世界を隔てる壁の正体は何か
もしあなたが子犬をもらってきて、その子犬が敷地から外へ出ていかないようにトレーニングして、あなたにとってのよい「飼犬」になるようにしたいとしましょう。
子犬は、旺盛な好奇心を持って生まれくるので、ありとあらゆる可能性にチャレンジするでしょう。
その可能性の芽を1つずつ摘み取っていくと、許された行動だけしかしない「おとなしい飼犬」が出来上がります。
鎖を外しても、敷地の中からは出ていこうとしなくなります。
そのうち、子犬に芸を仕込むかもしれません。うまくできたら褒美を与え、失敗したら叱りながらトレーニングをすると、子犬は上手に芸を披露し、あなたを喜ばせるようになるでしょう。
子犬は、あなたがコントロールした世界の中で許された行動だけをし、あなたから飼犬としての安全と幸せを与えられるのです。
では、次に、あなたが、その子犬であった場合を考えてみましょう。
あなたは、無限の可能性を持って生まれてきました。
あなたは、主人から褒められたり、罰を与えられたりしながら、敷地内でのふるまい方を身につけていきます。
あなたは、教えられた「正しい」ルールを身につけ、それに従って行動するようになったのです。
でも、ある日、知ってしまったのです。
ふとした偶然から、敷地の外に出て、そこに森があることを。
全く違う生き方をしている動物の存在を。
そして、飼い主も本当は、自分と同じ「動物」であることを。
あなたは、森へ出ていき、様々な危険を乗り越えて成犬になり、自分の子犬を育てることになりました。
森で生きていくために必要なことを子犬に教えようとして、あなたは気がつくはずです。
未来は不透明であることを。
飼犬時代には知らなかった変化に満ちた無限の世界が広がっていて、そこで生き抜く成功法則を自分は知らないということを。
あなたが子犬にできることは、生まれ持った好奇心の芽を摘まずに育てること。
旺盛な好奇心こそが、世界を把握し、生き抜く力になることをあなたは悟ったのです。
僕たちの周りには、たくさんの見えない壁があります。
その壁の多くは、教育によってもたらされたものです。
それは、生きていくためのフレームとしてあなたを助けるものであるのと同時に、あなたの可能性を制限するためのものです。
あなたが壁によって守られていると感じているなら、その壁はあなたにとって必要なものでしょう。
しかし、世界は変化しているのです。
その壁がいつまでもあなたを守ってくれるとは限らないのです。
あなたが壁によって束縛されていると感じるなら、その壁は超えていくべきハードルとなるでしょう。
あなたは勢いよく成長し、狭い壁の中の世界を乗り越えて、外側へ広がっていこうとしているのですから。
強力な壁は、物質と情報の流動性を低くし、均質な内部をもたらします。
均質な内部は、ヒエラルキーをもたらします。
一方で、好奇心を持って壁を超えて行き来する人が増えていくと、壁の内部に多様性が生まれます。
多様性は、個人の創造性を高め、ヒエラルキーを弱くしていくものです。
僕たちは、インターネットを使って、壁の向こう側のことを知ることができるようになりました。
飛行機を使って自由に旅行できるようになりました。
好奇心さえあれば、壁を乗り越えて冒険をスタートできる時代がやってきたのです。
13歳のときに学校を辞めたエインは、インターネットを使って世界のことを探索する冒険に出ました。
エインの好奇心は、正気と狂気の境界、ジェンダーの境界をも超えていきました。
18歳になったエインは、インドへ旅に出て、異なる価値観と出会いました。
自分のことをKnowledge Hunterと呼ぶエインにとってのLearningは、冒険そのもの。
エインが、Learningのイメージビデオを作りました。
僕たちを束縛しているものは、物理的なものではありません。
移動する自由、知識を得る自由はテクノロジーによってすでに切り開かれたのです。
もし僕たちが冒険を始めないのだとしたら、僕たちを束縛しているのは、もっとメンタル的なもの。
つまり、システムによって「しつけられて」しまったものが原因なのかもしれません。
Noovo物語8
教育と学び
教育と学びの大きな違いというのは、以下の点にあるだろう。
知識(knowledge)+勉強(studying)=教育(education)
知識(knowledge)+試行錯誤(trial and error)=学び(learning)教育においては、試行錯誤は負の要素とみなされる。サンドボックス(遊び場)の余地はまったくなく、結果として作り出されるのは、技術を習得した人たちだけだろう。そういう人々というのは、ある特定の分野で例外的な存在である。教育の主眼は修練(practice)だ。何度も何度も繰り返すことで完成に至る。それを技術と呼ぶのである。
一方の学びはというと、これはまったく違うコンセプトを有する。学びは作り出す(creation)のための手立て/ツール(tool)なのだが、それには絶対にサンドボックスの余地がなくてはならない。教育においては教師が指導の現場で主体的な役割を担うが、学びにおいて、教師の役割はファシリテーターになることであり、学習者を冒険につれ出し、ある特定のテーマ(subject)について挑戦と失敗をうながす。そうやって学習者自身に何かを考えさせ、打ち立てるように導いていく。どうしたことか、それがひいては直観を持つことにつながり、そしてまた直観は作り出すことを容易なプロセスとならしめる。
世の中には自らを教育したいと望む人もいれば、学びを求める人もいる。教育者にしてみれば、数千の学校と大学が存在しているのだろうが、学習者視点になると話は変わってくる。インターネットを使えばリソースは時を選ばず利用可能であるし、MOOC、動画に論文、その他もろもろのメディアがあるにはあるのだが、より大きなサンドボックスが必要だ。
日本で反転授業と言えばこの人という、自身も教育者でしかもCEOも務めるマサトと話をすると、このテーマが何度も何度も会話のネタになる。私がインド滞在中、教育へのアクセスが何もないところほど、ごく自然なプロセスとして学びが立ち現われてくることに気づかされた。これには惹きつけられたし、スガタ・ミトラ(Sugata Mitra)のプロジェクトやHole in the wallで見られたもの、つまり学びと教育は野放しの環境においても事実行われるということだ。ほんの小さな子供たちの間でさえも。
しかしこれも考えてみれば至極当然の話。胎児には好奇心があり、母体にいるときからすでにして学ぶのだし、これを野放しの環境と言わずしてなんと言う。つまり人は、息をするその前から、学ぶために学びを覚えるのだ。
マサトと私でKnowcloudという、学びのためのクラウドポータルを立ち上げようと決意した。その思想はシンプル、世界中の学びのリソースを、いま形になりつつある新しいものと集約しつつ、コミュニティが大きな役割を果たすというもの。それこそオンラインで多人数参加型のRPG(MMORPG)を遊ぶかのようにチームで協働して冒険へと乗り出し、その間、知識のマップがグラフィカルなものとしてプロフィール上に生成される。それを他者がどれどれといって眺めることも可能。その人たちと新しいプロジェクトを始めようと前のめりにもなるだろうし、それは良いアイディアだとなれば、投資という形で資金提供を受けつつインキュベーターも見つかる、なんてこともありそうだ。しかしそのためにはソフトウェアとオフライン版がなくてはならない。そうすることでインターネットにアクセスできない地域や、または誰もがインターネットを利用できるわけではない場所へと届けることも可能になる。Knowcloudは2015年1月をもっていよいよ立ち上げに向けて動き出す。乞うご期待。
★エインさんがクラウドファンディングに挑戦中です。
締め切りまであと5日。
目標金額7000USD, 現在2241USD
https://www.indiegogo.com/projects/noovo-a-brand-building-startup/x/9455632