイムを最初から始めるはずだと思った。そして、ペンを取り出して曲線を引いてループを作り、Uプロセスと書き込んだ。

    それを見ているうちに、工房、工場、変容は、どれも、生きていくために必要な要素なのだということが、じわーっと認識されてきた。

    共存在サイクル

    どれかが善で、どれかが悪なのではなく、それぞれが違う評価軸を持っているから、多様な人たちが生きていけるのだと思った。

    共存在サイクル表2

    311の後、ずっと自分の中にあった怒りの奥にあったものが何だったのかが見えてきた。

    怒りの奥にあったのは、人間が人間らしく生きるということを大切にしたいという気持ち。

    それを実現するための手がかりを掴めたことで、自分がやってきたことに意味があると感じることができた。

    ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーは言う。

    「間違った行ないと正しい行ないを超えたところに野原が広がっています。そこで逢いましょう」

    ルーミーは、この野原へ到達するために、どれだけの痛みを乗り越えたのだろうか?

    大きく左右にぶれるからこそ、バランスが取れる中心を見いだすことができるのだと思う。

    共存在サイクルは、誰も否定せず、優劣を作らず、水平に回る。

    これは、ルーミーが待っている野原で回るサイクルだと思う。

     

     

     

     

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