<未知を読む>ベータ読みを支援する授業

大学生のときに外山滋比古著『読書の方法<未知>を読む』を読みました。

内容の詳細は忘れましたが、読書を、既知を読むアルファ読みと、未知を読むベータ読みに分類していた部分だけは、今でも覚えています。

 

物理を勉強していると、どうにも理解できないことに頻繁に出会います。

頭の中で「分からない!」の大合唱が始まり、そこでストップしてしまいます。

大学生のときの僕は、そういうときに意固地になって「分かるまでは進まないぞ!」という姿勢で臨んでいて、結局、理解できずにあきらめるというようなことがありました。

そんなときに、この本を読んで、自分は、本来、ベータ読みをしなければならない対象に対して、アルファ読みの手法で対応しようとしていたのではないかと気づきました。

これは、結構、当時の自分としては目からうろこが落ちた経験でした。

 

大学院に進み、研究室でゼミをやっていると、学習能力の高い先輩は、「保留して進む」という行動を取るんですね。

僕が、「どうして、●●なんですか?」と質問すると、「それは、進んでみないと分からない」という回答が返ってくるわけです。

「分からない」という状態に耐えて、先へ進むことができなかった自分は、先へ進まずに立ち止まってしまったことで概念構築のチャンスを逸していたのです。

そのことに気づいてから、ようやく、概念構築が少しだけ上手になりました。

物理には、考えて分かることと、丸呑みしなければならないこととがあります。

丸呑みするというのは、言い換えれば、前提を受け入れるということです。

前提を受け入れることによって、はじめて考えることができるようになり、世界が広がり、その世界を十分味わい尽くして、その世界に価値を見出すようになってからようやく、「あの前提は、そんなに悪くないないなー」なんて感じたりするわけです。

しかし、僕は、「丸呑みする」という行為に抵抗感を感じてしまい、拒否していたわけで、スタートラインにすら立てていなかったわけです。

 

予備校講師になってから、「物理が分からない」という生徒と接するようになったのですが、その中に一定の割合で、概念構築がうまくいかない生徒がいることに気づきました。

彼らの頭の中では、かつての自分と同じように「分からない!」という大合唱が鳴り響き、分からないものは受け入れないぞ!という頑なな心が概念構築を阻んでいるのです。

かつての自分もそうでしたが、理系には、自分の内部の整合性を高めたいという欲求が強く、整合性を乱すものを取り込むことに対する反発心を感じる人が多いのです。

その頑なな心をどのように解きほぐし、新しい世界へ誘えばよいのか。

これが、僕のテーマになりました。

失敗と成功を何度も繰り返した後、たどり着いたのは、「物語」と「笑い」でした。

彼らが住んでいる世界に、新しい概念世界を追加するためには、彼らが納得するためのプロセスが必要なのです。

「まあ、丸呑みしてやってもいいか」という気持ちになることが重要なのです。

そのためには、「丸呑みする」ということの意味づけを物語で与えてあげることと、笑いによって気持ちをほぐしてあげることが、本質的に重要だと思いました。

それで、そういう物語を作ることにエネルギーを注ぎ始めました。

 

新しい概念を構築することへの抵抗感をテーマに盛り込んだ物語も作りました。

これは、光が波動性と粒子性を持つという概念を人類が獲得するまでの葛藤を物語にしたものです。

昔、大陸から遠く離れた海の真中に島がありました。その名は「ブツブツ島」。

大陸から離れていたので、実際には、「ブツブツ離島」と呼ばれていました。

その島には、2種類の動物しかいませんでした。

島民は、

茶色でツノがない動物のことを「ウマ」
白黒でツノがある動物のことを「ウシ」

と呼んでいました。

ですから、島民たちにとって、動物を見分けるのは簡単だったのです。

色とツノを見れば、「ウマ」なのか「ウシ」なのかが分かるからです。

ところが、ある嵐の夜、難破船が一隻、流れ着きました。

その中から、一匹の動物がヨタヨタと降りてきたのです。

その動物は、なんと、「色が白黒で」「ツノがない」動物だったのです。

島民たちは、その動物に食べ物を与え、世話をしましたが、
それをなんと呼ぶべきなのか、分かりませんでした。

その動物を前に、島民たちの意見は真っ二つに割れました。

ある者は、その体を指しながら、「これはウシだ!色が白黒なんだから」

また、ある者は、その頭を指して「いいや!これはウマだ!ツノがないんだから!」と言いました。

みな、互いに主張を譲らず、島中が大騒ぎになってしまいました。

そこで、島民たちは、動物を籠に乗せ、長老のところへ相談をしに行きました。

「ほほう、そういうわけか。」

「この生き物が何だか、はっきりさせたい、というのじゃな。」

その動物の目をじっと見つめた長老は、一呼吸置いてから、こう言いました。

「いいか、皆のもの。
ワシは皆よりも長く生きているせいか、我々が知らないものがある、ということを知っている。」

「知らないものに出会ったときには、これまでの分類に無理やり押し込めようとしてもダメじゃ。
新種として認定し、受け入れるのが正しい態度じゃ。」

「よって、ワシが、この動物に名前を与えよう。」

長老は、その動物をなでながら言いました。

「パンダ」

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★解説★

ウマとウシというのが、「粒子性と波動性」に対応します。

運動エネルギーと運動量を持ち、衝突によって相互作用するものを粒子

波長を持ち、干渉するものを波動

というようにかつては、分類してきたのです。

 

そこへ、「衝突も干渉もするもの」というものが現れたのです。

 

人々は、「これは衝突するのだから粒子だ」「いいや、干渉するのだから波動だ」というような議論を数百年続けてきたあげく、ようやくその分類自体を問い直すことができ、光や電子を新種として認定して、「量子」という名前を付けたのです。

 

量子の性質のうち、干渉するという性質は、波動と共通しているので「波動性」といいます。

これは、パンダの性質のうち、ツノがないという性質は、ウマと共通しているので、「パンダのウマ性」と名付けよう!という感じです。

また、量子の性質のうち、衝突するという性質は、粒子と共通しているので「粒子性」といいます。これは、パンダの性質のうち、色が白黒だという性質は、ウシと共通しているので、「パンダのウシ性」と名付けよう!という感じです。

このように考えることによって、矛盾が解消されて、新しい概念である「量子」が考えられるようになったのです。

生徒の頭の中には、おそらく「シマウマ」というイメージが浮かんでいて、それを裏切って「パンダ」とオチをつけたことで、教室には笑いが起こります。

そのときに、心が緩むんですよね。

それで、「二重性」という異質な概念を、パンダといっしょに受け入れてもいいかな~と思ってくれるわけです。

そして、一度、この前提を受け入れてもらえば、そのあとは、論理的に概念を構築できるので、楽なんですね。

新しい前提を受け入れるということは、言い方を変えれば、それまでの思考の枠組を超えるということです。

思考の枠組を出ることは、知的な冒険です。

冒険に出ることで、内部世界の整合性は崩れてカオスになります。

それは、やっぱり怖いことなんですよね。

だからこそ、物語と笑いで心をほぐして、やさしく冒険に誘うことが大切なのではないでしょうか。

このような話を思い出したのは、コンセプチュアルアーティストの杉岡一樹さんとのやりとりにインスパイアされたからです。

杉岡さんは「メタ感覚」が非常に強い方で、やりとりをしていると、それに影響されて、自分のフレームに対する意識が高まってきます。

杉岡さんの記事と合わせて読んでみてください。

「シンボルアートのりんかく」(連載)を読む

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