Co-Creation(共創)によって自分を輝かせる「森」を作る

教育現場にいて生徒と接すると、多くの生徒が自信を失っていることに気づく。

それが当たり前すぎて気がつくのが難しいほど、自信の喪失は幅広く広がっている。

その原因についてずっと考えてきたのだが、車を運転しているときにある映像が思い浮かんで、すごく納得した。

その映像は、こういうものだった。

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はじめから埋めなければならない箱が与えられていて、それを埋めていくような学習を強要され、周りからは、

「あなたは、ここがまだ白いままだね」

「まだ埋められていない場所があるね」

という声を繰り返し聞かされた結果、どんどん自信を失っていくのではないだろうか。

 

そもそも、この枠組とはなにか?

それは、「日本の労働者」という名前のプロダクト(製品)の規格だろう。

規格を満たしていないところがあると、容赦なく、「不良品」としての烙印を押されてしまうのだ。

 

均質なプロダクトを生産し続ける工場モデル型の教育システムでは、生徒たちは孤立し、旧社会が作り出したヒエラルキーの中でのポジションを餌に、競争に駆り立てられる。

そこで「個性」と呼ばれているものは、他の人と自分を差別化し、他の人よりもヒエラルキーの「上」へ自分を押し上げてくれるアイテムのようなものだ。

 

しかし、このような生き方は、「生き物らしさ」から遠く隔たったものではないか。

農業生物学者の故・明峯哲夫さんは言っていた。→「農業生物学者から教わったこと(1)」

「植物が、植物を育てる」

荒れ地に草が生え、その草が枯れた後の炭化水素を分解しながら土壌生態系が発達し、そこにさらに植物が生えていき、世代を重ねるうちに荒れ地が森になっていく。

誰かから「ポジション」を与えられなくても、自分たちで何かを生み出していく力が生き物には備わっているはずだ。

Competition(競争)ではなく、Co-Creation(共創)へと意識を転換すると、価値観が180度転換する。

それぞれが、思い思いに生長していくのが良いことだと思い、プロダクトとしてのあるべき姿というものを手放すと、「足りていないこと」ではなく、「できていること」に目が向くようになる。

ためしに先ほどの図を少し描き直してみよう。

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ずいぶん印象が変わったのではないだろうか。

ここから、融通無碍に伸びていくことがイメージできるのではないだろうか。

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311の後、旧社会のシステムがこのままでは立ち行かないと感じた人は多かったのではないだろうか。

僕もその中の一人だ。

そのような人たちは、お互いに共鳴し合いながら集まり、新しい社会の在り方を模索している。

手探りで一歩一歩進んでは暗黙知を蓄積し、振り返ってそこから気づきを得て、新しい物語を紡ぎだしている。

そこでは、若い人たちも、年長の人たちも横並びだ。

年長者は旧社会に適応するためのルールを数多く知っているが、新しい社会の在り方を試行錯誤するときに、旧社会のルールは役に立たないからだ。

思い思いに根を張り、葉を伸ばしていった結果、あとからそれが何を意味していたのかが分かるだろう。

大切なのは、根を張り巡らせる勢いであり、葉を繁らせる活力だ。

 

2年間、無我夢中で体と頭を動かしてきた結果、気づいたことがある。

自分で自分を伸ばしていくのは難しいが、他の人を伸ばすのは、それに比べれば簡単だということだ。

自分の価値を知ることは難しいが、他の人の価値を感じるのは簡単なのだ。

だから、自分が感じた価値を、その人にフィードバックしていく。

それが、その人に勇気と自信を与え、行動に勢いが生まれていく。

逆に他の人から「あなたのやっていることは価値がある」と言ってもらえることがある。

それによって、勇気と自信が生まれ、アクセルを踏み込んで突っ走ることができるようになる。

これは、明峯さんが言っていた「植物が、植物を育てる」ということと同じことなのではないか。

このように、お互いに育て合いながら、協力し合って「森」を作っていこうとするときには、「個性」の意味が180度変わる。

『未来が見えなくなったとき、僕たちは何を語ればいいのだろう』を読んでいて、次のような言葉に出会った。

これまで何度も、人々が自分の「色」を見出す必要性について話すのを僕は聞いてきた。それは他者から自分を切り離すための手段としてではない。むしろもっと、信頼できるつながりの手段としてだ。世界は時に言葉ではとらえにくいパラドックスに満ちている。自他の区別や自己完結への欲求を手放すことができたとき、我々は我々自身のユニークな自己に出会うことがある。自分らしさというものが、他者とのつながりから生じるのだ。

かつての僕は、他人と自分とを区別するために自分の「色」というものを出そうとシャカリキになっていた。

しかし、311を経験し、自分というレベルよりも、もっと大きなレベルで何かを変えていかなければならないと思ったときに、行動のパターンが変わった。

自分の行動が、「森」の繁栄に繋がっているという確信が、自分に自信と幸福を与えてくれるようになった。

僕にとっての「森」は、「反転授業の研究」というFacebookグループで、サイバースペースにあって、すごい勢いで繁殖している。

森の繁栄に役立つことは多種多様で、それぞれがそれぞれの仕事を見つけることができる。そこに、「競争社会における差別化」とは明確に異なる自分らしさを見出すことができるのだ。

誰かが作った工場のプロダクトとして不良品検査をされるのではなく、生き物として自分たちの森(コミュニティ)を育てていこう。

自分らしさが何かは、あなたがコミットしている森(コミュニティ)が教えてくれるはずだ。

森が繁栄すれば、森で暮らせるようになる。

森に関わって、森を繁栄させる力こそが、あなたを助けるものとなるはずだ。

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