「準備されたもの」からではなく世界から学ぶ
高校生や受験生に物理や数学をを教えるようになり、もうすぐ20年になる。
彼らの多くは、テストのプレッシャーに晒され続けていて、彼らにとって勉強というものは「テストで点数を取ること」が大きなウェイトを占める。
その中で予備校講師の僕がやってきたことは、簡単に言うと、点数を取れるようにしてあげること。
入試問題の試験範囲という限定された世界の中では、問題のパターンも限られているので、その中である程度、必勝法のようなマニュアルを作ることもできる。
古典物理学の考え方に沿った解法マニュアルを作ることで、入試問題を解けるようになることと、古典物理学を理解することとを両立し、大学生になっても役立つような学び方で物理を学んでもらおうというのが僕のスタンスだった。
だが、最近、入試問題を解けることをゴールにすることが、本当にまずいんじゃないかと思うようになってきた。
どこかの誰かが作った閉じたシステムの中で最適な行動をするということは、そのシステムの維持を手伝い、システムに適応していくこと。
このシステムに依存していて、本当に大丈夫だろうかと思い始めたのだ。
高度経済成長を成し遂げたという成功体験に支えられている工業化社会のシステムは、21世紀の変化の速い知識基盤型社会に対応できない。
しかし、入試制度も含めて、教育システムは工業化社会の伝統を引きづっている。
まずは、自分を包み込んでいるシステムをメタ認知する必要がある。
自分を包み込んでいるシステムをメタ認知するのは、とても難しい。
生まれたときから当たり前のように存在しているものは、ついつい見過ごしてしまい、意識に上らない。
工業化社会に適応して生きてきた自分は、無意識レベルまで、その価値観の残骸が散らばっている。
それに気づくためにはどうしたらよいのだろうか?
方法は、おそらく2つある。
1つは、論理的に突き詰めていって矛盾に突き当たること。それによって背理法的に前提を問い直すことができる。
もう1つは、「他者」と出会って、自分が当たり前だと感じていたことが、実は「他者」にとっては当たり前じゃないという事実を突きつけられること。
この2つの作業を行うことで、当たり前だと思って見過ごしてきたことを、意識上に上げていくことができる。
自分たちを包み込むシステムを認識するための1つの方法は、他の国のシステムと比較することだ。
そうすると、自分たちが当たり前だと思っているものが、他国では当たり前でないという事実に突き当たる。
たとえば、僕たちが小学生のときやっていた運動会の練習。きちんと揃うまで何度も繰り返して行進の練習をした。
朝礼では、教師の号令のもと、「きをつけー、礼」などを行っていた。
これを、6年間行うと、命令に従うことに対する抵抗感がなくなり、当たり前のように言われるままに行進するようになる。
上から下へ命令が通るような仕組みを作りやすくなる。
上から降りてくる命令を、疑問を持たずに受け入れやすくなる。
しかし、最近になって、いろんな学校を見るようになり、「行進の練習」なんてやっていない学校がたくさんあるということに気づいた。
僕の知っているイギリス系、アメリカ系の小学校でSport Meetをやるときは、スポーツの競技を楽しむだけで、行進も、行進の練習もしていない。
彼らは、日本の朝礼のように外に整列する代わりに、体育館の床にあぐらをかいて座る。
教科書はない場合が多く、教師がインターネットから教材をダウンロードしたりして使っている。
学ぶ範囲が決まっていて、それを染み込むまで反復するような勉強ではなく、自分で本やインターネットで調べてくるプロジェクト型の宿題が多い。
一方、中華学校などでは、日本みたいに行進の練習をやっているのを見かけたことがある。
男子は短髪、女子はおかっぱみたいな髪型をしなくてはならないと決められている。
限られた例から判断するのは無理があるが、僕が知っている範囲では、日本の小学校は、欧米の学校よりも、中華学校に近い。
「行進」や「朝礼」は1つの例であり、このようなものは日常生活のいたるところに埋め込まれていて、僕たちの思考に大きく影響している。
それを「日本人らしさ」という言葉でくくって思考停止することはしたくない。
少なくとも、一度、自分の思考レベルに上げて、その意味を吟味して、残すか、捨てるか、自分で判断したいと思っている。
自分が無意識に受け取っているものは、無意識に次世代へ伝えることになる。
僕は、自分が伝えるものには、できる限り責任を持ちたい。
「準備されたもの」だけを使って学んでいるうちは、自分を取り囲むシステムをメタ認知することが難しい。
幸いなことに、今はインターネットがある。
目の前の端末は、システムの外側に直接つながるのだ。
そこには、自分のために準備されていない「生の情報」がいくらでもある。
受け身でいると、「準備されたもの」だけを受け取ることになる。
それ以外のものは、自分でつかみに行かなくてはならない。
自分のために準備されていないものに、自分から直接ぶつかっていこう。
そこに、新しい体験がある。
英語を学ぶ意味は、インターネット以前と比べ物にならないほど大きくなった。
少なく見積もっても1000倍くらいは大きくなったと思う。
世界で起こっていることに、直接、アクセスできるということのメリットは計り知れない。
今は、英文を読むだけじゃなく、SNSでつながり、スカイプで話すことができる。
友達になって、信頼関係を築くこともできる。
数年前、中国で反日デモが激しく行われていると報道されていたとき、僕は、毎週、2人の中国人とスカイプでラングエッジエクスチェンジをしていた。
朝ごはんには、毎日、ゆで卵を食べるとか、最近、オカリナを習い始めたとか、このアニメが好きだとか、そんなとりとめもない話をしていた。
だから、報道よりも、毎週自分が話している相手から受ける印象のほうが、自分にとっては圧倒的な強度を持っていた。
ニュースを聞くよりも、スカイプで「Masato, テレビを見ると悲しいよ。」って泣かれたという事実のほうが重かった。
今は、LCCを使って安価で海外に行ける。
でも、自分の眼鏡(メンタルモデル)を固定したままで海外に旅行に行っても、見たいものを見るだけで終わる。
自分の眼鏡(メンタルモデル)を外したり、取り換えたりすることこそが、自分を大きく成長させる。
その意識があれば、海外に出ていくことはかけがえのない経験になるし、インターネットでもいろんなことができる。
自分からどんどん飛び出していこう。
そして、自分の目で、体で、直接世界を確かめよう。
そういうマインドセットを持った人たちが、どんどん根を伸ばしていけば、そこに生態系が生まれ、自己組織化が起こる。
KnowCloudは、そのためのプラットフォームになる。
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