秩序とカオスとの間にカオスの縁と呼ばれる領域がある。

この領域には、ミクロからマクロまで似た形が連なるフラクタルと呼ばれる構造が生まれる。ここでは、1/fゆらぎ(ピンクノイズ)の音楽が奏でられる。私たち生きものは、まさにカオスの縁において生成され、その場所でゆらゆらとゆらぎながら動的平衡状態を保つ渦のようなものである。

量子生物学者のジム・アル=カリーリやジョンジョ-・マクファデンは、『量子力学で生命の謎を解く』の中で、生物とは、量子現象をマクロへ拡大するものだと主張している。彼らは、生命とは、ニュートン力学などの古典物理学で理解できるマクロな現象と、量子力学で理解できるミクロの現象とを貫いている存在、つまり、量子の縁にいる存在だというのだ。

彼らの説が検証されるには、だいぶ時間がかかるだろうが、私は、とても興味深い考え方だと思っている。量子テレポーテーションのような「奇妙な遠隔作用」を含む量子現象が、生命の本質に関わっていて、量子力学的なミクロ現象が、カオスの縁のフラクタル構造を伝わって、ミクロからマクロへと増幅されていき、生命現象としてマクロに現れているというイメージは、私の生命観とも一致する。マクロの世界で、意識を持たない物質は古典物理学に従うが、自律的に動く生命は古典物理に従わない。その理由が、「生命=量子の縁の存在」ということで、説明がつく可能性があることに、わくわくする。そこから、新しいパラダイムが生まれる可能性があるからだ。

生命の本質に量子力学的な現象があると考えたのは、量子生物学者がはじめてではなく、デイヴィッド・ボームは、量子テレポーテーションを、世界が全体性を持つ証拠の一つであると考えていて『全体性と内蔵秩序』という本を書いたし、量子力学を研究し、その後、ユング派の心理学を学んだアーノルド・ミンデルが立ち上げたプロセス指向心理学も、生命プロセスの全体性を前提にしている。

私は、とりあえずは、生命プロセスの全体性を「あるかもなぁー」と仮置きして生きることにしていて、それらが、カオスの縁でマクロ現象として表面化してくるというイメージを持っている。

しかし、私たちの思考は、流動的な世界に対して、固定的な存在(=物質)や、固定的な動き(=規則)などに意識を向ける性質を持っている。記述可能な部分に注目し、記述不可能な流動的な部分は無視する。そして、固定的な部分に注目して、名前をつけて、記憶に留めようとするのだ。これは、自然界でサバイバルするための機能として、思考が生まれてきたことと関係しているのだろう。

私たちの身体と意識は、カオスの縁で生成しているのに、その結果として生まれた思考は、秩序の領域に王国を作る。その王国は科学を生み出し、ついには、その中に、身体と意識を取り込もうとする。思考は、意識や身体に含まれる部分であるのにも関わらず、部分が全体を含もうとする本末転倒が起こる。それを押し進めていった機械論パラダイムは、自分自身を機械化する試を始め、その結果として、いのちが王国から閉め出されている。

思考が作り出した論理の世界のユートピアは、すべての人間が同じ論理を共通のフレームとして持ち、その中で、すべてが合理的に決まることによって完成する。だが、論理体系の作り方は、いくらでもあるため、どの論理体系で統一すべきかを争う戦いが始まる。ゲーデルが明らかにしたように、どの論理体系が正しいかを論理的に決める方法は存在しない。だから、暴力など、論理以外のものを使って統一しようとするのだ。

また、子どもは、独特の論理体系を作る能力を持って生まれてくる。統一された論理世界を作るためには、子どもに、決められた論理体系を押しつけていく必要も出てくる。そのためには、押しつけようとしている論理体系以外のものから目をふさぎ、逃げ場を無くした上で、自ら論理体系を受け入れていくような教育システムが必要になる。

そのようなユートピアを構築することは不可能であり、破壊的でもあることに、多くの人が気づいてきているのではないだろうか?

一つの論理体系で統一するためには、強大な軍事力を背景に異文化を統合していくという暴力的な行為が必要になる。子どもに均一な価値観を押しつけようとしても、今や、インターネットは外部の世界に繋がっている。多様な情報へのアクセスをやめさせることは困難だ。

私たちは、機械論が描いたユートピアを諦めて、違う方向へ進む必要があるのだ。

 

カオスの縁を住処にする

 

私は、機械論が描いたユートピアを出て、カオスの縁に住み着くことに決めた。その場所で、心と身体と思考を一致させて生きたい。

流動する世界を心と身体はキャッチして、さまざまな形にゆらぐ。固定化することを特性とする思考の内部に、心と身体がキャッチしたものを取り込むと、思考は矛盾を抱えこむ。

機械論パラダイムでは、矛盾は、悪そのものだ。「それは、矛盾だろう!」と言われたら、「参りました!」というしかない世界だ。しかし、考えてみれば、生命は矛盾に満ちているのだ。誕生も、成長も、学習も、論理的に語ることはできない。生きていること自体が矛盾なのだ。だから、開き直って宣言する。

私は、王国の外に出た。ここでは、矛盾は学びの源であり、祝福だ。それを取り囲んで、輪になってキャンプファイヤーをやりながら対話するのだ。

矛盾を生み出しているのは、取り込んだ何かではなく、私の論理体系だ。矛盾は、そこに穴をあけてくれる。

私は、矛盾を抱えたまま、ともに生活する。そうすると、ときどき、思考のリフレーミングが起こり、矛盾が統合されて消える。

しかし、異物を取り込み続けることで、矛盾は次々と生まれてくるから、なくなることはない。

異物を取り込みながら、矛盾を生み出し、リフレーミングをして解消するという運動の中でバランスする動的平衡状態を保つ。それが、カオスの縁に住むということだ。

矛盾を取り込むことを怠ると、思考フレームは閉ざされ、秩序の王国に舞い戻る。矛盾と向き合うことを怠ると、カオスに飛ばされる。それは、体温を36度あたりに保つのと似たようなものだ。

生きることは、カオスの縁で終わらない創造のプロセスを続けることなんだろうと思う。

創造しようなんて思わなくてもいい。

閉じた思考フレームの中で、創造をひねり出すような苦しさは、そこには存在しない。

外から流れ込んでくる異物を受け取りながら、生まれてくる矛盾と遊んでいるうちに、いつの間にかリフレーミングして世界の見え方が変わることの繰り返し。ひねり出さなくても、湧いてくる。

もともと、生きものが住んでいた場所に戻るだけ。

 

機械論の縁

 

機械論パラダイムが、未だ主流を占める世界において、生きものらしくカオスの縁を住処にしようとすると、それ自体が、大きな矛盾を生み出す。

自分の中に生まれる「機械論VS生命論」の対立構造を統合しないと、世界の機械論的な側面を全否定することになり、自分の内部の分断が深まる。「あるもの」を「ないもの」とするのではなく、「あるもの」として存在の意味を与えられるように、文脈を再構成する。

機械論も、生命である私たちが作ったものであることを思い出すと、生命の活動の一部として取り込める。私たちの思考活動の可能性の一つとして捉えられる。ただし、私たちの思考活動には、多様な可能性があり、機械論だけではないということだ。

(1)フレームを作って最適化する。

(2)身体や心がフレーム外部をキャッチしてゆらぐ。

(3)矛盾を解消するようにリフレーミングする。

カオスの縁で生きるとき、私たちは、(1)-(3)をグルグル繰り返す。このように捉えると、機械論は生命論に内包される。

(1)のフェーズに留まり続けるのが機械論パラダイムのユートピアだが、身体や心が反乱を起こすことでユートピアが崩壊し、いのちのはたらきに取り込まれる。

私という「個人」が、自分の内側の矛盾を解消し、カオスの縁に住み始めると、矛盾の位置が、私と機械論的世界の間へ移動する。内側が充足する一方で、市場経済の中で生きる方法が見えにくくなる。

一人で生きられないから、一緒にカオスの縁に住む仲間を募り、与贈工房ができた。矛盾の位置が、個人と社会の狭間から、組織と社会の狭間へと移動する。内部の多様性が増すことで、機械論との境界に幅ができてぼやけてくる。組織は、計画や目標を持たず、各自がゆらぎ、リフレーミングをすることで、タオを見いだして進んでいく。

タオに導かれながら、外部の生命的な組織(ティール組織)とも、今後、出会っていくだろう。そうなれば、機械論との境界は、生命的組織の経済と機械論的経済との間へと移行するだろう。そうやって、カオスの縁に住む人が増え、カオスの縁で生きやすくなっていくのではないか。

 

カオスの縁に校舎を建てる

 

学校教育は、機械論パラダイムのユートピア建立に不可欠なシステムだ。機械論パラダイムを支える標準化された思考フレームを子どもにインストールする社会装置としての役割を持つ。しかし、いのちの本質は、ゆらぎを取り込んでリフレーミングしていくところにある。これが、ロボットと生命との本質的な違いだ。

ゆらぎを排除することで、子どもがリフレーミングしないようにすることは、いのちの発動を抑え込むことであり、人間をロボットの位置に貶めることであると、私は思う。

子どものいのちのはたらきは、あらゆる方法で、機械論パラダイムのユートピアから脱出を試みる。現在、20万人いるとされる不登校という現象は、機械論パラダイムのユートピアから脱出するいのちのはたらきではないかと私は捉えている。

だから、機械論パラダイムのユートピアの外側にあるカオスの縁に校舎を建てたい。そこでは、いたるところにゆらぎがあり、日常的にリフレーミングが起こる。大人も子どもも、様々な異物を取り込みながら、矛盾と向き合って対話し、自分のペースでリフレーミングをしていく。

2018年1月から始まった「自己組織化する学校」は、カオスの縁に校舎を建てる試みだ。

機械論とカオスの縁を往復する人もいるだろうし、ときどき、訪れる人もいるだろう。私は、カオスの縁に住み、訪れる人をもてなしたい。自分の内側の機械論が統合されていれば、あたたかく迎えられる。ゆらいだときにカオスの縁を訪れ、リフレーミングできたら機械論に戻っていくというバランスの取り方もあるだろうと思っている。

パラダイムシフト前夜である現在は、新旧パラダイムが共存している。2つのパラダイムに引き裂かれそうに感じるときもあるだろう。しかし、それは、社会の縮図を、我が身に真摯に反映させているからに違いない。そこに現れる矛盾を統合していくことが、パラダイムシフトを進めていく原動力になる。私も、世界を自分の内側に引き受けながら統合を試みていく。そして、同じ取り組みをしている人をエンパワーしながら、ともに歩みたいと思っている。それは、世界に生まれている様々な分断を癒やしていく試みだと思う。