友人のアーティスト、スギオカカズキさんによると、時間の流れが逆転したのはルネッサンス期からなのだそうだ。
遠近法の発明をきっかけに、完成した状態から逆算して制作していくという方法が生み出されたのだとか。
未来に完成図を思い描き、そこから逆算して計画を立てていくという思考方法は、時間の進む向きを反転させた。
しかし、インターネットが発明されて20年がたち、この思考方法と現実とが合わなくなってきているのではないか。
機械文明を支えてきた機械論パラダイムは、すべてが予定通りに進むことを良しとする考え方だ。
しかし、生き物がもつ魂の躍動は、「予定通り」をはみ出していくところに本質がある。
機械論パラダイムは、魂の躍動の抑制とセットになっている。
だからといって、今すぐ、機械をすべて捨ててしまえと言っているわけではない。
インターネットだって、機械によって支えられている。
僕がやりたいのは、機械論に潜む暴力に気づき、機械論から暴力を抜き去って共存できる形を探したいということ。
機械論に潜む暴力とは、自分自身になることから阻害されること。
社会における役割(=歯車)を果たすことを強く求められ、型にがっちりとはめられていく。
だから、その仕組みに気づいて、型をやぶっていくことができれば、自由になった魂が道具として機械を使えるようになる。
そのために必要なことは、「正直になること」だと思う。
正直になろうとすると、社会的な正解の外側を表現せざるを得なくなる。
そのときになってはじめて、抑圧の存在に気づくことができる。
ひとりで正直になっていくのはつらいし、怖いから、場を創って、その内部で正直になる。
それを繰り返していくと、どこにいても正直にいられるようになってくる。
僕たちは、社会から正解を押しつけられていて、正解の枠の内側をきっちりと埋め尽くすことを求められている。
それができないと、社会人として失格だという烙印を押されるんじゃないかという恐れが蔓延している。
だから、勇気を持って、「ちゃんとやらない」という選択をする。
ちゃんとやるのを止めると、場のプロセスが感じられるようになっていく。
瞬間、瞬間で起こっていることを受け止めて、そこに対して感じていることを返していくことができるようになる。
ルネッサンス以来、反転していた時間が、もう一度反転して、本末転倒の状況が解消されていく。
そのなかで、魂の作動によって、必然的に循環が生まれていくのが、自己組織化だ。
今まで時間を反転させてきたことにも、きっと意味があったのだろう。
そのことによって、多くの学びがあったはずだ。
でも、機械論が極まってしまったことで多くの問題が生じている。
そろそろ本末転倒を反転して、時間の流れに沿って生きることをはじめませんか?
8月26日に、「未来の先生展」で、学びのパラダイムの反転について語りました。
すべての根っ子は同じです。
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