2ヶ月前に深尾葉子さんの『魂の脱植民地化とは何か』と出会い、仲間と集まってダイアログをしたり、オンラインのイベントをやったりし始めた。安冨歩さんとも繋がり、『生きるための論語』や『神秘的な合理主義』を読み、高知大学の集中講義をZoom配信した。
そうしているうちに、自分の中の扉のいくつかが開き、眠っていたものが動き始めた。
その中の一つが、「非線形現象」である。
線形(=直線的)に対して、非線形は、「直線的ではないもの」を意味する。
線形システムでは、入力値を連続的に変化させると、出力値もそれに比例して連続的に変化するが、非線形システムでは、入力値を連続的に変化させているのにもかかわらず、ある閾値を超えると出力値が不連続に変化する。
その身近な例が相転移である。水の温度を連続的に上げていくと、ある温度で突然、対流が起こり始め、温度を更に上げていくと、対流は乱流へと変化し、100℃で沸騰する。このように、入力である温度変化を連続的に変化させているのにもかかわらず、出力が不連続に変化するのが非線形現象の特徴である。
また、カオスを含む非線形システムでは、入力値のわずかな差異が、時間発展と共に指数関数的に拡大していくため、現実的に未来を予想不可能になる。
線形振動(サインカーブで表せる振動)が、重ね合わせの原理に従うのに対し、非線形振動は、お互いに引き込み合って同期する。
このように、線形現象と非線形現象には、大きな違いがある。私たちの身の回りは、非線形現象に満ちあふれており、その一部を切り取れば、線形現象として見なせるということに過ぎない。
非線形現象との出会い
大学3年生のとき、J・クリックの『カオス~新しい科学を作る』を読み、自分はこの分野に進もうと決意した。
カオスが決定論的世界観の限界を示していることを知り、そこにパラダイムシフトの種を感じてワクワクしたのだ。
そして、生命現象を、非線形現象として理解しようとする研究を始めた。
魂の脱植民地化シリーズを先導している安冨歩さんとは、20年前に京都で行われた複雑系の研究会で一緒だった。当時、私は、物理学科の大学院生で、細胞性粘菌の数理モデルの研究をしていた。研究のヒントを得るために、東大や京大で行われる研究会に足繁く通っていた。安冨さんの研究発表を聞いたのは、京大で行われた研究会だった。東京から夜行バスで行ったため、寝不足の頭で必死に理解しようとしていたことを覚えている。
安冨さんは、物々交換のプロセスの中から対称性の破れが起こって貨幣が形成されるという研究発表をしていた。経済学をこのような手法で研究することが可能だということがとても新鮮で面白く感じたことをよく覚えている。
人生は非線形現象である
その後、私は大学院を中退して物理の予備校講師になり、オンラインの予備校を作ったり、反転授業の研究というオンラインコミュニティを作ったりと、非線形現象や複雑系とは、直接関係のない活動をしてきたが、その間、自分自身の思考の枠組みが大きく変化し、それに伴って世界の見え方が劇的に変化するということを2度体験した。
最初の大きな変化は、学生結婚した妻が病気になったことをきっかけに大学院を中退したときに起こり、2回目の変化は、東日本大震災をきっかけに起こった。
思考の枠組みの変化が起こる過程では、一時的に混乱状態に陥るが、その状態を自分自身で把握するのに非線形現象に対する理解が役立った。恩師の「カオスには世界をサーチする力がある」という言葉は、最初の大変容のプロセスのときに心の支えとなった。
大学院で研究のための知識として学んだ非線形現象の知識は、いつの間にか変化に満ちた人生を言語化するためのツールへと役割を変えた。
20年ぶりに安冨さんと巡り会い、安冨さんが書いた「合理的な神秘主義」を読み、その中に「非線形哲学」という言葉を見つけたときに、今自分がやろうとしている生命論的パラダイムの構築に、非線形現象の知識を生かせることに気づいた。
それは、あたかも使われるのを待っていたかのように自分の中に存在していて、そのことに感動してしまった。
生命論的パラダイム
反転授業に取り組むようになり、それが、教育システムのパラダイムシフトに関わるムーブメントであることに気づいた。
産業化社会は、線形的思考によって作られている。線形現象というものは、本来は非線形現象に満ちあふれた世界を、線形近似したにすぎない。実験室では、単純理想化した環境を作り、線形的に理解できる状況を人工的に作り出す。
線形的に単純な因果律で理解したいという精神が、実験室という人工的な世界を作りだし、その中で起こった現象を線形的に理解しているのだ。
非線形現象を線形的に理解するためのは、外部との相互作用を断ち切って空間的に隔離した密室を作り、循環的な時間の一部を切り出して直線的な時間と見なし、その時間の前後に因果律を見いだす。
そして、その因果律が、実験室内で再現可能であることをもって「科学的である」と主張し、実験室内の結果に基づいて得られた結果を、適用範囲外の実験室の外の世界へ当てはめていく。
線型的に理解したいという精神が、非線形な世界を線型に理解可能な形に歪めた上で、「理解した」と宣言するという倒錯がここにはある。
この構造は、学校の教室にもそのまま当てはまる。
非線形現象の塊である子どもを、外部の相互作用と遮断した教室という密室に隔離し、入力に対して決まった応答を返す線形システムとして扱えるように管理していく。
子どもの非線形性に寄り添うのではなく、子どもを「線型化」していくことは、暴力的なのであるが、それが、あまりに蔓延してしまっているので、その暴力性には気づきにくい。
暴力性の度合いを強め、子どもに対する管理を強めていくほど、子どもは均質化し、決まった応答を返すようになる。その入力ー出力関係の再現可能性を根拠に、「科学的に」教育システムが成功していることを主張するのが、工業社会における教育システムではないだろうか。
非線形的な語り
先日、私の扉を開いてくれた深尾葉子さんと安冨歩さんの2人とZoomで話をする機会があった。
深尾さんが現在執筆中の論文について議論相手としてお役に立てればということで参加した。
その中で、安冨さんが語っていた言葉
非線形性にこだわって、非線形な語りをしていく。
が、とても印象に残った。
生命論的パラダイムは、非線形現象である生命に寄り添っていくものになる。
そこでは、線型的な理解をするために現実を歪めるのを止め、非線形現象を非線形なまま語っていくことになるはずだ。
人間の頭に理解しやすくするために世界を歪めていく暴力が、地球環境と人間の魂を傷つけている。
線型的な思考からは、地球と魂を癒やす知恵は産まれてこないだろう。
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